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第五話 背守りの妻

 次の朝、りよが目を覚ますと、襖はすべて開け放たれ、外から一番遠いこの座敷にも、朝の淡い光が差し込んでいた。


 ぼんやりと天井を見つめながら、昨夜の出来事を順にたどる。

 神社でのあの出来事、そして――屋敷に戻ってからのこと。


 はっとして、布団のわきに目をやると、そこには座ったままの姿勢でうなだれ、眠り込んでいる清孝の姿があった。


「……清孝さま?」


 起こしてしまっていいのかと迷いながら、そっと声をかける。

 すると、彼のまぶたがかすかに震えた。


 やがて、低くうめいて目を覚ました清孝は、ぼんやりと周囲を見回し、舌打ちをした。


「禍神め……すぐそこまで来ていたか。襖を、すべて開け放つとは……」


 りよが怯えた顔をすると、彼ははっとして、彼女に視線を向けた。


「……大丈夫だ。あれはもう去った。ひとまずは安心していい」


 そう言うと、清孝は首や肩を軽く回し、凝り固まった身体をほぐした。


「……もう、来ないのですか?」


 おずおずと問いかけたりよに、清孝は静かに頷いた。


「ああ。奴は、日のあるうちは――天津神や国津神の御力に抑えられ、姿を現すことはできぬ。

 夜が来るまでに対策を施せば、もうそなたを見つけることはないだろう」


「そう……ですか。あれが、清孝さまが封印している神様なのですか?」


「正確には、現当主――私の父が封じている。

 私も補助的には関わっているが……あくまでも補佐だ。

 その神の力を借りるために、縁を結んでいるにすぎん」


 そう言いながら、清孝は布団の上に身を起こしたりよに、するりとにじり寄ると――そのまま、彼女の身体を抱きしめた。


「……疲れた。身体が火照って、仕方がない」


 耳元に落とされた低い声に、りよの背筋がひくりと震える。


「……どうぞ。私を、お使いください……」


「うむ……わかってきたようだな。」


 清孝は満足そうに言うと、彼女の唇に口づけながら、そっと布団へと押し倒した。

 彼の身体は異様なほど熱く、陽の気が過剰とはこういうことかと、りよはぼんやりと思う。


 そうしてしばらくのあいだ、唇を重ね、肌に触れられていると――

 やがて、彼の呼吸が落ち着き、規則正しい寝息が聞こえてきた。


 ――この人は、私を守ってくれた……。


 清孝の身体の重みを感じながら、りよはぼんやりと天井を見上げていた。


 ――神にさらわれそうになったとき、袖で隠してくれた。

 抱いて屋敷まで戻って、結界を張って、一晩中、祝詞をあげてくれた……。


 ――私を、必死で守ってくれた……。


 りよはそっと腕を上げ、清孝の背にまわす。

 着物の裾からは、焚き染めた香の匂いと、うっすらとした男の汗の匂いが混じっていた。


 ――一年だけだけど……

 精いっぱい、この恩を返し、この人に仕えよう。


 たまらない気持ちが胸の奥からこみ上げてきて、

 りよは抱きしめる腕にぎゅっと力をこめ、胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。



 +++++



「“背守り”なんて、子どもじゃないんだから」


 芳乃は、針を動かしながら不平を漏らした。


 家事が一段落した昼下がり。女中三人が集まり、りよの着物の背に、複雑な刺繍を施している。


 それは本来、幼子が死霊に取られぬための守り刺繍だ。

 神に目をつけられたりよの目くらましのため、清孝が図案を組み、まじないとして女中たちが手分けして急ぎ施している。


「しかたないだろ? 奥さまが神様に目を付けられちまったんだからさ。

 こんな刺繍で守れるんなら、安いもんだよ」


 年上の女中が、笑いながら言った。


「神様に目を付けられるくらい、すごい奥さまがいらっしゃったってことだよ。

 めでたいじゃないかい。初夜の後だって、顔色ひとつ変えなかったんだろ?

 あんな豪気な花嫁さま、そうそうお目にかかれないよ」


 別の女中が感心したように言うと、芳乃は唇を尖らせる。


「でもさ、本当に“共寝”だけだったのよ? することは、してないじゃない。あんなの本当の奥さまって言えると思う?」


「ああ、あんたが見届け役だったんだね」


 年上の女中がくすくすと笑いながら続ける。


「でも、肌に触れて口吸いなさったんだろ?

 普通の娘なら、それだけで二、三日寝込んでもおかしくないよ。

 それに、若様は朝まで奥さまと添い寝なさってたんだろ?

 よほど情が湧いたんだろうねぇ――

 もしかしたら、あの方が“本妻”になられるかもしれないよ」


「まさか。“最初の妻”が“本妻”なんて、聞いたことないから。

 それに、若様ははっきりと――『情はない。一年の契約だ』って、おっしゃってたのよ」


 芳乃は言いながら、乱暴に針を進めた。


「それはあんた、“決まり文句”ってやつだよ。

 ……まあ、あの若様なら、本当に奥さまを憐れんで、そう言ったのかもしれないけどね」


 女中のひとりが、ふと針目を見て声を上げる。


「って、芳乃。そんなんじゃダメだろ。心を込めて縫わなくちゃ」


「……いっそ、あいつ、神様にさらわれちゃえばいいのに。

 そうすれば、私の番がもっと早く来るのに」


 芳乃は糸をほどきながら、不満をこぼした。


 すると年上の女中が、ピシャリと声を上げる。


「あんた、まだそんなこと言ってるんかい。いい加減におし。

 滅多なこと、言うんじゃないよ。

 お嫁さまの身に何かあったら、私らがタダで済まないんだから」


「はーい……」


 間延びした返事をして、芳乃は再び針を取った。


 彼女が刺繍しているのは、何枚かある巫女装束のうちの一枚だった。

 何度も針を刺し、糸を抜いた布地は少しよれていたが、芳乃は気にも留めない。


 そして、最後の仕上げにかかる。


 ――もし、捕まりそうになった時。

 糸が抜けて、逃げられるように。


 そう言って、伍女は口を酸っぱくして言っていた。

「止め結びは、してはならぬ」と――


 だが芳乃は、迷わず針先に糸をかける。


 小さく、しっかりと玉止めし、

 さらに縫いっぱなしに見えるよう、上から細工を施した。



 +++++



「清孝殿、このたびはご婚礼、おめでとう。いやはや、新時代に実にめでたいことだ。

 さて――新婚早々で恐縮だが、さっそく依頼が舞い込んでいる。

 我々が新政府内で異能の価値を示すには、絶好の案件だ。

 君が“嫁取り”を済ませた今なら、かつてよりも、ずっと容易く処理できるはずだろう?」


 女中たちがせっせと背守りの刺繍に精を出している頃、別の座敷では、清孝と一人の若い男が向かい合っていた。


 その男は、式内社荒積神宮の神職にして、新政府神祇官局の新進官僚――

 篠崎資雅(しのさき すけまさ)といった。


 明治元年の神仏分離令に始まり、廃仏毀釈の嵐が列島を覆う中で、

 彼は「富国強兵」の志のもと、神道と異能を融合させ、旧時代の“あやかし”や“鬼”を制御することで、新政府内における異能政策の存在感を高めようとしていた。


「資雅殿……私の嫁に、問題が起きた。

 斎部家の荒魂――禍神に、目を付けられたようだ。

 目下のところは、捕られぬよう対策を講じてはいるが……

 これが私の異能に、どのような影響を及ぼすかは、まだ未知数だ」


 深刻な表情で告げる清孝に、資雅は一瞬考え、それからにやりと笑った。


「ほう。荒魂に気に入られる嫁か――それは、まったくもって行幸じゃないか。

 我が篠崎家であれば、そんな稀有な嫁御が来たとなれば……一族郎党、諸手を挙げて大歓迎だよ」


「……そうなのか?」


「……そうとも。我が家が荒魂を、いまや主祭神として祀るに至ったのは――

 まぁ、“そういう因縁”を、代々繋いできたというだけの話さ」


 資雅は茶を口に含み、意味ありげに笑った。


「むしろ、封じたまま力だけを搾り取る――

 斎部家の手法の方が、よほど大胆で、畏怖すべきだと思うけどね」


「……斎部の実態を知ったうえで、よく言う」


 睨む清孝を、資雅は軽く笑っていなした。

 茶碗を音もなく卓に置くと、肩をすくめるように続ける。


「まあ、君の事情は――ひとまず措くとして、だ。

 陸軍・海軍両省が発足したばかりのいま、

 我々“異能組”が正式な部隊として認められるには、何より“実績”が要る。」


 今度は、茶菓子をひとつ口に運びながら――資雅は、涼しい顔で続けた。


「もし、あの“嫁御”に何かあったとしても……

 我が篠崎の縁者から、代わりを数名見繕う用意もある。


 ――頼まれてくれるだろう?」


 有無を言わさぬ笑みを浮かべる資雅のしたり顔に、清孝は言いようのない不快感を覚えた。

 ……だが、その正体については、踏み込んで考えたくなかった。


「……依頼の内容を、聞かせてもらおう」


 眉間に皺を寄せたまま、不機嫌を隠そうともしない清孝に、

 資雅は面白そうに口の端を釣り上げた。


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