かえってきた携帯電話
本編の完結後の蛇足。
菜摘の母が、長男宏明の高校の入学式の日程に気づいたのは、入学式の一週間前のことだった。
夕食のあとに居間でくつろぎながら、入学手続きで受け取ったまま放りっぱなしにしていた入学案内にやっと目を通したのだ。
何度も見直し、どうしよう、困ったと繰り返しうなり声をあげている。
どうしたの? ってきいたほうがいいのかな。
菜摘がそんな風に思ったとき、母が菜摘の方を向いた。
「四月九日はもう西高始まっている?」
「普通、入学式より始業式の方が早いよ。あ、でも西高も九日入学式だから行ってもすぐに下校だけどね」
母の言わんとすることに察しがついているので少し先回りをして答えた。
「お願い! 入学式に行ってくれない!? どうしても抜けられないのよ」
菜摘の母も夏目の母と同じく働く母である。
年に一度の社内シンポジウムで各部署のプロジェクト発表会があり、その大取りを務めることになっていた。
発表会のために数ヶ月前から準備をしていたし、今までの仕事の集大成でもあったので欠席するわけにはいかない。
もっと早くに入学式の日程に気づいていれば調整もできたかもしれないが、今となっては後の祭り。
「行ってもいいけど、新学期早々学校サボっていいのかなあ」
「サボりじゃないわよ! 担任の先生にはちゃんと言っておくから」
「来なくていいから」
横から口を挟んだのは、この話題の主役であるはずの宏明。
「もう高校生だよ。保護者同伴とかいらないって」
「何言ってるのよ! まだ高校生でしょ! しかもまだ入学前のくせに」
母と姉が口を揃えて却下した。父はまだ仕事中で不在である。
母&姉VS弟
こうなると弟・宏明は無駄な抵抗を止めて退散するしかない。
「勝手にしてくれ。面倒だけは勘弁な」
言い残して居間から避難した。
宏明は判断ミスをした。母と姉が「面倒にならないようにする」なんてことを気に掛けるわけがないのだ。
そもそも何をもって「面倒」と思うかすら、母と姉は気にしていない。知ったことかである。
弟がいなくなったところで、菜摘が切り出す。
「入学式、代わりに行くから、携帯返して」
「そうきたか。やけに素直に頼みをきいてくれると思ったわよ」
「だって借金返せる目途はついてるよ。ちゃんと稼いだもん。お給料日がまだなだけで」
「それでも、きちんと返してくれるまではねえ」
「入学式行くのになあ。いつもと違うことするんだから、何があってもおかしくないのになあ。いざという時に連絡取れなくてどうするのかなあ」
母はしばし苦悶し観念した。
「わかったわよ。待ってなさい」
と居間から出て行き、SIMカードを手に戻ってきた。
菜摘は携帯を手元に置いてそわそわしている。
母はこの期に及んでも
「けじめはちゃんとつけたかったんだけど」
と言う。
「ついてる、ついてる」
軽い口調で返す菜摘。現在、自分の方が立場が強いことをわかっている。
母は、差し出された菜摘の両の手のひらの上にSIMカードをのせた。
「もしも動かなかったら弁償してもらうからね」
SIMカードが長く携帯電話本体から外されている間に、ホコリにまみれて接触不良を起こしていないとも限らない。
もし弁償になったらスマホにしてもらおう。そうすればLINEやSkypeを入れて電話し放題だもの。
パケット代は定額上限に行くだろうけど、ガラケーで通話しまくるよりは安くつくはず。
そんな菜摘の考えなどお見通しの母は言う。
「SIMカードが壊れたらSIMカードだけ再発行してもらえるのよ。その手数料くらいは出してあげるわ」
立場は弱くても母は一枚上手であった。
SIMカードを入れて電源ボタンを押した。懐かしい起動画面が表示され、待受画面に遷移した。
アンテナは三本立っている。時刻表示も二〇一三年四月。ようやく一九七〇年一月一日〇時〇分から脱出した。
携帯電話はSIMカードが抜かれた間に受信できなかったメールを次々と受信した。
マナーモードにしていたので、ひっきりなしにバイブが振動する。
メールを確認するそばからブルブル震えて落ち着かない。
菜摘は真っ先に夏目からのメールの振り分け先フォルダを選択する。
メール一覧の並び順は最新順で、古いメールほど下に並んでいる。
一覧の一番上、一番新しいメールの本文を見た。
『タイトル:おめでとう!
本文:これを読めたということは、携帯が使えるようになったってことだよね』
メールはそんな書き出しで始まっていた。
一覧に戻ると上から下に向かって毎日一通ずつ未読のメールが並んでいた。
マズイ……これは……にやける。
菜摘は母の前でメールを読むのを止めた。携帯電話を両手で大事に握って自分の部屋に行く。
その背中を追う母の声。
「お給料日になったら、ちゃんと返しなさいよ。それから、もう使いすぎないこと」
「わかってる、わかってる。もうコリゴリだもん」
自分の部屋で残りのメールを全部確認した。何度も読み返したりして時間がかかった。
今すぐにでも電話をかけたいところだが、電話をかけるには遅い時間になっていた。
それにメールで返事をしたい気分だった。
夏目が几帳面にも繋がらない携帯に毎日一通ずつ送信したメールは菜摘の宝物。
さあ、どう返信しよう。
考えても名文は浮かんでこない。どんな言葉もありきたりで今の気持ちを伝えられそうにない。
さんざん考えあぐねてメールを送信した。
『タイトル:祝開通
本文:ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノ』
すぐに返信が返ってきた。
『タイトル:手を抜くな
本文:ちゃんと言葉を尽くしてね』
「う。うーーん」
夏目の真っ当な指摘に頭を抱える。考えて浮かぶならばとっくに書いているのに。
いっそのこと電話しちゃおうかな、とも思った。
夏目は確実に起きているのだし、携帯電話があればいつでもどこででも電話をかけられるのだから。
もちろん三分の制限時間アリで。