第丗一話 斎部の主、七番の命
清孝は、当主の座を簒奪した翌朝には、すぐさま東京へ戻るつもりでいた。
だが――そう簡単にはいかなかった。
これまでは封印の祠に縛りつけていた禍神を、清孝ひとりの身に降ろした。
そのため、もはや斎部の当主が江原村の居館に常住する必要はない。
だが同時に、これまで分家の当主たちに分散させていた“陽の気の負担”や“神威の行使”も、すべて清孝ひとりに集約されてしまった。
陽の気が過剰となる危険こそなくなったものの――分家筋にとっては、重大な問題が残ったのだ。
元はと言えば、禍神の神威を頼りに異能を強化し、あやかしや鬼を祓って外貨を得ていた家々。
その力を失えば、立ち行かなくなる者も少なくない。
「当主の弱体化」は、彼らにとって切迫した危機だった。
「とりあえず――異能が使い物になる者は、“異能特務局”への推挙に労を惜しまぬ。
軍属となれば給金が出る。たとえ異能が薄れたとはいえ、斎部の血は戦にも政にも役立つ。
部局内で力を振るうことは容易いだろう。」
清孝の声は淡々としていたが、座敷の誰もが息を呑んだ。
兵右衛門や仙吉をはじめ、五分家の当主と継嗣たちがずらりと並び、静かに耳を傾けている。
「それはそれは――、若者の中には血気盛んな者も多いです。国のために働くとなると、やりがいを感じられる者も大いにあるでしょう。」
身を乗り出したのは、伊狭間家の当主だった。三十代、血気盛んな男だ。
神威を失ってもなお、そこらの異能者を凌ぐ力を持つ。
背後で控える息子も、元服前ながら勇ましい顔つきで父の言葉にうなずいていた。
いずれ“異能特務局”で名を成すことは、誰の目にも明らかだった。
「しかし若様……」
低くおずおずと声を上げたのは、東雲の当主だ。
「異能が弱い者、まったく持たぬ者は、どうなさるおつもりで?
力があっても、この地を離れたくない者もいるのです……」
彼の背後には、不安げに目を伏せる継嗣。
その子はまるで無能者のようで、神威があった時代ですら頼りなかった。
ゆえに“水”の強い異能を持つ芳乃を養女に迎えたが――
清孝の不興を買った彼女はいま、屋敷のどこかで冷ややかに息をひそめている。
「たしかに、私の本拠は東京に移る。
だが――斎部がこの地を手放すわけではない。
残る者には、この屋敷と土地の管理を任せる。」
清孝はすっと視線をめぐらせ、座敷の空気を一段と張りつめさせた。
「既存の畑作だけでは心もとないだろう……。
ちょうど良い。神津毛国の富岡に、先ごろ官営の製糸場が操業した。
繭の需要はこれから必ず拡大する。 蚕を育て、繭を作れ。
私が東京から支援を送る。お前たちは――その先端を担え。」
ざわり、と分家筋の者たちが顔を見合わせる。
異能ではなく、生業によって家を繋ぐなど、誰ひとり想像していなかったのだ。
「し……しかし、畑仕事など――小作人のやることでは……」
保守派の古家、徳井の当主が、しぶしぶ声を上げた。
座敷にざわりと小波が走る。
清孝はすっと目を細め、冷ややかに言い放つ。
「異能で軍に入ろうと、この地に残って土地を守ろうと、糧を得る道があるなら何でもよい。
私は、そのひとつを指し示したに過ぎぬ。」
淡々とした声が、かえって鋭く響く。
「他に手立てがあるなら言え。協力は惜しまぬ。
だが――労せずして暮らすなどという甘い考えでは、新時代を生き残ることはできぬ。」
凍りついたような沈黙の中、誰一人として言葉を返せなかった。
「御身ひとりで戸神名命を封じ、我らを陽の気の呪縛から解き放ってくださったばかりか、弱まった異能の行く末までもお示しいただけるとは……痛み入ります。」
広場でもいち早く恭順を示した西家の当主が、深々と頭を垂れた。
「我が遠見も、早急に一族の者に諮り、一同、清孝さまのお役に立てるよう身を振りたいと存じます。」
続いて遠見の当主も頭を下げる。
その姿に合わせるように、他の分家当主、さらに血縁以外の奉公人までもが、一斉に畳に額をつけた。
座敷には、重く、張り詰めた静寂が落ちた。
誰の目にも、もはや斎部の主が誰であるかは明らかだった。
皆が額を畳に付けたまま、畳の青い匂いがわずかに立った。
清孝は一言「よい、下がれ」とだけ告げる。
そのころ、りよは――黒刀自に伴われ、屋敷の離れへ向かっていた。
そこは、陽の気に満ちた屋敷の中でも、わずかに陰が勝る一角だった。
歴代の当主の妻たちが、陰陽の均衡を崩したときに籠もり、身を癒やしたと伝えられる。
経験則にすぎぬが、確かに心身の回復を早める場所であり、多くの妻たちが自然と足を向けてきたという。
そして今、そこには――清義の七番目の妻が、死の床にあった。
「りよさま……こちらが清義様の七番様、由布さまにございます。」
黒刀自が静かに指し示した先。
薄暗い座敷の白布団に横たわる由布は、玉の汗を額に浮かべながら、死人のように蒼白な顔をしていた。
「御年は十九。……若うございますが、一度離縁を経験され、この春に斎部へ嫁がれて参りました。」
黒刀自の声は淡々としていた。
だが手ぬぐいを絞り、優しく額の汗を拭う仕草には、深い慈しみがにじんでいた。
りよも彼女の枕元に腰を下ろすと、そっと顔を伺う。
――ここに横たわるのは、ほんの少し違えば、自分だったのかもしれない。
りよは右手をそっと彼女の顔の上にかざした。
熱気とは別に、刺すような痛みが手のひらを走った。
――やはり……陰陽の気が、陽に傾きすぎている。
でも……これなら、私にだって、どうにかできる。
清義の妻のもとへ案内してもらうよう、りよは自分から願い出たのだった。
黒刀自も女中衆も、半ば信じられぬ思いで受け入れてくれたが……。
――もし叶わなければ、ぬか喜びをさせてしまう。
りよの胸を不安がよぎった。
けれど、彼女の苦しげな呼吸を見れば、もう迷う余地はなかった。
「大丈夫です。……これなら、私に何とかできます。
すぐに、良くなりますよ。」
「奥さま、本当ですか? まぁ……なんということでしょう……!」
黒刀自は治療が始まるより先に、喜びの涙をこぼした。
りよは、そっと布団をめくり、眠っている由布の手を取った。
氷のように冷えた手に、熱と脈動がまだかすかに残っている。
――清孝さまにしているように……。
りよは静かに息を整えると、掌から陽の気を受け取り、自らの陰の気を送り込んでいった。
たちまち刺すような痛みが腕を駆け抜ける。
――陽の気が……多い……。
でも、清孝さまが暴走なさった時よりはずっと少ない。質が違うから痛むけれど、……大丈夫、やれる。
より深く気を通わせるため、りよは由布の手にそっと唇を触れた。
熱に浮かされた肌がびくりと震える。
それからは、ただひたすらに気をやり取りする時間だった。
額から汗が滴り、呼吸は浅くなり、意識が遠のきそうになる。
けれどりよは決して手を離さない。
――生きて……。どうか、生きてください……。
そう念じながら、気を送り続けること一刻――。
ようやく由布の呼吸は安らぎ、蒼白だった頬にわずかな赤みが差していた。
そしてやがて、由布はゆっくりと目を開いた。
「……わたし……生きてる……」
かすれた声に、黒刀自がはっと顔を上げ、次の瞬間には号泣しながら由布に縋りついていた。
「奥さま――! 由布さま……!」
「黒刀自さん、もう大丈夫です。」
りよは額の汗を拭いながら、静かに言葉をかける。
「後はご飯をしっかり召し上がって、ゆっくり休んでいただければ……すぐ、元通りの暮らしに戻れます。」
女中衆が信じられぬものを見るように息を呑み、やがてすすり泣きが座敷に広がった。
死んでしまうはずだった七番目の妻を救えた――。
その手応えは、想像していたよりもずっと大きく、りよの胸を温かく満たしていた。




