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第三話 そっと手のひらに光

「伍女さん、少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 食事を終えて膳を下げようとしていた伍女に、りよは思い切って声をかけた。


「何でございましょう。わたくしに答えられることであれば、何なりと」


 伍女は、持ち上げていた膳を再び下に置いて、りよの方へ向き直った。


「あの……芳乃さんは、斎部家のご縁のある方なのですか? 

 行儀見習いとして奉公に上がった、とおっしゃっていましたけれど……」


「あの子のことを気に入ってくださったのですね」


 伍女はふっと目を細めた。どこか優しげな、思い出すような表情だった。

 どうやら、りよの問いを好意と好奇心から出たものだと、受け取ったらしい。


「ええ、あの娘は斎部家の分家筋の養女でございます。

 もとは町場の生まれ――ですが、水を操る異能が現れたため、こちらから申し入れ、引き取ったと聞いております」


 りよは、伍女の親しげな様子に少し安心して、もう一つだけ踏み込んでみることにした。


「そう……なのですね。さきほど、芳乃さんに水の異能を見せていただきまして。

 こちらのお家では、皆さん、異能を使えるものなのでしょうか?」


「いいえ、皆というわけではございませんよ。

 屋敷の者の中では、半数ほどでしょうか。

 ただ――斎部の血を引く方々は、皆、火の異能をお持ちです」


 伍女は、相変わらずやわらかな笑みを浮かべたまま、静かにそう答えた。


「火の異能は……水の異能を、必要とするものなのでしょうか」


 思わず、りよはぽつりと呟いていた。


 清孝は、“陰の気”をりよから摂取すると言っていた。

 そして芳乃は、自慢げに“水の力”を誇っていた。


 陰の気――あれは、水の異能のことだったのだろうか。


「いいえ」


 伍女の声は、やわらかく、しかしはっきりとしたものだった。


「相反する異能の力を、必要とすることはございません。

 ……もし“お役目”のことがお気になっておられるのなら――どうか、若様にお尋ねくださいませ。

 きっと、奥さまには……きちんとお話しくださいますから」


 ――嘘。あんなに冷たい態度なのに……?


 喉まで出かかったその言葉を、りよはぐっと飲み込む。


「……そうしてみます。

 引き留めてしまって悪かったです。ありがとう」


 そう口にして、そっと会話を終えた。



 部屋にひとりきりになり、りよはそっと自分の手を見つめた。


 生家では、異能は“穢れ”だった。

 口にすることも、使うことも禁じられ――ただ、ひたすら閉じこめてきた。


 けれど、この家では、奉公人ですら異能を使っている。

 芳乃にいたっては、それを誇らしげに見せびらかしていた。

 妻としてのお役目に、異能が必要だとは言われていないが、

 きっと、何らかの役には立っているのだろう。


 何かの縁あって嫁いだのだから――せめて、自分も、ここで役に立ちたい。


 ――父上さまには、禁じられていたけれど。

 この家では、もしかしたら……求められる力なのかもしれない。


 十数年ぶりに、己の異能に、そっと意識を向けてみる。


 長く閉ざしてきた“見えざるものを見る目”を、ほんの少しだけ開いて。

 りよは手のひらに、静かに水を集めた。


 それは拍子抜けするほど自然に――

 幼いころのように、すんなりと、すくい上げた水が形を保ち、宙に浮かんだ。


 やはり、私は……この力に、向いているのだろうか

 ――あの頃、父にそれを言えば、ひどく叱られたのに。


 耳元には、吹き渡る風の音のような、かすかな囁きが聞こえ始めていた。

 ふと庭に目を向けると、石影や葉陰に――小さな者たちの姿が、ちらちらと見え隠れしている。


 ――やっぱり、私は封じていただけで、失ったわけじゃない。

 りよはそっと手のひらに意識を戻し、水球をふわりと大きくしたり、形を変えたりしてみる。


「奥さま、若様がお呼びです」


 やがてふすまの向こうから、芳乃の声がした。

 りよははっとして、手のひらの水を慌てて霧散させた。


 

 清孝は、文机だけがぽつんと置かれた、自室で待っていた。

 案内してきた芳乃は早々に下がり、りよは彼と、二人きりになる。


 縁側の障子は開け放たれ、ぬるい風が吹き抜けるたびに、木の葉の照り返しがちらちらと畳に揺れていた。

 彼の着ているのは、紗の縮の着流し。淡い色味が、見ているだけで涼しげに映る。


「……ここへ」


 短く発せられた声とともに、清孝は自分の向かいに敷かれた座布団を指し示した。

 りよは黙ってその前に進み、静かに膝をつく。


 昨夜の冷たい言葉が、どうしても胸の奥をよぎる。

 身体は知らず知らずのうちに強張っていた。


「……よく眠っていたな」


 その声音に、嘲りは感じられなかった。

 けれど、りよは反射的に頭を下げてしまう。


「……旦那様が起床なさったのも気づかず、申し訳ございません」


 清孝は、少しだけ首をかしげた。


「怒ってなどいない。昨日の今日だ。

 それに……初めての夜の務めだったのだ。無理もない」


 淡々とした口調のまま、彼の視線がりよに向けられる。


「――どこか、身体に異変はないか?

 痛み、だるさ、違和感でも構わない。

 おかしなところは、ないか――おまえが壊れていなければ、それでいい」


 まるで、本当の初夜があったかのような口ぶりだった。

 その穏やかな問いかけに、りよはかえって混乱する。


「……どこも、ございません」


 ――そのようなこと、一つも、なさっていないくせに。


 思わず口をついて出そうになった言葉を、りよはぐっと飲み込む。

 静かに、けれど確かに、首を横に振った。


 それを見た清孝は、あごに指をあてて、ふむ、と小さく考え込んだ。


「そなたには、相当な量の陽の気を渡し、陰の気を奪ったというのに――

 まったく異常が無いのだな?」


「……ええ。意味はよくわかりませんが」


 りよはいぶかしげに眉をひそめる。

 清孝はしばらく黙ったまま何かを考え込んでいたが――


 やがておもむろに立ち上がり、彼女の前へと歩み寄る。

 そして、昨夜と同じように、彼女の唇に、自分の唇を重ねてきた。


「――っ」


 明るい昼間の室内でのその不埒な行動に、りよは羞恥で顔を真っ赤に染めた。


「なっ、何をなさるのですかっ!」


 立ち上がらんばかりに身を引いたりよに、清孝はまったく動じる様子もなく、涼しい顔のままで言った。


「どうだ? 気分は悪くならないか? めまいは?」


「ありませんっ! でも――」


「昨夜も言っただろう。これも妻の務めだ。

 早々に慣れてくれ。……で、何ともないんだな?」


 清孝はさらりとそう言うと、元いた座へ戻る。

 羞恥で顔を覆っているりよに、ちらと視線を投げかけた。


「はい……。でも、これは、いったい何なのですか……」


 りよの声は戸惑いに満ちていた。


「斎部の当主は、代々その役目のために、体内の陰陽の気が乱れる。

 とりわけ陽の気が強くなりすぎる傾向がある」


 清孝は淡々と告げる。


「妻はその調整役だ。女はもとより、陰の気が強い。

 夜な夜な肌を合わせることで、過剰な陽の気を受け渡し、

 不足している陰の気を補ってもらう――それが“夫婦の務め”というわけだ」


「……それで、口吸いを……」


 りよはそっと手を下ろし、自分の唇をなぞった。


「陽の気を渡され、陰の気を奪われた女は、均衡が乱れて体調を崩す。

 ましてや最初の妻は、私が生まれて以来、蓄えてきた余剰の気を一度に受け取ることになる。

 運が悪ければ……命を落とすことすら、ある」


 清孝は淡々と語った。しかし、その視線にはわずかに疑念が宿っていた。


「だが、そなたは――芳乃や伍女に聞いても信じがたかったが……

 まったくもって、平気なようだな」


「……ええ。このとおりにございます」


 もう、どう反応すればよいのか、りよ自身にもわからなかった。

 思わず、自分の身体をひねってみる。けれど、どこにも異常は感じられない。


「まあ、異変が無いのは何よりだ。

 この分だと、今日のうちに挨拶詣りに行けるだろう。……すぐに出かける。準備をしなさい」


 清孝は膝を軽く打つと、すっと立ち上がった。

 それきり、何の言葉もなく、当然のように会話を終え、彼自身も着換えるためにふすまの向こうへと消えていった。



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