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第二話 最初の花嫁

 夕陽に染まる山裾の道を、りよは黙々と歩いていた。

 背中に風呂敷を担ぎ、草履の裏に土をまとわせながら――ようやく、斎部家の門へとたどり着いた。


 目の前には、深く静かな佇まいを見せる大きな屋敷。

 門は閉ざされており、戸を叩こうとしたそのとき、脇の通用口が軋む音を立てて開いた。


 中から現れたのは、年若い女中だった。

 黒髪をきゅっと結い、身なりは整っているが、その目はりよを上から下までじろじろと舐めるように見てくる。


「あの……失礼いたします。こちらは、斎部さまのお屋敷でございましょうか?」


「ええ、さようでございます。何か御用で?」


 丁寧な言葉の奥に、どこか突き放すような響きがあった。

 けれど、りよは怯まず名を名乗る。


「本日より、こちらに嫁入りいたします、片岡りよと申します」


 女中は合点がいったように目を丸くし、手を合わせて言った。


「ああ、あなたが若様の――最初の花嫁さま、ですねぇ? お待ちしておりました。さあ、中へ」


 そう言って、くるりと踵を返すと、迷いのない足取りで通用口へと戻っていく。


 りよがついていくと、白洲の奥に咲き誇る紫陽花と、立派な玄関が目に入った。

 けれど女中が案内したのは、その正面ではなかった。


「花嫁さま、こちらへどうぞ」


 指さされたのは、建物の脇にある裏口だった。

 一瞬、違和感が走る。けれど、風習としてそういう地域もあると、どこかで聞いたような気もする。


 りよは自分を納得させるようにして、女中の後に続いた。



「こちらでお待ちくださいませ」


 通されたのは、六畳ほどのこぢんまりとした座敷だった。

 床の間には、月夜を描いた掛け軸と、庭から切られたばかりらしい紫陽花が一輪、細い竹の花器に活けてある。

 今日嫁いでくる自分のために、挿してくれたのだろうか。

 そのささやかな心遣いに、緊張の糸がほんの少し、緩むのを感じた。

 りよはそっと荷を下ろし、静かに膝をついた。


 やがて、先ほどの若い女中が戻ってくる。

 その後ろには、年配の、穏やかな雰囲気の女中がついていた。


「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」


 その女中は深く頭を下げ、名乗った。


「お初にお目にかかります、わたくしは女中頭の伍女いつめにございます。

 こちらは、今日からお嫁さまのお世話をいたします芳乃でございます」


 伍女はにこやかに、芳乃は控えめに――けれど、どこか観察するような目つきでりよを見た。


「りよと申します。……どうぞ、よろしくお願いいたします」


 姿勢を正して頭を下げたりよに、伍女は柔らかく微笑む。

 そして、自然な流れでりよの足元の荷物へと視線を落とした。


「到着早々で恐れ入りますが……お花嫁支度は、何かお持ちでいらっしゃいますか?」


「……いいえ」


 りよは、わずかに息をのむ。


「この江戸褄が、ただ一つの晴れ着でございます。

 亡き母が残してくれたもので……」


 口にした瞬間、胸の奥がきゅうと締め付けられた。

 父の言うとおり、文字通り“身ひとつ”で嫁いできたのだと、今さらながら実感する。


 目を伏せるりよに、伍女は静かに頷いた。


「さようでございますか。御母堂様のお召し物でしたら、その質の良さにも納得です。思い入れもございましょうが……婚礼でしたら、やはり白無垢をお召しになりたくはありませんか?」


 伍女の言葉に、りよは伏せていた目を少し上げ、静かに頷いた。


「ご安心くださいませ。

 同じように“身ひとつで”お越しになったお方も、これまでに何人もおられました。

 古いものにはなりますが、支度は整っております。どうぞ、お任せくださいませ。」


「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


 りよがそっと頭を下げると、伍女は芳乃に目配せを送った。

 芳乃は黙って小さく会釈し、どこか無表情なまま動き出した。



 陽が落ちてまもなく、ひっそりと祝言が執り行われた。

 参列者の姿もなく、形だけの婚礼。

 そのとき初めて、りよは“夫となる男”の顔を目にした。


 短く整えられた髪、切れ長の涼しい目元に、色の白い美丈夫。

 月明かりの下で見れば、まるで絵のようだった。


 りよは彼を、美しいと思った。


 ……けれど、その目に浮かんでいたのは、氷のような無関心だった。

 どこか、人を寄せつけぬ酷薄さがあった。


 それでもりよは、それが彼の緊張によるものだと――そう、信じたかった。


 三々九度と祝いの膳を終えると、芳乃に急かされるようにして白無垢を脱がされ、

 白い(ひとえ)の寝間着へと着替えさせられた。


 心はまだ落ち着かず、着慣れぬ衣が肌に馴染まなかった。

 それでも、夫婦として――この先、少しずつでも歩み寄れるかもしれないと、どこかで思っていた。

 そして、迎えた初夜――

 物語は、冒頭の一夜へとつながる。


「お前を抱く気はないが、身体は差し出してもらう」

「一年後には、あと腐れなく離縁」


 ……そんな言葉から始まったのだった。



 夜が明けきる前、眠る清孝の隣で、りよは目を閉じたまま、じっとしていた。

 清孝は、満足するまで彼女の唇を奪い、そのまま抱きしめて眠っていた。


 その腕の中は、たしかに温かかった。

 初夏とはいえ、夜の空気はまだ肌寒く、そのぬくもりは心地よいものだった。

 けれどその心地よさとは裏腹に、りよの胸の内は、ひどく冷えていた。


 ――もし、鉄之介さまと迎えていたなら。

 きっと、喜びと恥じらいに満ちた夜だったろう。

 私は、こんなふうに、涙で枕を濡らすこともなかったはず――


 夫の腕の中で、別の男を想う不義に、罪の意識がなかったわけではない。

 けれどそれ以上に。

 契りも交わさず、ただ唇と肌のぬくもりだけを求められる自分が、あまりにもみじめだった。


 あふれる涙は、もう止めようがなかった。

 それでも嗚咽を噛み殺し続けているうちに、いつしか意識はゆるやかに遠のいて――

 りよは、眠りに落ちた。



 目を覚ますと、すでに日は高く昇っていた。

 隣に清孝の姿はなく、寝所の空白だけが、昨夜のすべてを物語っていた。


 襖が音を立てて開き、芳乃が現れる。


「奥さま、いつまでお休みですの? 

 若様はとっくに朝餉を終えて、お出かけですよ。

 せめて、お見送りくらいなさってもよろしいのに――」


 その声音は丁寧だったが、柔らかさの裏に、小馬鹿にしたような棘があった。


 芳乃は布団を乱暴に引きはがし、手早く畳みながら続ける。


「お役目ですから、昨夜は一部始終、ふすまの向こうで聞いてましたが――

 夜伽もなさらずに……いいご身分ですねぇ。

 三番目までの“奥さま”なんて、ただの“穢れ落とし”にすぎませんのに」


 りよは唖然として布団の端に膝をついたまま、ただ黙ってそれを見ていた。


 芳乃はふっと笑みを浮かべ、静かに歩み寄る。


「……ご内密に願いますけれど、わたくし、“本妻”に内定しているんですの。

 どうせお武家様なら、異能もおありでないでしょうし……ご自分の立場は、ご理解いただいてますわよね?」


 言葉とは裏腹に、その声には焦燥がにじんでいた。


 芳乃の指先がすっと空をなぞる。

 すると、朝の光を映した水の玉がふわりと浮かび上がる。

 こぶしほどのそれは、きらきらと美しく輝いていた。


 りよは目を見開いて、それを見つめた。


 ――水? 私と……同じ力?


 その顔に浮かんだ驚きの色を、芳乃は勝手に“劣等感”と読み取ったのだろう。

 唇の端を歪め、ひどく満足げな笑みを浮かべる。


「見て? これが“力”というものですの。

 この家で必要とされるのは、こういう女……“家柄”だけの飾り人形じゃ、務まりませんのよ」


 そう言い捨て、水の玉を指先から霧散させると、芳乃はさっさと踵を返し、部屋を出ていった。


 その背が消えてもなお、りよはしばらく、何も言わずに座り込んでいた。


 そして、ゆっくりと自分の手を見つめる。


 幼い頃、父に禁じられた“遊び”が、ふいに脳裏をよぎった。

 水を浮かべ、魚を泳がせたあの夜――


 もう二度と使ってはならないと、叩き込まれた力。

 けれど、それはたしかに、自分の中に、いまも息づいていた。



 りよは、身支度を終えると、朝食を一人で取った。

 その横では、伍女がずっと、穏やかな笑みを浮かべて控えていた。


 芳乃は、何か別の用事を言いつけられたのか、この場にはいなかった。


「奥さま……まさか、若様にあれほど気に入られるとは。

 伍女は、ほんとうに、うれしゅうございます」


 食後の茶を口にしていたりよは、手を止めて、顔を上げた。


「……そう、でしょうか」


 初夜のことが、脳裏をよぎる。

 唇だけを奪われ、「情はない」と言い放たれた夜。

 それを“気に入られている”などと――りよには、とても思えなかった。


「ええ。奥さまは、きっと“契りがなかった”ことを気にしておいででしょうが……」


 伍女は、二杯目のお茶をすすめながら続けた。


「斎部家の男子が、たとえ初夜であっても、女の隣で眠り、朝を迎えるなど――前代未聞のことでございます。

 ああ見えて、若様は情の深いお方にございます。

 ……いつかきっと……その御心が、奥さまにも届きましょう」


 りよは、屈託のない伍女の笑顔を見つめながら、

 今朝の芳乃の、あの言いようを思い出していた。


(……優しさの裏に、何か隠れているのだろうか)

(この人の言葉を、どう受け取ればいいのか――わからない)


 そんなふうに、疑うことしかできない自分がいた。

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