第丗三話 最後の妻と和魂の夢
「ちゃんと聞かなかった私もですが……神様も、資雅さまも、その――、
私たちが契ることに、重きを置いていますよね……。それは一体……」
“異能特務局”準備室からの帰り道。
人影の途絶えた田舎道に入り、ようやく息をつけたりよは、そっと問いかけた。
清孝はすぐには答えず、しばし黙したまま歩を進める。
砂利を踏む音だけが寒空に響き――やがて、尊大な声音が落ちた。
「……私に宿る男神と、そなたに宿る女神が、もとは一柱の夫婦神であったのは、既に知っていることだろうが――
私の有り余る陽の気を受け止め、釣り合うのは――そなたしかおらぬ。
そういうことだ。」
「……清孝さまの男神が荒魂、私の女神が和魂。二人は一つで、表裏一体――と。」
言葉足らずな夫の代わりに、りよは小さくつぶやき、考え込むように視線を落とした。
「私たちはもう、戸籍上は夫婦で、形式としては盃もかわしています。
陰陽の気のやり取りも……肌を触れ合わせることくらいも……。
でも――まだ、それだけでは足りない、と仰るのですね。」
初冬の昼下がり、長く伸びた家並みの影を踏みながら、恥じらいと共に吐き出したため息が白く色づく。
「ああ、二つに別たれた神を再び一つに結び付けるのは――、そういうことだ。
だが、そなたとの交わりに……神がどうとか、軍部がどうのとか――そういう思惑が絡むのは、今となっては不快感しかない。」
吐き出した息は白く、尊大な声音の奥に、どこか拗ねたような響きが混じった。
りよは思わず足を止め、夫の横顔を見上げる。
冷えた風の中、その頬がかすかに赤みを帯びているように思えた。
「……私は、望んでも良いのでしょうか。清孝さまのお情けを……」
「……いいのか?」
わずかに上気したりよの顔を見つめ、清孝は思わず問い返した。
その声音は、尊大さの裏にかすかな揺らぎを含んでいる。
「覚悟を問われているのでしたら、それはもう、とおの昔にできております。
是非を問われたのでしたら――、とてもうれしいです。
女として生まれて、好いた人と結ばれる。これほど嬉しいことが他にあるでしょうか……」
「そなたは――」
思わず清孝は彼女に手を伸ばしかけ、ここが往来であるのを思い出して慌てて引っ込めた。
その手を握り締め、決意するように身をかがめ、りよの耳もとに囁く。
「……ならば、今宵こそ、まことの夫婦となろう。
そなたが私を好いてくれるのなら、私はただの男としてそなたを抱く。
そなたも、ただの女として、私を受け入れてほしい――」
囁きは、吐息とともに白く消える。
言ってしまったあとで、陽のあるうちから艶めいた話をしてしまったことに、二人ともはっと顔をそむける。
紅潮した頬を、初冬の木枯しが容赦なく撫でてゆき、ますます熱を帯びさせていた。
帰宅するなり、清孝は真っ先に伍女を呼び寄せ、今宵りよと正式に契ると告げた。
その一言で、屋敷は上へ下への大騒ぎとなる。
奉公人たちは半ばお祭り騒ぎのように色めき立ち、それぞれの持ち場で張り切って動き出した。
急なことゆえ赤飯こそ炊かれなかったが、夕餉にはいかにも精がつきそうな品が一皿余分に並ぶ。
りよは苦笑いしつつ箸を置くや否や、女中たちに湯殿へと押し込まれていった。
そして、戌四つ、磨き上げられたりよが寝所に赴くと、既に敷かれた布団の脇に、緊張した面持ちの清孝が座っていた。
「お待たせしてしまいました。」
りよもそそくさと彼の隣に腰を下ろすと、せわしなくあたりを見回す。
部屋には良い香りの香が焚き染められ、行燈の炎がほの暗く照らしている。
伍女たちはいろいろと気を回したらしく、枕元には何やら色々と整えられていた。
「なんか――、初夜でもないのに、大事になってしまいましたね。」
りよが照れ隠しに笑うと、清孝が憮然と首を振る。
「初夜、だろ。これくらい準備して、当然だ。」
「そうは言いましても――、なんだか緊張しますね。
ここまでお膳立てしていただいたのだから、ちゃんと成さないと……」
「――そういう義務感は、無しだと言ったであろう。
今宵はただの男と女として向き合おうと……そういう話だったと思うが……」
清孝はしばし視線を落とし、ためらいを振り切るように、ゆっくりと手を伸ばした。
その手がりよの肩をとらえると、逃がさぬように抱きすくめ――唇を重ねた。
「ふふ……口吸いなど、陰陽の均衡を保つために何度もしたのに……
今宵は、なんだか――、気恥ずかしいですね。」
誰が聞いているというわけでもないのに、囁きまで声を潜めてしまう。
清孝は彼女を布団に横たえながら、自身の鼓動も高まっていることを自覚し苦笑する。
「必要に駆られて――という大義名分がある間は何とも思わなかったが……
そなた以外の女で気を整えることは愚か、指一本触れたくない。もはや、元通りに戻れる気がせぬ。
りよ……そなたのせいだぞ……責任は、とってくれるのだろうな?」
言っていることは責めるようだったが、声はどこまでも甘く響く。
りよはその声に、身体も心も、深い部分が震えるのを感じながら、彼の首に腕を回した。
「ええ……責任は取らせていただきます。末永くお側においてくださいませ。」
「ああ、そなたを“最後の妻”にすると決めている。」
清孝の手が帯へとかかる。
一気に解かれた衣の隙間から、ひやりとした夜気が忍び込む。
りよは小さく身を震わせ、そっと目を閉じた。
次の瞬間、温もりが覆いかぶさる。
冷たさも不安も、すべて彼の胸の奥へと吸い込まれていくようだった。
行燈の明かりが揺れて、寝所には二人分の吐息と声、温もりだけが満ちた。
その先を隠すように、夜は深く、静かに更けてゆく。
やがて落ちるように、清孝の腕の中で眠りについたりよは、夢を見た。
暖かい日差しと、小鳥のさえずり。
柔らかい風と、草木の香り――
彼女はその中で、ゆっくりと目を覚ました。
空はどこまでも青く、春の陽気なのに、どこにも太陽が見えない。
では、この日差しはどこから来るのだろう?
そう思って空を見上げても、やはりわからなかった。
ふと気がつくと、目の前にひとりの女が立っていた。
ゆるやかな白布をまとい、柔和な笑みを湛えている。
だがその輪郭は霞のように揺らぎ、
美しいことだけはわかるのに、どんな顔なのかは掴めなかった。
『はじめまして――そして、おめでとう。』
女は手を広げ、親しげに語りかけてきた。その声も独特で、一人の声のように聞こえて、いくつもの声が重なっているようにも聞こえた。
「……あなたは、誰?」
りよがいぶかしげに首をかしげると、女はすっとひざまずき、座り込んでいるりよと同じ目線に合わせる。
『私は、あなたであり、あなたは私。
名はミトノカビメ。戸神名神の和魂にして、彼と共にある妻神。
――あなたの身体が彼の依り代と結ばれたその夜、ようやくこうして顔を合わせられたの。』
彼女はしばらく、りよの顔を穴が開くほど見詰めた後、ふっと笑った。
『安心した。あなたは、たしかに彼を愛しているのね?』
それから立ち上がると、りよにも手を差し伸べて立ち上がらせる。
『あなたたちはいろいろなものに縛られていたから、少し心配していたのよ。
けれど――ちゃんと愛し合っているなら、大丈夫。
ここはかつて、彼が在りし場所。
千五百年の昔、現世に縛られる前の彼は――この世界の主だった。
あなたたちが愛し合い続ければ、いずれ道が開き、彼もここへ還ってくることができるでしょうね。』
それから、ふわりとりよを抱きしめ、愛おし気に背中に手を回す。
『私はあなた、あなたは私。
あなたも目覚めたのだから、私の神威を自在に使えるわ。
あの坊やと並び立ちなさい。――私はいつでも、あなたを見ている。』
ふわりと抱きしめられた温もりのまま、あたりが光に満ちていく。
まぶしさに目を閉じ、もう一度開いたとき――そこは寝所だった。
清孝の腕の中。
朝の空気は凛と冷たく張り詰め、布団から出た頬を刺すように冷やす。
障子越しに、やわらかな夜明けの光が差し込んでいた。
りよが身じろぎすると、清孝もゆっくりと目を覚ました。
「りよ……」
昨夜の熱をまだ含む甘やかな呼びかけに、胸の奥でくすぶっていた熱がふっとよみがえる。
「――どこか、身体に異変はないか? 痛み、だるさ、違和感でも構わない」
「……少しだけ違和感はありますが、大したことはありません」
りよは、かすかな痛みを覚えていた。それは彼とつながった証でもある――
嬉しさと気恥ずかしさのあいだで、そっと首を振った。
「おかしなところは、ないか――おまえが壊れていなければ、それでいい」
清孝は彼女の髪に顔をうずめ、愛おしげに抱き寄せる。
りよははっと気づき、くすりと笑った。
「清孝さま――あの初夜の朝と同じことを、おっしゃっています」
「……そうだったか。あの時も、私は本気で――初めて陰陽の調整をしたそなたが心配で……」
言いかけて、清孝はきまり悪そうに視線をそらす。
「今ならわかります。清孝さまが、本当はどれほどお優しく、私のことを考えてくださっていたか……」
りよは、彼の背に腕を回して胸に顔をうずめる。
――もう少しだけ、この余韻に浸っていたい。
そう思っていると、清孝もくすりと笑った。
「今日は、起こしに来るなと言ってある。だから――もう一眠りしよう……まだ朝早い……」
りよは――ついに自分の居場所を得たのだと、確かに思いながら、清孝のぬくもりを手繰り寄せた。
温かい布団の中、二人は再び眠りの中へと沈んでいった。




