第八話 妻を守る祓い刀
花魁は外八文字で歩きながら、しゃなりしゃなりと清孝とよりの方へと近づいてくる。
嫁入りに来たと言いながら、廓の所作や装いをする彼女に、りよは強い違和感を抱いた。
「……やはりな。屋敷稲荷と、妙な具合に混ざっている」
清孝が低く呟き、すぐに何語とも知れぬ祝詞を口の内で唱え始める。
次の瞬間――彼の存在感が、ぶわりと膨れ上がった。
周囲の空気がわずかに軋み、場には耳鳴りのような、甲高い音が響き渡る。
女たちの悲鳴が、あたりに満ちた。
ほとんどの者は頭を抱え、その場にうずくまった。
立っていたのは――
花魁と、清孝、そしてりよの三人だけだった。
清孝が右手をすっと祓うと、
空気が軋む音とともに、青白い閃光が走る。
一瞬遅れて、その火は臥した女たちへと燃え移った。
すさまじい断末魔が響き渡る。
彼女たちは、もだえ苦しみながら、
ひとり、またひとりと、崩れていく――
「ほとんどの霊は、これで消滅する……が。
……やはり、一筋縄ではいかんか」
女たちの炎に包まれるその真ん中で、
花魁だけが、涼しい顔のまま、静かに立っていた。
そして、くすくすと――肩を揺らして、笑い始める。
『英五郎さま……お出ましなさいまし。
あちきとの契り、今朝のうちにかわしたあのお約束、忘れたとは言わせんえ。
妻に迎えると、確かにそう――おっしゃったでござんしょう?』
その声は艶やかに、けれどどこか異様に響いた。
花魁はなおも笑いながら、ゆら、ゆらと身体を揺らす。
そして突然、ぐにゃりと四肢を折ると――
白無垢のまま、四つ這いになって地を這い、
赤々と燃えさかる巨大な化け狐の姿へと変貌した。
あまりのことに、りよは思わず息を呑んだ。
その瞬間――絶えず唱えていた祝詞が、ぷつりと途切れてしまう。
『おやおや……そちらさまが、英五郎さまのご細君でござんすかえ?
ふふ……まあ、なんと――ようよう見れば、大したおなごでもござんせんなあ。
これほどの娘が正妻とは……あちきゃ、口惜しゅうてなりませぬ。』
――見つかった!
ぞっとするような視線を感じて、りよは慌てて祝詞を唱え直す。
けれど、花魁狐のまなざしは、もう逸れることなく、彼女に定まっていた。
『あちきゃ、妾でもようござんす、と申したは申したが……
張り合うお方が、こないな小娘とは――
それでいて、ほんに妾扱いとは……
あちき、なんともまあ、なめられたものでござんすなあ……』
狐は飛び上がり、爛れた情念のまま、りよを噛み殺そうと襲いかかる。
だが、清孝が腰に帯びた直刀を抜き放ち、凛とした一閃で受け止めた。
火花と風圧が夜気を裂く。
「あやかし風情が、我が妻を値踏みするとは――笑止千万。
おのれの分を弁えぬなら……直々に、刀の錆にしてくれよう」
そこからは、もはや乱戦だった。
狐が放った火の塊を、清孝は刃で叩き落とす。
そのたび、炸裂する熱と火花があたりを灼く。
彼の神威が膨れ上がり、青白い光をまとって、
禍神の力が鎖のかたちとなって可視化され――
うねるように宙を走り、狐を縛り上げようと唸る。
さらに、清孝の祓火がさく裂。
青白い炎が放射状に燃え広がり、
邸の庭は、まるで地獄のような火の海と化した。
死闘は続いた。
狐は全身に切り傷を負いながらも、四つ足のまま、なおも唸り声を上げて立ち続ける。
清孝もまた、袍の裾や袖は焦げ、冠はいつの間にか堕ち、
額からは滝のような汗を流し、荒い息を吐いていた。
それでも――その双眸は、なお燃えていた。
りよはただ、背後で手を組み、祈るように見守ることしかできなかった。
「……クソ、まだ倒れないか……ならば――」
清孝が咆哮とともに、さらに禍神の力を引き寄せる。
陽の気が限界を超えて飽和し、彼の身に炎が立ち上る。
瞳は青白く輝き、人のものとは思えぬ気配があたりを圧する。
そのまま、狐と組み合い、一つの火だるまとなって渦巻いた――
……そのとき。
りよの脳裏を、何の前触れもなく、ひとつの“声”が打ち抜いた。
理由はわからない。けれど確かに、身体の奥が叫んでいた。
――もう、だめ。
このままでは、彼が彼で――いられなくなる。
内なる声とも、神の啓示ともつかぬその声に、りよは息を呑み、目を見開いた。
「もう――やめてっ!」
りよは叫び、咄嗟に両手を前へと突き出した。
その掌から、ひときわ青く輝く水の塊――巨大な水球が、ぶわりと生まれる。
次の瞬間、彼女はその水球を天へと向け、空へと放った。
水は空中で炸裂し、清めの雨のように降り注ぐ。
同時に、りよの身体から、膨大な陰の気がほとばしった。
炎はたちまち鎮められ、
陽の気に呑まれかけていた清孝と、怒り狂った狐の気配も――
静かに、やわらかく、包み込まれていく。
あたりに、涼やかな気配が満ちた。
まるで、神がその場に、降りてきたかのように。
清孝は、呆然とりよを見つめた。
彼女は――見たこともない無表情を浮かべていた。
威圧感すら漂わせるその貌は、どこか人ならぬものの気配をまとい、
瞳はぼんやりと輝き、身体からは、うっすらと光が漏れていた。
――これは……
清孝が言葉を呑んだ、そのとき。
無言のまま、りよがすっと腕を伸ばし、指先で“それ”を指す。
指先が向けられたのは、狐だった。
清孝は、そこでようやく――自分がまだ戦いのさなかにあることを思い出し、はっとして狐に向き直る。
狐は、なおギラギラとした目で清孝を睨みつけていた。
だが、その身体は、何か見えざる力に縫いつけられたように、ぴくりとも動かない。
そして清孝は、躊躇いなく一閃を放った。
「――祓う」
刀が振り下ろされると同時に、狐の姿は音もなく炎に包まれ、
そして――静かに、消えた。
「……終わり、ましたか?」
りよの控えめな声に、清孝はっと我に返り、彼女の方を振り向いた。
そこには、もう――いつもの彼女がいた。
清孝は、胸の奥に安堵を覚えた。だが同時に、どこか言葉にできない畏れもまた、確かに残っていた。
「……ああ、終わった」
清孝は縁側へと移動し、りよを手招く。
そして、言葉もなく抱き寄せると、性急に唇を重ね――そのまま、彼女を勢いのままに組み敷いた。
陽の気が――あふれていたわけではなかった。
だが、どうしようもなく、焦燥に突き動かされた。
陰の気を奪って弱めなければ、彼女がどこかへ行ってしまうような気がした。
それが陽の気の暴走だと、自分に言い訳をして。
彼は、彼女の肌に触れた。
「はいはい、そこまで。――こんなところで盛らないでくれる?
異能組の沽券にかかわるよ?」
パンッ、パンッと手を叩く音が、静まり返った庭に響いた。
清孝とりよが、ぎょっとして身を起こす。
門扉の方には、提灯を手にした従者を引き連れて、見覚えのある男がニヤニヤ笑いながら近づいてきていた。
篠崎資雅である。
「……別に盛ってなどいない。
戦いで過剰になった陽の気を、発散させようと――」
「へぇ、ほぉ、ふーん……」
きまり悪く顔をそらした清孝に、資雅は遠慮なく追い打ちをかける。
「ま、君がそう言い張るならいいけどさ。
それにしても、君も案外もろいね。契約妻だのなんだの言ってたのに、数日であっさり陥落とは。
斎部清孝という男が、それほどまでに初心だったのか。
それとも、りよちゃんがそれほどまでに、すばらしい資質の持ち主だったのか。
……まあ、君がそうやって“伴侶”を定めてくれるとさ。
これからの“異能の時代”を牽引するには、ちょうどいい象徴になるんだよねぇ。」
資雅は、清孝の鼻先に人差し指を突きつけて、にやりと付け加えた。
「だって、神職が妻をとっかえひっかえなんてさ――
醜聞以外の何物でもないだろ?」
「……私だって、好きで契約結婚を持ちかけたわけでは……ない。これには、事情が……」
りよに聞こえるか聞こえないかの小声で、もごもごと苦しい言い訳をする清孝を、
資雅はひとしきり面白がって笑った。
だが、次の瞬間には表情を引き締める。
「調べたよ、寺久保甚右衛門。案外、その筋では有名な話だったから、子孫に聞くまでもなかった。
今の当主の二代前――文化年間。
その頃まだ“英五郎”と名乗っていた五代目、甚右衛門邦紀が、加島屋の花魁・早瀬と醜聞を起こしてる。
身請けを囁いたが――所詮は、情事のあとの戯れ言。
誠意なんて、最初からなかったんだろうねぇ。
早瀬は、無理心中を図った。けれど――英五郎は、逃げおおせた。
……まあ、あとは、お察しのとおりだよ。」
「では、他の霊どもは……」
「そうだね。たぶん、代が変わっておとなしくなっていた早瀬花魁が――
横谷殿の女癖の悪さに反応して、
同じように非業の死を遂げた遊女たちの霊を呼び寄せた……ってところかな。
ついでに、ぞんざいに扱われて弱っていた屋敷神まで取り込んで、
あとは――まあ、ご覧の通り、暴れ回った……ってわけだ。」
「そうか……屋敷神も、早瀬も、他の女たちも。
私の炎で――焼き尽くした」
少しだけ、哀れみの色をにじませた清孝に、
資雅がふっと目を細めて、意味深につぶやく。
「自分の女を値踏みされて怒って、我を忘れたくせに……よく言うよ」
「ん? 今、何か言ったか?」
「……いや、何も」
しらばっくれた資雅は、手を頭の後ろで組みながら、涼しい顔で続ける。
「そんな“愛妻家”の君に、新しい任務だ。
横谷殿への説明は僕がやっておく。だから、君たちは屋敷に戻って――まずは十分に休息。
それから、りよちゃんに新しい着物をあつらえてあげること!
女中任せなんて論外だし、他の男が関わるなんてもってのほか。
店頭で選んで、君好みの彼女に――ちゃんと、仕立てたまえよ?」