01
マルセイユに到着した列車の窓の外には、薄い磁器のような色の空が広がっていた。
ドアが開いてから数秒間、ハルは座ったまま動かなかった。周囲では、膝からコートが持ち上げられ、金属製のラックからスーツケースが引きずり下ろされ、狭い通路で肩を寄せ合う人々が動き始めていた。子供が流暢なフランス語で早口に不満を漏らし、母親は彼を見もせずに答えていた。彼女の背後のどこかで、帰省した安堵感を漂わせた男が、親しげな様子で電話に向かって笑っていた。
ハルは両手をそっと膝の上に置き、窓越しにプラットフォームを見つめた。
これはわたしが望んだことだ。
彼女は自分に言い聞かせた。その言葉は、勝利の宣言としては響かなかった。もっと静かで、事務的な、すでに提出を決めていた書類の末尾に署名を添えるような、そんな響きだった。乗客のほとんどが降りてから、彼女はようやく立ち上がった。両手でスーツケースを下ろし、人波の最後尾についてプラットフォームへと降り立った。
駅は、写真で想像していたよりもずっと大きかった。より美しいというよりは、より実体的だった。石、鉄の梁、行き交う人々、頭上に響くアナウンス。その言葉を理解するには、まだ一秒の遅れがあった。マルセイユは彼女を優しく迎え入れはしなかった。彼女の到着に合わせて街が形を整えてくれることもなかった。街はすでに天候と、喧騒と、無関心さで忙しそうだった。
駅の外に出ると、街は広い階段となって下へとこぼれ落ちていた。
ハルはその頂きで足を止めた。
階段は、淡い色の建物のあいだにぎっしり詰めこまれた街路へ向かって下っていた。建物の壁面は時間と風に侵食されている。バルコニーは外側へとせり出し、白や青の洗濯物が細長い帯のように吊るされ、空気のなかでかすかに揺れていた。そのさらに下、交通の波と不揃いな屋根の向こう、ずっと低い場所に、細い海の帯が見えた。
旅行広告に出てくるような海ではなかった。きらめいてもいない。ありえないほど青いわけでもない。歓迎しているわけでもなかった。それは硬く、遠い青だった。
階段を下りはじめると、風が吹き抜けた。風は階段を駆け上がり、頬にかかる髪のほつれを乱した。塩、石、ディーゼル、そしてあとになって朝の魚市場の名残だと知ることになる、かすかな酸っぱい匂いがした。その匂いの無遠慮さに、彼女は不意を突かれた。異国情緒というものは、まずうつくしく感じられるものだと思っていたからだ。だが実際には、それはひどく具体的なものだった。
スーツケースが階段の角に一度ぶつかった。彼女はグリップを握り直し、再び歩みを進めた。
彼女がフランスへ来たのは、悲劇があったからではなかった。
彼女に関わる人間が最も理解に苦しんでいたのは、その点だった。劇的な破綻も、婚約の解消も、家族の不祥事も、あるいは壊れた扉のように人生をこじ開けてしまうような突然の死もなかった。両親は生きている。実家は平凡だった。大学を卒業し、東京の外れにある小さなオフィスでしばらく正社員として働き、請求書を支払い、メールに返信し、蛍光灯の下で一列に並んだデスクに座る同僚たちの名前を覚えた。
なにもひどいことは起きていなかった。
それが問題だったのだ。恩知らずに聞こえそうで、誰にも説明できなかったことだが。
職場は残酷ではなかった。上司も怪物ではなかった。仕事も不可能ではなかった。データ入力、請求書作成、電話対応、一つのトレイから別のトレイへと移動する書類。一日の終わりに、目の奥の微かな痛み以外、世界に何の痕跡も残していないように見えるもの。毎朝同じ電車に乗り、ホームのほとんど同じ位置に立ち、料理をする気力がないときは同じコンビニでおにぎりを買い、許可も得ずに人生が狭まっていくような感覚を抱えながら、同じ青白い街灯の下を歩いて帰宅した。
周囲の誰もが、これを大人になることの自然な形として受け入れているようだった。おそらく、そうなのだろう。その可能性が、失敗よりも彼女を怖がらせた。
大学でフランス語を学んだのは、ほとんど偶然だった。その講義がたまたま時間割に合い、教授は辛抱強く、そしてその言語は最初は美しく非実用的であるように思えた。後に、マルセイユ出身の臨時講師が、その街を絵葉書としてではなく、生きた議論として語った。彼は、パリは賞賛されるために整えられた部屋だが、マルセイユは好かれるかどうかなど気にしない街だと言った。石の階段、海からの風、窓から身を乗り出す老女たち、魚市場、そしてアラビア語とフランス語とイタリア語と沈黙が、謝罪することなく互いに擦れ合う路地について語った。
ハルはその年に学んだ多くのことを忘れてしまった。だが、彼がマルセイユを語ったときのその感じは忘れなかった。
数ヶ月後、雨のせいで外に出るのが億劫になり、デスクで一人で過ごした昼休みの間、彼女はスマホでその街を検索した。最初に出てきたのは、普通のきれいな旅行写真だった。青い海、旧港、丘の上の大聖堂。けれど、そのあとに別の写真が現れた。建物の間に干された洗濯物。狭い路地。剥がれかけた鎧戸。光の中へ下っていく階段。使い古されているからこそうつくしく見える港。
彼女は、思っていたよりもずっと長くその画像を見つめていた。新しい自分になりたいと思ったわけではない。それではあまりに劇的すぎる。彼女はただこう思った。ここなら、毎日が自分に何を求めてくるか、最初からわからずにいられるかもしれない。それだけで十分だった。
だから彼女はお金を貯めた。勇敢でも優雅でもなかった。外食の誘いを断り、服を買うのを先延ばしにし、土日にはアルバイトを入れ、自分でも恥ずかしくなるほど厳密な家計簿をつけた。ビザ、語学学校、アルバイト、シェアアパート、健康保険、パリからマルセイユまでの列車の運賃を調べ尽くした。自分に言い聞かせた。たった一年だけだと。一年なら、正当化できるほど短い。一年なら説明がつく。一年なら、失敗してもやり直しがきく。
日本を離れると言った時、父は反対しなかった。
埼玉にある地方銀行の支店に勤める父の毎日は、電車の時刻表、プレスされたシャツ、押印された書類、そしてあまりに緩やかに積み重なったために、傍目には本人の好みのようにさえ見える静かな義務によって形作られていた。父は冷淡ではなかった。ハルは一度もそう思ったことはない。ただ、父の思いやりはしばしば事務的な問いかけとして届いた。彼女はその言語の中で育ったからこそ、誰よりもその意味を理解していた。
「費用は足りるのか?」と父は尋ねた。
「うん」
「うまくいかないこともあると分かっているか」
「わかってる」
「書類のコピーは取ってあるか」
「ある」
そのとき、父はハルを見た。弱さを探すような目ではなく、かつて黄色い袋に上履きを入れて運んでいた子供が、一人の大人になった姿を記憶に焼き付けるような目だった。
空港では、見知らぬ人が気を利かせて視線を逸らすほど、母はあからさまに泣いた。父は泣かなかった。彼はハルのスーツケースの持ち手を調整し、それから彼女のコートのポケットに、無地の封筒を差し入れた。
「贅沢に使うためのものじゃない」
と彼は言った。ハルには分かっていた。非常用のお金。人生を変えるほどの大金ではないが、パニックを遅らせるには十分な額だった。
「連絡しなさい」と父は付け加えた。「何も問題がないときでも」
それが、彼女に「安全でいてくれ」と頼む、父なりの精一杯の言葉だった。
「春、元気でね」
「うん。いってきます」
彼女はその言葉たちを抱えて、飛行機に乗り、入国審査を通り、南へ向かう列車に揺られ、ついにマルセイユの石段を降りてきたのだった。
アパートは、広告の印象よりも狭かった。とはいえ、騙されたと憤るほどではない。写真は周到に撮られていた。窓は適切な角度から捉えられ、ベッドは清潔な光の下にあり、到着時には存在しなかった花瓶の置かれた小さなテーブルが写っていた。実際には、天井は一隅に向かって傾いていた。簡易キッチンはなんのスイッチも入れていないときでも唸り声を上げていた。ベッドは壁際に驚くほどぴったりと収まっており、シーツを替えるにはかなりの戦略が必要そうだった。
ハルは部屋の中央にスーツケースを置き、じっと立ち尽くした。
部屋には、石膏と洗剤、それから閉め切った窓の匂いが微かに漂っていた。細いワードローブが一つ、ノートパソコンとボウルを置けばいっぱいになるテーブル、電気コンロ、シンク、皿が二枚に、縁の欠けたマグカップが一つ。そして、開けようとすると引っかかるバルコニーの扉。
彼女は力を込めて押した。扉は抵抗するようにいやな音を立てて開き、外の空気が一気に流れ込んできた。
狭い通りを挟んだ向かい側で、老婦人が窓から身を乗り出し、布からパン屑を払っていた。屑は白く散らばり、ゆっくりと回転しながら下の舗装路へと消えていった。礼儀としての本能から、ハルは片手を上げた。
老婦人は彼女を見た。ほんの数秒間、建物と建物の間の空間で、二人は見つめ合った。この街路の古くからの住人と、見知らぬよそ者。この場所に属している置いた住人と、まだ旅の折り目をコートに残した見知らぬ女として。
やがて、老婦人は部屋の中へと姿を消した。ハルは上げた手を下ろした。
「はじまったんだ」
と、彼女は日本語で静かにつぶやいた。自分の声が、部屋の中でひどく小さく響いた。
最初の一週間は、到着に伴う無機質な手続きの中に過ぎていった。
店員が早口で話し、こちらが二度謝ってからようやく苛立ちを見せるような店で、一時的なSIMカードを買った。どの券売機が自分のキャッシュカードを受け入れ、どれが必要以上に大げさに拒絶するのかを学んだ。地図アプリを頻繁に開きすぎたせいで、スマホのバッテリー残量は毎日の不安のひとつになった。県庁を訪れ、三つの行列に並び、必要なコピーの種類を間違えていたことに気づき、翌朝出直し、フランスの官僚制は日本の官僚制よりもやさしいわけではないことを知った。ただ、配置が違うだけだった。
毎晩、出発前に買った小さなノートに日記を書いた。疲労のせいで、文章は嘘偽りのない簡潔なものになった。
2日目:駅へ続く階段は、見た目よりもずっと長い。
4日目:レジの人の言ったことを勘違いして、チーズを追加でトッピングしてしまった。
6日目:港の近くは海の匂いが強い。甘いような、でも甘くない匂い。
9日目:今日、バスの運転手の言ったことがほとんどわかった。
11日目:また不採用だった。でも大丈夫。
完全に平気というわけではなかった。けれど、絶望的というわけでもなかった。
彼女は自分に何度もそう言い聞かせた。絶望という言葉は、今の自分にはあまりに大げさすぎた。手元にあるのは、小さな部屋、合法のビザ、永遠には持たない貯金、そして下手に使う勇気を持ったときだけ上達するフランス語。彼女は、あまりに早く絶望に陥らないよう、規律を持って仕事を探した。
朝、お湯を沸かしながら、用意したフレーズを声に出して練習した。
「すぐに働けます」
「カフェでの経験があります」
「週末も働けます」
「フランス語は上達しています」
最初のカフェでは、店長は履歴書を一瞥して、「流暢な人が必要なんだ」と言った。それは批判ではなく、自然の摂理を述べるような口調だった。二軒目では、すでに内部で採用が決まったと言われた。三軒目では、優しい目をした女性が「こちらから連絡します」と言った。連絡は来なかった。
ハルは、結果の伴わない礼儀正しさのあとにやってくる、小さな疲労感を覚え始めた。それは、手ひどく拒絶されるのとはまた別の疲れだった。厳しさはきらうことができる。だが礼儀正しさは、失望のやり場をどこにも残してくれない。
十五日目、雨が降った。
大嵐ではなかった。雷もなければ、荒れた空もない。ただ、しとしとと斜めに降る雨が舗装路を黒く染め、街をまるで木炭でこすったような色に変えていた。ハルは傘を持たずに出かけていた。朝は曇っているだけで、降ると決めているようには見えなかったからだ。間違いに気づいたときには、すでにアパートから遠く離れていて、手ぶらで引き返すのは自分がばかみたいに思えてためらわれた。
彼女は歩き続けた。雨は髪の生えぎわを伝い、耳の後ろへと滑り落ちた。彼女のコートは濡れた天候には心許なかった。脇に抱えたフォルダの中には、履歴書が二枚残っていた。端が濡れないよう、港の近くの文房具店で買ったプラスチックのスリーブで守られている。そのささやかな準備が、自分でも驚くほど支えになっていた。
彼女は、これまで通ったことのない狭い上り坂へ曲がった。
あとになって、彼女はその道を選んだ理由よりも、その街並みの光景をより鮮明に思い出すことになる。閉ざされたシャッターの並ぶ古い建物、角のパン屋、色褪せた表紙の本が並ぶ閉まった書店、軒下へバケツを避けた花屋。雨は光以外のすべてをやわらかく霞ませていた。
カフェの窓が彼女の目に留まったのは、その光のせいだった。
眩しい光ではなかった。自己主張もしない。ネオンサインもなければ、ブランチを勧める陽気な黒板も、見知らぬ人の撮影用に並べられた派手な菓子もない。光は琥珀色で低く、部屋が自分たちのためにだけに閉じ込めているかのように、ガラスの向こうに湛えられていた。
扉の上には、控えめな字体でこう書かれていた。
Café Lune Noire (カフェ・リュンヌ・ノワール)
ハルは細い庇の下に立ち、雨がその端を叩く音を聞きながら、しばらく佇んだ。扉を見つめ、それから窓を覗いた。中には、黒ずんだ木の棚、小さな丸テーブル、吊り下げられたランプ、そして磨き上げられたカウンターが見えた。客は四人ほどくらいだろうか。誰も急いでいない。誰も特別に楽しそうには見えない。それでもその部屋には、陽気さに頼らない暖かさがあった。
彼女は扉を押し開けた。
小さな真鍮のベルが鳴った。
瞬時に、暖かさが彼女を包み込んだ。
深いコーヒー、柑橘の皮、古い木材、そして甘さの底にある微かな苦い匂い。カウンターの奥からはジャズが静かに流れていた。雰囲気を演出するためではなく、ただそこに馴染ませるための音量だった。トランペットが低いフレーズを奏で、急ぐことなく、どこか物悲しく響いていた。
店内には四人の客がいた。窓際で新聞を両手で広げている男。角の席で、声そのものが雨の一部であるかのように静かに語らうカップル。砂糖はとっくに溶けているはずなのに、ずっとコーヒーをかき混ぜている年配の女性。
カウンターの奥には、銀髪に白いシャツの男が立っていた。袖は前腕まで几帳面にまくられていた。
見上げるほど背が高いわけではなかった。けれど、彼はその場にあまりに静かに、そして完全に馴染んでいたので、ハルはショーケースの菓子よりも先に彼の存在に気づいた。姿勢は真っ直ぐで硬くない。両手はエスプレッソマシンのそばに軽く置かれている。髪の銀色は彼を柔和に見せるのではなく、むしろ顔立ちの鋭さをより際立たせていた。彼は、長年すべてが整えられてきた部屋に、予期せず置かれた新しい物体を見るような目で彼女を見た。
「雨宿りか」
彼はフランス語で言った。声は穏やかだった。歓迎するでもなく、拒絶するでもない。ただ、事実を口にしただけの響き。ハルは指の背で頬の雫を拭った。
「はい」と、慎重に答えた。「それと、コーヒーを」
彼はもうすこし、彼女をじっと見た。それからマシンへ向き直った。どのコーヒーにするかは尋ねなかった。
別の店なら、苛立ったかもしれない。ここでは、それがまるで彼女が異議を唱える権利を得るよりも先に決められたことのように感じられた。
彼の動作には無駄な派手さがなく、正確だった。カップを温め、計量し、粉を詰め、抽出口の下に置く。マシンから濃い琥珀色の液体が磁器のカップへと細く流れ落ち、部屋の暖かさよりも鋭く、峻厳な香りが立ち上った。
彼は彼女の前にカップを置いた。ハルはまず両手でそれを包み込み、その熱に感謝した。それから、砂糖に手を伸ばす前に一口含んだ。
苦かった。
いやな苦味ではない。飲む者に集中を強いるような、そんな苦味だ。その底には、最初の衝撃が去った後にようやく訪れる、深い甘みのようなものがあった。
彼女の表情が変わったのだろう。カウンターの向こうの男が言った。
「先に味わうんだな」
「え……は、はい」
「正しい」
ハルは顔を上げた。褒められたのか、教えられたのか、判断がつかなかった。たぶん、両方だった。
そのときはじめて、彼の視線が彼女の脇に抱えたフォルダへと移った。
「君は仕事を探している」
質問ではなかった。ハルは背筋をわずかに伸ばした。
「はい」
彼はすぐに履歴書を見せるようには言わなかった。あとになって思えば、それは変なことだった。けれどそのときの彼女は、自分の濡れた髪や、精一杯のフランス語、そして自己紹介をする前に自分のなにかを見透かしたようなこの男の前に立っているという事実に、あまりに意識が向いていた。
「経験は?」
「カフェで」と彼女は言った。「アルバイトです。日本で。二年」
「フランス語は?」
「上達しているところです」
彼の瞳に、かすかな動きがあった。おもしろがっているのかもしれなかった。あるいは、ほんのわずかな容認か。
「誰もがそう言う」
ハルの顔が熱くなった。
「はい。でも、わたしは本気です」
今度は、その面白がりがより明確になった。といっても、決して微笑みにまでは至らなかった。
彼は脇へ退くと、カウンターの下から空のカップとソーサーを二組取り出した。それらをトレーに載せ、彼女の前に置いた。
「それをあのテーブルまで運んでくれ」
ハルは彼を見た。依頼は単純だった。断るにはあまりに単純で、聞き返すにはあまりに奇妙だった。彼女はフォルダを一番近い椅子に丁寧に置き、両手でトレーを持ち上げると、彼が指し示したテーブルの方へ向き直った。そこは壁際にある空席で、ほんの数歩の距離だった。それでも、その道のりは実際よりもずっと長く感じられた。木の床が靴の下でかすかな音を立てる。トレーのバランス、磁器の重み、そして老婦人の視線の行方に、彼女はひどく敏感になった。
彼女は音を立てずにカップを置いた。戻ってくると、カウンターの男は彼女の顔ではなく、その手を見ていた。
「思っているよりは、急いでいないな」
と、彼は言った。どう答えればいいのか、ハルには分からなかった。彼はそこでようやく、彼女のフォルダに手を伸ばした。彼女はあわててフォルダから履歴書を一通手渡した。彼がそれを読み込むだろうと思ったが、彼は一番上の名前あたりを一瞥しただけで、中身を精査することなくレジの横に置いた。
「ハル・ササキ」
彼はその名を慎重に発音した。
「はい」
「この近所か」
「歩いて二十分くらいです」
「労働許可は」
「はい」 彼女はフォルダの中のコピーに手を伸ばしかけた。「ここに……」
彼は片手をわずかに上げた。鋭く制するのではなく、その必要はないと告げる動きだった。
「後でいい」
あとで。
その言葉が二人の間に落ち着いた。彼がすでに予備的な判断を下しており、書類上の確認などは後からついてくる些末なことに過ぎないのだ、と言われているような気がした。彼は一度、雨に濡れた窓の外に視線をやり、それから彼女に戻した。
「明日、九時に来なさい」
ハルは瞬きをした。
「面接ですか?」
「仕事だ」
その答えがあまりに素っ気なく届いたので、彼女は理解が追いつかなかった。
「採用、されたんですか?」
「いいえ」と彼は言った。「様子を見る」
それは安心させるような言葉ではなかった。だが同時に、拒絶でもなかった。
彼は彼女の前の空のカップを下げた。いつの間にコーヒーを飲み干していたのか、彼女自身も気づいていなかった。
「明日、九時だ」
彼は繰り返した。
「はい」と彼女は即座に言った。「ありがとうございます」
彼は一度だけ軽く頷いた。感謝は受け取るが、それは必須ではない、という風に。
ハルが外に出ると、雨は細かな霧へと変わっていた。通りはさっきと同じように見えたが、どこか違っていた。坂の下の方でパン屋の窓が光っている。スクーターが猛スピードで通り過ぎ、泥除けから跳ねた水が縁石を叩く。頭上のどこかで、シャッターが開閉する音がした。
彼女は軒下に立ち、もう一度カフェの窓を振り返った。
カウンターの男は、すでに背を向けていた。彼はゆっくりとした正確な手つきで、エスプレッソマシンの周りを拭いていた。彼女の履歴書は、読まれないままレジの横に置かれていた。
なぜだか分からないが、そのことが、この誘いをいい加減なものではなく、むしろ重みのあるものに感じさせた。
彼女は湿った街を歩いて帰り、フォルダをコートの下に抱え、口の中に残る苦いコーヒーの余韻を噛み締めた。
その夜、狭いアパートで彼女は日記に書いた。
15日目:雨のおかげでカフェを見つけた。店主が明日来いと言った。採用じゃない。不採用でもない。
彼女はペンを止めた。それから、書き足した。
コーヒーは最初は苦すぎた。でも、おいしかった。
キッチンからは低い唸りが聞こえていた。窓の外では、向かいの老婦人がカーテンを閉めた。真夜中過ぎ、雨が再び静かに降り始め、気長な間隔でバルコニーの扉を叩いた。
ハルは、思ったよりも長い間眠れずにいた。
恐怖のせいではない。興奮のせいでもない。
なんの儀式もなく、ただ静かに、なにかが開いたのだという奇妙な確信のせいだった。




