観測対象:人間
ソトス。
それが彼に与えられた符号だ。
与えた存在は、もうこの世にいない。
だが、その戦いぶりだけは――今も鮮烈に蘇る。
「敵増援接近! 大規模です!」
「後方は伏兵の波状攻撃で遮断、補給線が維持できません!」
「敵航空戦力、戦線に侵入!」
「第二防衛ライン、突破されます!」
緊迫した報告が、指揮車両内に次々と叩き込まれる。
その中心、戦況を投影するライトビジョンの前で――
男は、腕を組んだまま微動だにしなかった。
冷静、という言葉では足りない。
まるで、すべてが想定内であるかのように。
「各戦線に損耗抑制ドクトリンを適用しろ」
短く、無機質な声。
「押し返すな。誘引しろ。後方の地雷原を使え」
「孤立部隊は撤退させるな。ゲリラ戦に移行、敵の勢いを削げ」
迷いはない。
判断は速く、そして正確だった。
オペレーターたちの動揺が、わずかに引いていく。
命令は前線へと伝達され、戦場が形を変え始める。
やがて結果は明らかになる。
防衛線に押し寄せた敵軍は、戦力で四倍。
それを、ソトスの指揮は崩した。
撃退。
戦史に残る一戦として、記録されることになる。
それでも、男の表情は変わらない。
勝利の余韻も、安堵もない。
ただ静かに立ち、次の戦場を待っている。
まるで――戦いそのものが、目的であるかのように。
「人間の脆弱さは、先に晒した方が敗れる」
それが、ソトス司令の口癖だった。
ソトスは、稀に遠い目をする。
そういう時、決まって過去を見ている。
それは、一人の幼い捨て子だった。
口減らしの果てに、わずかな食料と引き換えに売り払われた命。
広大な廃棄物の山の中で、力尽き、静かに消えようとしていた。
雨が、止んだ。
正確には――遮られた。
頭上に、武骨で巨大な白い盾が掲げられていた。
幼子を守るように。
強靭な機械の腕。
胸部に灯る、赤い単眼。
低く構えた四脚。
白い装甲の塊のような機械兵が、その日から彼の庇護者となった。
「名前はなんて言うの?」
「SAVF-Type-Δ-113」
「そっか。じゃあ、君は今日からデルタだ」
少年は笑った。
「この世界を創った神様も、同じ名前らしいよ」
時は流れ、幼子は少年となる。
赤い単眼の機兵に感情はなかった。
だがこの個体は、言葉の意味を越え、その奥にある意図を理解していた。
それが“異常”であることすら、知らぬまま。
「否定。私は神ではない。戦術機動装甲兵器――デルタだ」
「だよな」
少年は笑う。
「でも俺にとっては、神様みたいなもんだよ」
少年は、デルタから多くを学んだ。
廃品から糧を得る術。
身を守る技。
知識。歴史。戦術。戦い方。
教えられたわけではない。
ただ、見て、真似て、理解した。
やがて少年は青年となる。
その日、平穏は終わった。
スカベンジャー。
生き残るために奪う者たちが、彼らの拠点へと踏み込んできた。
デルタは応じた。
普段の静かな機体とは別物だった。
鋼の腕が骨を砕き、肉を潰し、敵をまとめて吹き飛ばす。
圧倒的だった。
だが――数が違った。
高圧電流が走る。
白い巨体が、わずかに止まる。
その一瞬に、弾丸が降り注いだ。
装甲が穿たれる。
脚が砕かれる。
腕が引きちぎられる。
赤い単眼が――潰れた。
それでも。
デルタは最後まで、青年の居場所を明かさなかった。
青年は、動けなかった。
ただ見ていた。
息を殺し、涙を堪え、
その最期を、目に焼き付けた。
やがて静寂が戻る。
スクラップの山の中に、残骸が転がっていた。
かつてデルタだったもの。
沈黙したコアブロック。
青年は、その前に立つ。
ゆっくりと手を合わせる。
祈るように。
そして思い出す。
あの時、デルタが返してくれた名前を。
ソトス。
後に知る。
その意味を。
――聡明なる子。
やがてその胸に、国史上いまだ前例のない最高位の勲章が輝く日が来た。
長きにわたり軍を率い、かつての小国を大国へと押し上げた立役者。
その名を知らぬ者は、もはやいない。
退役式を兼ねた受勲式典は、国をあげての祝祭となった。
祝福の歌。
鳴り止まぬ歓声。
その中心で、ソトスは静かに敬礼する。
そして――口を開いた。
「この栄誉を、私は一人の存在に捧げたい」
一拍。
場が、わずかに静まる。
「よく目を赤くして、私のために涙を流し」
「白く冷たい肌で、それでも私を守ろうとしてくれた」
「――大きな、私の母に」
「この世でただ一人の、私の母に」
その日。
人々は初めて、ソトスの涙を見た。
英雄ではなく、一人の人間として流す涙を。
息を呑む者。
静かに震える者。
誰もが、その言葉の意味を完全には理解できず、
それでも何かを感じ取っていた。
後の世で、ソトスの名がどのように語られようとも。
与え合った符号は消えない。
贈り合った記憶もまた、消えない。
それは、記録には残らない。
だが確かに、そこに在った。
本作は『観測不能点 ― 名を与えられし変数 ―』のメインテーマに沿った外伝的短編です。
本編小説も公開中ですので、是非お立ち寄りください。




