41話 ③篠原柚月パート「うそ!? 鮫津さんなの!?」
「まあまあ。これはこれはあ、どうも御丁寧にい」
野球グランド一塁側ベンチの中、釘裂高校女子ソフトボール部の顧問である剣剛斎己へ、 柚月は信次から預かっていた菓子折りを手渡していた。差し伸べられた斎己の手は細々しく、老人ならではの血管が鮮明に浮き上がっており、本当にこの弱々しい老婆が監督だと素直に飲み込めない。
「……あの失礼ですけど、剣剛先生は本当に監督なんですか?」
信次もそばで微笑みながら見つめるなか、柚月は小首を傾げて告げていた。仮にこのおばあちゃんが監督だとしても、恐らくはフィールディングもまともにできないだろう。それなら尚更、釘裂の部員らはサボる訳である。
できれば違うと返して欲しかった柚月だが、笑みを浮かべる斎己は皺とよく似た細い瞳のまま頷く。
「今年から配属されたのですよお。去年の監督は暴力事件をきっかけに、お辞めてしまいましたからねえ。お嬢さんも、知っているのではないですかあ?」
「ええ、まぁ……」
スローモーションで長々と話し込んだ斎己には、柚月は苦い顔をしながら返答していた。どうやらこの老婆は、本当に監督のようだ。さっきまで自分が連想していた恐ろしい姿とは大きくかけ離れ、拍子抜けと言ったところである。なぜこの人が監督に選ばれたのも気になるところだが、まずはこの環境について問い質したい。
「さてえ、今日はあ、偵察でしたっけえ?」
「その前に、質問なんですけど……」
「あらあ、なんでしょうかあ?」
菓子折りを持ったままベンチに座った斎己の笑顔を、立って見下ろしていた柚月はグランドに目を向けて言葉を続ける。
「ここって、野球部のグランドですよね? それも、なかなか立派ですし。どうして今は、ソフト部が使用してるんですか?」
最後に振り替えって、目を合わせた柚月と斎己。
しかし斎己はふと首を下へと曲げてしまい、笑っては見えたがどこか悲しげな面立ちをしていた。
「一年間の、活動停止処分ですよお。部室でえ、タバコの吸い殻が見つかりましたからねえ」
どうして斎己が俯いたのか。それが理解できた柚月は驚き、瞳を大きく開けていた。
「え……じ、じゃあ、野球部は今、活動してないってことですか?」
柚月は眉をひそめながら再び問うと、残念ながら斎己からは頷き返されてしまう。
「タバコ一本、処分のもと……まったく、無念極まりない思いですよお。これで彼らの、一生に一度の高校生活が、台無しになってしまう訳ですからねえ」
ため息を交えた斎己がどことなく儚げに話したが、柚月は彼女の辛さを察して黙り込む。
高校野球連盟――通称、高野連。
高校野球を取り締まる団体である彼らは、それはそれはとても厳しい目を持っている。高校野球選手たちが何か、法に触れることや校則を破ることがあったら、迷うことなく即刻罰を与える者たちで、団体競技である野球部にはこうした連帯責任を求める。大概は今回のような有期の活動停止処分だが、酷いときには廃部にだって誘いかねない。
なかなか残酷な決定権を抱く団体だと思われがちだが、彼らはスポーツと教育を並べて考える道徳的集団である。
高校球児には立派な青年であり続けてもらい、礼儀ある大人になってほしい。
きっとこのような考えのもと、指導を行っているのかもしれない。
厳しい眼差しのもと努力するのが高校野球部。だからこそ、彼らの表情はいつも堂々としており、甲子園という輝かしい夢へ向かうその姿が、観ている者へ大きな感動を引き起こしているのだろう。
『でも、だからって、一生に一度の甲子園の夢を破壊するなんて……』
高野連の正義に満ちた思惑を知っている柚月だが、正直言うとやりきれない心持ちだった。なぜなら自分だって、一度のミスで夢を失った身だからである。
歯をくいしばりながら俯く柚月は、ふと自身の背中に腰を添えていた。六年前の試合、飛び込んだ際に壁に衝突して引き起こされたこの怪我、中心性脊髄損傷。たった一つの怪我で、自分はソフトボールのプロになる夢を失ってしまったのだ。あのときの喪失感と言ったら、この大ケガとは比にならないほど痛々しく覚えている。それに質の悪いもので、共に背負わされた心の怪我を長きに抱くこととなり、まるで呪いの如く苦しめられる日々が続くのだ。
同じく夢を失った、釘裂高校野球部。過程は大きく違えども、柚月は彼らの悲壮たる思いに同情していた。自分だってあのときは、目の前の世界が嫌いになるくらい嫌気が射す思いだったのだ。これで釘裂の野球部員たちがグレ始めても、変に賛成してしまうそうな気がする。
「篠原?」
「お嬢さん?」
ふと信次と斎己に声を掛けられた柚月は顔を上げ、目を覚ましたかのように我を取り戻す。
「どうした? 突然黙っちゃって……」
「体調でも、悪いのですかあ?」
二人から悩ましい表情を見せられることとなった柚月は、すぐに首を左右に振り、もとの営業スマイルを放って落ち着かせる。
「ところで、練習はしないんですか? 部員のみんなは何もやってませんし……」
柚月は斎己へと言い返していたが、老婆からは嗄れた笑いを受ける。
「いつもこうなんでよお。折角偵察に来てもらったのに、申し訳ありませんねえ」
「練習指示とか、先生は出さないんですか?」
「私は、ボールも触れたことがない素人ですからねえ。全て選手たちに任せっきりなんですよお」
「マジ……ですか……」
笑い続ける斎己をつい呆れそうになる柚月だが、それも無理はない。偵察として伺った釘裂ソフト部が、さっきから変わらずグランドで寛いでいるのだ。もはや何のために訪問してきたのか、自然と忘れさせるくらいである。
「まぁ、野球部のグランドを荒らしてないところは、律儀と言えるわね……」
グランドにもスパイクの跡がほとんど見受けられず、柚月は今回の偵察はどうやら必要なかったと思い、肩をガックリと落としてしまった。
――バシィィッ!!
「え……?」
突如として鳴った音に、柚月は顔を上げて不振ながら辺りを見回す。誰もキャッチボールをやってないにも関わらず、確かにミットで捕球する音が耳に入ったのだが。それも凄まじい速さのボールを捕る音を。一体、どこから鳴らされたのだろうか。
柚月が正体不明の音主を探し回っていると、ふと後方から斎己の小さな笑い声が放たれていた。
「愛華さん、今日も張り切ってますねえ」
柚月は振り返ってみると、後ろで斎己が顔を左に向けている姿が目に映る。そばにいた信次も同じ方向を眺めていたため、つられてライト方向へと顔を覗かした。すると視線の先には、ネットで覆われた野球ブルペンの中に、二人の部員が向かい合って立っていた。
「バッテリーの二人……?」
柚月から見て、背を向けて立つ手前の一人は小柄な身体つきだった。レガースやプロテクターを着用しているあたりは、恐らく彼女が釘裂の捕手なのだろう。
そしてもう一人は、キャッチャーの少女と投球間隔分離れた先に立っており、茶色のグローブを掲げて返球を求めているようだった。キャッチャーの少女と比べて彼女の背はスラッと伸びており、何よりも金髪を揺らしている点が非常に印象的だ。
「へぇ! ずいぶんと速いボールを投げるんだなぁ!」
「ウフフう。愛華さん、笹浦二高と練習試合やるって聞いてから、ずっとあんな感じなんですよお」
二人の監督が呑気にも話し合っていたが、彼らを見つめる柚月はふと耳を疑ってしまう。
「あい、か…………うそ……愛華ってまさか!」
再びブルペンへと向いた柚月は目を凝らし、投手の顔をしっかりと眺めるが、次の瞬間瞳孔が大きく開いてしまった。
「うそ!? 鮫津さんなの!?」
驚きのあまり大声を上げてしまった柚月には、信次と斎己から視線を浴びることとなっていた。
「篠原、知り合いか?」
「し、知り合いってほどじゃないけど……中学が同じだっただけ、よ……」
「あらあ! それなら愛華さんも、嬉しい訳ですねえ」
微笑みを見せつける二人の顧問であったが、一人柚月だけは厳しい表情を貫いていた。自分の目に映っているのは、確かにあの鮫津愛華である。中学では一年生の時に同じクラスになったことはあるが、その分だけ驚きが隠せなかった。
『だって、あんな真面目だった鮫津さんが、今はこんな姿なのよ!?』
「うそ、でしょ……」
真面目で落ち着いて中学校を過ごしていた、鮫津愛華の欠片がどこにも見当たらない。もはや別人と化した彼女からは、禍々(まがまが)しい黒いオーラが解き放たれているようだった。
「あれ? 篠原柚月……?」
動揺を隠せぬまま柚月が眺めていると、ついに自分の知らない鮫津愛華から視線が向けられ目が合ってしまう。唯のように勇ましい面構えを放つ彼女からふとニヤリと笑い返されると、すぐに視線をキャッチャーの娘へと向けられていた。
「なぁ、翔子。もう座ってくれ」
「えっ!? まだ一球しか投げてないよ!?」
「いいからいいから! もう肩は温まってっから、大丈夫だよ」
翔子と呼ばれた捕手は強い口調で言い返したが、結局渋々と座って構え始める。
「本当に大丈夫なの~?」
「まずは、ストレートなぁ!」
「ねぇ聞いてる~!?」
愛華は翔子に目も与えずスパイクの先で地面を掘り、整え終わるとプレートの両端に足を添えた。すると早速セットの構えを見せ、重心を下げた身体を前のめりにさせて右腕を後ろに弾く。
信次や斎己と違って柚月は固唾を飲んで眺めていたが、その刹那、プレートを蹴った愛華の全身が宙を舞う。
「ウ゛ルゥゥア゛ァァッ!!」
バシイィィ――――ッ!!
「そんな……女子なのに……」
柚月が言葉を漏らすなか、愛華から放たれたストレートは凄まじい勢いのまま、キャッチャーの構えたど真ん中へと決まっていた。ミットから舞った砂ぼこりと音がボールの激しさを表現しており、その速さは筑海高校の投手に劣らないストレートだった。
「おおッ!! やっぱ速いなぁ!! 舞園と同じくらいじゃないか?」
「そりゃあ、そうよ……」
相手投手にも関わらず嬉しそう告げた信次に、柚月は俯きながら冷徹に返していた。速球に自信がある梓よりも速いだなんて、そんなこと愛華の投球動作を見ればすぐわかる。
「……だって、鮫津さんのは、リーピングだもの」
怪訝に呟いた柚月は再び愛華と目が合い、不敵な笑みを浮かべられていた。
リーピングとは、投手板を蹴ってジャンプすることであり、梓のように軸足を引きずりながら移動するものとはまったく異なる。リーピングによって一度宙を舞えば、軸足と地面の摩擦がないだけ投球間隔を狭めることができ、ボールを離してからミットまでたどり着く時間を短縮することが可能である。また投球距離が短くなるということは、表面積が大きいソフトボールの空気抵抗が軽減される訳で、よりボールの速さ及びバッターの体感速度を上昇させるのだ。
以前では、リーピングを用いた投球はクローホップと見なされ不正投球扱いされていたが、『2012年オフィシャル ソフトボール ルール』にて新設されて以降、合法的な投球となっている。主に男子では多く取り入れられている投法であるが、一方で女子はなかなか見受けられない投球動作である。
『なぜならリーピングは、足腰への負担が倍増する投げ方だから。筋肉量の少ない女子には向かない、反則的な投法よ……』
しかめる柚月はそう思いながら、返球された愛華の姿を見つめていた。
「じゃあ、次はスライダーなぁ!」
「えっ!? ストレート五十球投げたらじゃないの~!?」
「……」
「いい加減わたしの話聞いてよ――ッ!!」
翔子の叫びも無駄に終わり、愛華は再びプレートを強く蹴って、一度地面から離れた両足を着地させて投げ込んでいく。
バシィィ――――ッ!!
まるでこれ見よがしに投げ込む愛華の投球に、柚月は持参したペンとメモ帳を取り出す。手のひらを机代わりにしながら早速ペンの先を尖らせ、投球フォームの特徴、球種、そして自分が率直に感じた思いを記していった。
時刻が六時半を迎えた本日、夕日が沈みかけているせいで辺りは薄暗い。道路の外灯もいよいよ灯され始めるなか、釘裂高校の正門から信次と柚月が退出してきた。
「いやぁ! 相手ピッチャー凄かったなぁ!! なんか、一球一球に魂が乗り移っている感じが……」
「……先生?」
楽しげに口ずさんでいた信次の言葉尻は、俯く柚月の小さな声で被されてしまう。
「どうした?」
「今日はありがとう。おかげで、充分な偵察ができたわ」
感謝を告げられた信次は温かな笑みを浮かべていたが、柚月はいっこうに厳しい表情のままであり、メモ帳を開きながら信次の後を歩き始めた。今回の偵察に関しては、我ながら良い情報を手に入れることができた。今すぐにでも、部員たちに伝えたいものだ。
まずは、相手ピッチャーのストレートとスライダーの速さ。確かに梓を超えているかもしれないほどの速球と変化球である。
次に、何も練習しなかったバッテリー以外の選手たち。打球を転がせば、チャンスはいくらでもありそうだ。
そして――
パタッとメモ帳を閉じた柚月は顔を前に向け、眉間に皺を寄せていた。
『変わり果てた鮫津さんのことも、忘れてはいけない……』
今回始めて行うことができた、相手チームの偵察。そこにはまったく予想していなかったものだらけだったことを、柚月はしっかりと噛み締めながら釘裂高校に背を向けた。
皆様、こんにちは。いつもありがとうございます。
そんななか、今回からは投稿のやり方を変えさせていただきました。
勝手な思いであることは百も承知ですが、もっと見やすく、もっと読みやすく、もっとわかりやすく、と考えてこの形式に至りました。
前話についても、いづれこの形式に変えていこうと思いますが、ストーリーの変更はまったくございませんのでご案内下さいませ。付け足しは、あるかもしれません。
さて、いよいよ練習試合が近づいてきました。私、練習試合を考えるときは、持っているスコアブックに書き込んで連想しております。これがまたたいへんなんですけど、マネージャー時代を思い出す良い習慣でもあります。決して難しいものではありませんよ。だって、私ができるのですから。
次回もこの形式で、完成したパートはすぐに投稿する予定です。優柔不断で申し訳ありませんが、どうか今後ともよろしくお願い致します。




