41話 ②篠原柚月パート「あ、いたいたぁ……え?」
夕方の五時を迎え、橙たる夕日が雲と町並みを染めている。その中でも、釘裂高校の赤き姿は顕在であり、まるでスポットライトを浴びているかの如く建立していた。
この時間にはなれば、部活動に入っていない生徒たちの姿は見当たらず、開けた校門は無人と化していた。が、そこには笹浦二高の制服を纏った女子と、もう一人怪しげな男が姿を現し、ひっそりと門の前に佇む。
「あのさ、先生?」
「どうした、篠原?」
「それはこっちのセリフなんですけど……」
ふてぶてしく繰り出した柚月は、隣に立つ信次に向かって冷たい視線を送っていた。今回同伴者となってくれたことはありがたかったが、まさかこんな姿でいるとは。
「大丈夫だ、篠原! 御相手様の御菓子も買ってきたところだし、それに偵察となれば、この格好で充分だろう!」
「そこが問題なのよ!」
我慢の限界が来てしまった柚月は、得意気に胸を張ってみせた信次の目の前で大きなため息をついてしまった。確かに、先方のことを考慮した菓子折の準備を怠らないのは、立派な大人として感じる。しかし、それを帳消しにするかのような顧問の服装には目も当てられず、できるならそばにすら居たくなかった。
「先生!?」
「ど、どうした? 何をそんなにおこ……」
「……いいから取って!」
動揺を示す信次の言葉尻を被せた柚月は腕組みをし、厳しい視線を送っていた。突然装飾物を外せと言って理不尽にも思われるだろうが、それも仕方ない。なぜなら、今回偵察すると聞いた信次の服装が、サングラスに大きなマスク、五月には合わない分厚い黒コートと黒ハットを纏っていたからである。
「どっからどう見ても、不審者じゃない!」
「えぇ!? 偵察って、こういうことじゃないの?」
戸惑う信次からは善かれと思って行った行為だと伝わったが、柚月は顔をしかめたまま一歩も譲らない。
「先生がやろうとしてるのは張り込みよ! 今どきそんな警察もいないから! はい、取った取ったッ!!」
「ち、ちょっとぉ~ッ!!」
悲鳴を上げた信次の努力も無駄に終わり、柚月は菓子折りを取り去ると共に、無理矢理マスクとサングラスを引き剥がす。次いでに大きなハットも指先で摘まみ、高ぶる気持ちのあまりフリスビーの如く投げてしまった。すると神様も協力してくれたのか、信次のハットは目の前を過ぎていく軽トラックの荷台へ見事に載り移り、無情にもそのまま過ぎ去っていったのである。
「あぁぁ――――ッ!! あれ、結構高かったのに~!」
「知るかッ!! 教員がなんて格好してんのよ!?」
我が子が遠い地方に飛ばされてしまったかのように、信次は唖然としながら軽トラックに腕を伸ばしていた。だが、もちろんトラックは停車することなく進んでいき、あっという間に曲がり角から姿を消してしまう。
「そ、そんなぁ~……」
悲壮漂わせる信次は力が抜けたように、スーツの膝をアスファルトの地面に着けてしまう。
一方で、信次に呆れて背を向けてる柚月は未だに腹立たしい胸中で、手にあるサングラスとマスクを強く握り締めしていた。隣にいる生徒の自分のことも、しっかり考えてほしい。
腕を止められない柚月はふと信次へ目を当てると、彼の心から落ち込んだ背を見せつけられることとなった。ガックリと肩を落としたその姿勢はあまりにも儚きものであり、少しばかりやり過ぎたかしらとも思わせるほどの狭い男の後ろ姿である。何よりも鮮明だったのは、俯く彼の肩が微動していることだった。まさか、泣いてるのだろうか。
「……はぁ~。もう、悪かったわよ」
膝まずく信次が急に心配になった柚月は身体を向け、渋い顔のまま近づくことにした。自分が何も考えずに投げたハット帽を失って、それほどまでショックを受ける理由は、残念ながらわからない。しかし、相手の物を奪ったと考えてしまえば、それは悪者同然だ。
再びため息を漏らした柚月は、とりあえず謝ろうと思って声を鳴らそうとした刹那、バッと顔を上げた信次が大量の空気を吸い込む。
「じゃあなぁ!! ハトジロウ――ッ!!」
「名前まで付けてたんかい!?」
信次がなぜあそこまで大きなショックを受けていたのか理解できた柚月だが、正直心配していた自分に恥を覚えていた。なぜ自分はこんな教師に同情してしまったのだろう。こんな羞恥心は久々に味わうものだった。
「よしっ! 早速切り換えて、偵察に行こう!!」
すると信次は、さっきまでの様子が嘘のように明るく立ち上がり、軽快な足取りで校門をくぐっていく。まるで何も無かったかのように。
そんな急速自己再生機能を備えた男に、柚月は冷徹な視線を送って猫背になっていた。
「あの人……やっぱ、不審者だわ……」
一応は自分たちの監督であり担任でもあろうが、少なくとも信次に安心して心を置くことができなかった。いや、これからも無理だろう。
信次の恐ろしいほどの立ち上がりの早さに、反って肩を落とすはめになった柚月は仕方なく動き出し、菓子折を持ちながら重い足を校門に向かわせた。
いざ校門をくぐって見えたのは、釘裂高校校舎を背景にした小さな噴水だった。夕日に照らされた水が噴き出すその姿はアクアイルミネーションにも似ており、県立ながら優美さが垣間見える。
一方で、左側には体育館が存在しており、館内からは部活動に励む生徒たちの声が鳴らされていた。また逆の右側では広い校庭が広がっており、陸上部やサッカー部がグランドを占領している。
「割りと、みんな真面目にやってるじゃない」
信次の一歩後ろを歩く柚月は、不思議に思いながら呟いていた。釘裂高校と聞いてまず浮かぶのは、生徒たちの問題行為。警察の御世話になることは日常茶飯であり、時には逮捕者すら輩出される悪名高き高校である。にも関わらず、こうして辺りを見回しても如何わしい生徒が一人も見当たらず、至って普通の県立高校と化していた。
自分が知っているのは誤解だったのかなと考え始めた柚月だが、ふと信次から歩きながら顔を向けられる。
「釘裂だって、悪い連中ばかりではないだろう。それに、今この時間に残るのは、部活動に努力できる生徒たちだ。何も不思議なことはないと思うよ」
「まぁ、そうだけどね……」
信次に対して目を逸らしながら答えた柚月は、相変わらずグランドを眺めていた。奥に立つ時計台は夕方の五時を過ぎていることから、信次の言う通り、残る生徒たちは部活動に一生懸命な者たちだけなのだろう。ストップウォッチを持ちながら全力疾走していく陸上部、丁寧なパスワークを何度も繰り返し練習するサッカー部からは、見ているこちらがエールを送りたくなるほど必死さが伝わってくる。
「何か、興ざめね。もっと危険だらけかと思ってたわ」
「平和であることは、とても良いことだよ。特に教員にとってはね」
背中越しで答えた信次も嬉しそうな様子が伺われるなか、ふと柚月は正面を向いて質問を投げる。
「ねぇ? 肝心なソフト部はどこで練習してるの?」
首を傾げる柚月には、グランドを見る限りソフトボール部らしき団体はどこにも見当たらなかった。まさか、練習していないのだろうか。それでは、折角練習を避けて来た意味が無くなってしまうのだが。
徐々に不安になってきた柚月は眉をハの字にしながら進んでいたが、前を歩く信次から頷かれ、右奥へと人差し指が放たれる。
「あそこでやってるよ!」
「えっ? あそこって……野球部のグランドじゃないの?」
信次が示した先に目をやった柚月には、周囲が大きな緑のネットで囲まれた、校庭から隔離された広いグランドが目に映った。両翼約八十メートル以上はあろうかと観察される広大なグランドにはナイター設備もされており、長年ソフトボールと関わってきた自分には、一目見ただけで野球グランドであることがわかる。
「まぁ野球部も、たいへんらしいからねぇ」
「たいへん?」
ふと声を上げた信次に視線を戻した柚月だが、その後に言葉は続かぬまま歩みを進めていた。野球部に、何かあったのだろうか。別に嫌いな野球部だから、自分としてはどうでもいい話ではあるが。
多少は気にしていたが、考えることを止めた柚月はそのまま信次の後ろをついていくことにした。
誰もいない昇降口を曲がれば吹奏楽部の音色が耳に入るなか、グランド端を歩いていれば、そばを走り去る陸上部の部員たちの激しい息遣いが聞こえる。また歩いていると、小さな花壇のそばで草むしりをする、大きな麦わら帽子と白衣を纏った掃除のおばさんが見えてきた。こんにちは、と背後から軽く挨拶をしてみたが、耳が遠いせいか返事が返って来ないまま通過することとなってしまった。残りの道中では、時折歩みを邪魔するかの如くサッカーボールが目の前に出現することもあったが、気づけばあっという間に野球グランドの前へとたどり着いていた。
「あ、いたいたぁ……え?」
信次の後にネットの入り口をくぐった柚月は呟き、広々としたグランドに座り込む部員たちを眺めていた。ソフトボール独特の半ズボン型ユニフォームを着用しているあたりは、確かに彼女たちは釘裂ソフト部だと理解できる。しかしその見た目は想像を超えており、入場した刹那足が止まってしまう。
『みんな、髪染めてるの……?』
持っている菓子折を落としそうになるほど、開いた口が塞がらない柚月は心で思ってしまった。なぜか準備体操もしない部員たち、数にして七人の姿が目に浮かぶが、その誰もが髪の毛の色を染め上げていた。茶色から始まって銀や橙、それに緑や紫まで存在してるのだ。
「いくらなんでも、派手すぎでしょ……」
さっきまで校庭で活動していた生徒たちが嘘のように感じていた柚月だが、中でも一番鮮明だったのが、赤と青の髪を垂らした、二人の部員らしき人物の後ろ姿だった。校則を破っているのはおろか、同じ高校生として近寄りがたい想いである。
眉をひそめて固まる柚月の先には、赤髪の女子が何やらバットを持ち出してグリップを握っていた。地面にはソフトボールが一球転がっており、そのそばにバットの先を向け始める。
「さぁ~全日オープン最終ホール! ここで浜野美李茅プロが決めれば、見事に今年の賞金女王! 果たして~……」
まるでゴルフの実況を伝える赤髪の選手が伺われるが、柚月は首を傾げて遠くから見つめていた。一体何をするつもりなのだろうか。
大きなマスクを着けた青髪の部員も隣で見守っているなか、浜野美李茅と名乗った彼女はバットの先をボールにコツンと当てる。するとボールは緩やかに前へと進み、予め準備されていたであろう、グランド上の赤いグローブの中に納まった。
「ヨッシャ――ッ!! 美李茅プロ、見事に優勝で~す! ねぇ風吹輝、スゴいでしょ!? いいんだよ~、スゴいって言ってぇ!」
「これ、ゲートボールでしょ……」
自称ゴルファーの女子が嬉しそうにはしゃいでいたが、風吹輝と呼ばれたマスクの少女は冷徹に返答していた。
「何やってんのよ……ただサボってるだけじゃない」
ため息をついた柚月は呆れた視線を送っており、彼女らの行いなど到底検討も着かなかった。グランドに足を運んで練習をしないなど、ソフトボーラーとして恥を知ってほしい。やる気が無いならグランドから出ていけと、今にも叫びたい胸中だ。
もう見ていられずここから去りたいと思った柚月は信次に移動を促そうとしたが、周囲をキョロキョロと何かを探す仕草を示していた。
「どうしたの?」
「あれ~? 剣剛先生はどこなんだろう?」
「けんごう、先生……?」
聞き覚えのない言葉に、柚月は恐らくは苗字であろうかと思っていると、顔を右往左往させる信次が頷く。
「剣剛斎己先生。釘裂ソフト部の監督様だよ。どこにいるんだろう?」
「け、剣剛斎己?」
改めてフルネームを知った柚月は武者震いを見せ、恐ろしさを感じたあまり固唾を飲み込む。何という禍々(まがまが)しい名前なのだろうか。いかにも体育会系の、ゴツゴツとした男性を連想させるものだ。絶対に武道家だろう。
「た、体育の、先生……?」
「いや! 僕と同じ、国語の教師だよ! 電話でお話しただけだけど、結構年配の方だったね」
顔を移し換える信次の言葉で、柚月はより謎に包まれることとなった。まさかの国語教師とはまた驚いたが、自分たちの顧問とは大きく違うように感じてならない。それにあのような釘裂高校生を指導している、しかも長年教師を務めているのだと考えれば、威厳という名の恐れ多さを自然に覚えるものだった。
『一体、どんな人なんだろう……?』
筑海高校の監督である宇都木鋭子もそれなりの恐さを秘めていたが、今回はそれ以上のものだろう。偵察とは言っていたが、軽はずみな気分で来るべきではなかったかもしれない。スカートの丈を、もっと長くして訪れるべきだった。
柚月は冷や汗を浮かべながらスカートを下へ引っ張っていたが、相変わらず信次は呑気な顔をあちこちと向けていた。
「誰かに、聞いた方が早いんじゃない?」
「う~ん……じゃあ、部員の娘たちに聞いてみる?」
「それは嫌! そうね……あ、ほら! さっき見かけた掃除のおばさんがいるじゃない!」
共に辺りを見回した柚月は、先ほど見かけた掃除のおばさんに微笑みを放つ。草むしりで集めた雑草を運びながら、調度こちらに向かってきているとは何ともありがたい。
「あの~! すみませ~ん!」
「ほい~?」
さっきは声を届けることはできなかったが、正面から早速手を振って見せた柚月には反応が返ってきた。
ネットの入り口そばに雑草たちを置いた老婆がついに目の前に着くと、柚月と信次は改めて老婆の素顔を覗くことができた。それはおばあちゃんとも呼びたい気持ちにさせる、たくさんの皺を重ねた優しい笑顔の持ち主であり、荒れ狂う釘裂高校とは何とも似つかない表情をしていた。
これなら話しやすくて助かると感じた柚月は、得意の愛想笑いをしながら質問を投げようとした。
「あの~実は……」
「……あらまあ、笹浦二高の方々ですねえ。お待ちしておりましたよお」
「えっ……?」
しかし、柚月の言葉尻は老婆の柔らかな声に被されてしまい、折角作った微笑みも失ってしまう。なぜ掃除のおばさんが待っていただの告げたのか。
首を傾げながら老婆を見つめる柚月はもう一度質問しようとしたが、隣の信次が高らかな声を放つ。
「その声は、剣剛先生ですね!! はじめまして!!」
「へっ……?」
笑顔で頭を下げた信次に疑問を抱くなか、柚月はまさかと思いながら老婆を凝視していた。
「あ、あなたが……剣剛斎己先生ですか……?」
瞬きを止められずに告げると、老婆はゆっくりと頷く。
「はじめましてですねえ。田村先生、それに、マネージャー様のお嬢さんもお。いかにも私が、この釘裂高校ソフトボール部の顧問、剣剛斎己と申しますう」
「え……ええぇぇぇぇ――――――――ッ!!」
釘裂高校女子ソフトボール部の監督、剣剛斎己とは、腰を丸めた優しい老婆だったのだ。
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