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第七話 狐面の花嫁たち

 支度を終え、清孝のもとを訪れると、彼もちょうど従者に袴の裾を整えられているところだった。

 先日の分社参拝とはまた異なる、格式ある袍姿――

 その凛とした立ち姿に、りよは思わず言葉を失い、見とれてしまった。


「……巫女姿も、悪くないな」


 従者が襟元を整え、礼をして退いたその瞬間、清孝の視線がこちらをとらえた。


「そ、そう……ですか? 私は、一応、既婚者ですのに……巫女姿なんて、変じゃありませんか?」


「私の補佐を務めるのだ。巫女装束であって、何の不都合もない」


 りよは緋袴をそっと指先でつまみ、恥ずかしそうに視線を落とした。

 清孝に「悪くない」と言われたその言葉を、胸の奥で何度も反芻する。


「……資雅め、言葉通りに不足ない相手を用意してきおったな」


 ぽつりと、誰にともなく呟いた清孝が、りよに視線を戻す。


「りよ、こちらへ」


 名を呼ばれ、促されるままに歩み寄ると、清孝はなんのためらいもなく、唇を重ねてきた。


 一瞬、背後に控える従者の気配に意識が揺らぎ、りよの肩がわずかに強張る。


「……集中しろ」


 小さくたしなめられ、りよはそっと目を閉じた。


 唇を、深く、繰り返し貪られながら、身体の奥から熱が昇っていく。

 やがて、全身から力が抜け落ちそうになる頃、ようやく解放される。


 清孝は、ぬぐうように手の甲で自らの唇を拭うと、畳へとへたり込んだりよを見下ろして言った。


「……そなたは感じているか。この邸の、空気を。

 戦で買った恨みや、遊女と火遊びした程度では、ここまで“澱む”はずがない。


「はい……嫌な感じはしておりますが……」


「恐らく、私でも手こずる……かなり厄介な相手が潜んでいる。

 覚悟して臨もう。何はともあれ、横谷殿から話を聞かねば……」


 清孝は、手を差し伸べてりよを引き起こした。

 それから、襖の向こうに控えていたこの邸の使用人へと声をかけ、支度が整ったことを告げる。




「いやぁ、戦はお互い様でしょうに。それを恨むのはお門違いだ。ははははっ」


 応接の間に通され、面会した横田広政は、陽気で豪快な男だった。

 とても、幽霊に悩まされているようには見えない。


「しかしですな、斎部殿のような、由緒正しい神職の方にお越しいただければ……あの者たちも、さすがに成仏いたしましょう」


 ――成仏は、仏の道。神職の務めではないのでは?

 心に浮かんだ疑問に、りよは黙って蓋をする。表情一つ動かさず、清孝の後ろに控えていた。


「今まで、坊主に陰陽師、果ては怪しい拝み屋まで呼んだが――誰ひとり、解決できなかった。

 逃げ出した者もいれば、逃げなかった者の中には、正気を失ったという話もある。


 だがまあ、百戦錬磨の斎部殿ならば……赤子の手をひねるがごとく、ズバッと解決してくださるだろうな!」


「……善処いたします」


 清孝が淡々と返したあと、ふいに視線を横谷へと向けた。


「ところで、横谷殿。こちらの――この屋敷の元の持ち主をご存じか?」


「元の持ち主?」

 横谷は少し顎に手をやり、記憶をたどるように目を細める。


「ああ、ここは、もとは旗本の寺久保甚右衛門殿の屋敷だったな。それが何か?」


「……いえ、参考までに伺っただけです」


 清孝は静かに息をつぎ、続けた。


「では、横谷殿の寝所に結界を張らせていただきます。

 今夜は、そこから一歩たりとも出ないように――

 出た場合、命の保証は致しかねます」


「あ……あい分かった。そなたの言うとおりにしよう……」


 横谷がわずかに顔を引きつらせながらも頭を下げると、清孝はうなずき、従者に目で合図を送った。

 すぐに、術具を収めた木箱が静かに床に置かれる音が響く。


 横谷が去った後、清孝は術具を並べながら、ぽつりと呟いた。


「……まあ、私に“霊を成仏させる”力などないのだがな。

 もちろん、“除霊”とも違う……」


 並べた札を見つめながら、清孝はひとつ息を吐いた。


「そんなこと、あの男に言っても――どうせ分からんだろうが」


「……では、清孝さまは、どうやってこの怪異を治めるのですか?」


 りよは、自分もどうせ巻き込まれるのだ。

 ならばせめて、真実を知っておきたいと、真っ直ぐに問うた。


 清孝は、少しの間だけ沈黙したのち、静かに口を開く。


「――力技、だな

 霊も、あやかしも、所詮は半端な存在にすぎん。

 禍神とはいえ、真の神の力には敵わぬ。

 神の力で抑え込み、邪な心も、無念も、恨みも――

 すべて、我が炎で焼き尽くし、浄化する

 ……それが、私のやり方だ」


 それから、清孝はりよの方へ目を向けた。

 視線を絡ませたまま、指先を伸ばし、りよの頬にそっと触れる。

 その指が、輪郭をなぞるようにゆっくりと這った。


「――だから。

 そなたを得た今、私は、どんな相手にも臆することなく、

 禍神の力を――この身に降ろせる」


 清孝の指が、りよの唇をなぞる。

 やがて、その指先はわずかに口内へと差し込まれ、

 彼女の舌を、淡々と、弄んだ。


「そなたの陰の気を補いながらならば、

 禍神がもたらす陽の気に呑まれることもない。

 いくらでも、行使できる――」


 指が静かに離れたとき、

 清孝の声音は、ひどく低く、ひどく冷静だった。


「……すべては、そなたにかかっているのだ」


 艶めいた気配すら纏わぬまま、清孝はただ、鋭い視線でりよを射抜いた。


 その冷たさの中でも、わずかに早まった鼓動――

 含んだ吐息の熱に気づき、りよはひそかに、自分を恥じた。




 準備は整い、時刻は夜半をまわっていた。

 月はすでに沈み、あたりは深い闇に閉ざされている。


 清孝に守りの札を手渡された横谷家の家人たちは、松明を掲げ、屋敷の周囲を警戒していた。

 何か異変があれば呼子を鳴らし、即座に邸内へ避難する段取りである。


「もう、子の刻ですね。……丑三つ時まで待たなければ、出てこないのでしょうか」


 縁側に並んで腰を下ろしながら、りよは手持ち無沙汰に清孝へと声をかける。


「さあな。そういう傾向は、確かに強いが……」


「そういえば――この屋敷の元の持ち主を、お聞きになっていましたよね。何か理由が?」


「ああ。少し、思い当たる節があってな。

 今、手の者に調べさせているが……おそらく、間に合わん。

 それでも、事が済んだ後でもわかれば、後始末の段取りもしやすい」


「……そうなのですね」


 りよは、分かったような、分からないような気持ちで相槌を打った。


 その瞬間――

 あたりの空気が、ズン、と重くなる。

 隣にいた清孝の雰囲気が、ゆるやかさを失い、ぴたりと張り詰めた。


 りよも、肌を撫でる“異”の気配に気づき、とっさに背筋を正す。


 表門の方から、呼子の音が鳴り響いた。

 甲高く、鋭く、空気を裂くように。


「……お出まし、だな」


 清孝が、低く呟いたのとほぼ同時に、

 横谷家の家人たちが、次々と邸内へと避難してくる。


 清孝は立ち上がり、迷いなく表門の方へと歩き出した。

 りよも、その背を追いかけるように続いた。


 あたりは、生ぬるい空気に満たされ、水分を含んだ風が肌をなぶる。

 心なしか、生臭い匂いが鼻をかすめた。


 表門は、確かに固く閉ざしていたはずだった。

 それが今、ズズッ……ズズッと、音を立てて――

 錠のかんぬきが、ひとりでに抜け落ちていく。


「りよ、来るぞ。教えた祝詞を、絶やすなよ」


 清孝の声に、りよは無言でうなずいた。

 その返事を聞くより早く、門は軋みを上げて、勝手に開き始める。


 やがて門が開ききると、白い人影が――

 ゆっくりと、何人も、敷居をまたいで庭へと入ってきた。


 女たちは、みな純白の花嫁衣装をまとい、狐面で顔を覆っている。

 裾や袖に縫い留められた鈴が、歩みとともに、もの悲しげに鳴った。


 二十人を超えたころだろうか。

 庭先に立ち尽くす白無垢の女たちが、ぴたりと足を止め――

 一斉に「シャン」と鈴を鳴らし、表門の方へと向き直った。


 その静寂の中、また鈴の音が響き始める。

 そして現れたのは――白無垢をまとった、ひときわ艶やかな花魁だった。


 やはり狐の面で顔を覆い、衣のあちこちには鈴が縫い留められている。

 髷は伊達兵庫。だが、それはとても古めかしく、

 りよにも、現世のものではないとわかるほどだった。


『あちきの年季、ようよう明け申した。……英五郎さま。早瀬、今宵こそ迎えに参じとうござんすえ』


 頭の内側に直接響いてくるような、不思議な声音。

 それは、りよの耳にも、はっきりと届いていた。

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