第廿六話 妻を差し出せ
「お前が嫁を迎えたのは六月の末であったな……」
沈黙を断ち切ったのは、清義の低い声だった。
「それからわずか数か月――禍神めの様子がどうにもおかしい。
聞けば、挨拶詣りの折に目を付けられたとか。……まことか?」
問答無用で奪うのではなく、まず事実確認から入るのか、とりよは悟った。
清孝は険しい顔のまま、一度身を引き、父を正面から見返した。
「……間違いありません。異変に気が付きすぐに帰りましたが、屋敷まで押しかけてまいりました。
容貌を問うたところ、若い美丈夫に見えたと。――りよ、そうであったな」
「は……はい。長い髪で、柔らかな笑みを浮かべ、手招きしておりました……」
突然振られたりよは戸惑いながらも、声を震わせず答えた。
清義の目が細くなる。
「禍神は、自らの“番”と見定めた者に対しては、人に近く、より若く、美しい姿を取るという。しかし、最も若い例でも、壮年の武人だ……。それが、今回は若い美丈夫か」
わずかに口端を歪め、冷ややかに続ける。
「しかも――聞けば、その“最初の妻”は、お前の陽の気をいくら浴びようと、陰の気をいくら奪われようと、びくともしないらしいな」
「――はい。ですから父上、私には妻はこの『りよ』ひとりで十分なのです」
清孝は必死に声を張った。
「彼女を正妻とし、この先も陰陽の均衡を調えさせるつもりでございます。彼女さえいれば、新たに妻を迎える必要はございません」
だが、清義の眼差しは一分の揺らぎもなかった。
「私の“七番”が、すでに限界を迎えている」
凍りつくような声が座敷を満たす。
「お前が嫁を迎えて以降、禍神の気配は乱れた。それを抑えるため酷使したせいだろう。今は妾三人を急ぎ加え、ようやく封印を繋いでいる」
清義は、吐き捨てるように続ける。
「――この異常、すべてはお前が調子に乗って神威を振るった、その驕りのせいではないのか」
「そ、そんな――」
清孝の声がわずかに揺らぐ。
その隙を、清義は逃さなかった。
「そうではないと、言い切れるのか?」
低く鋭い声が畳を震わせる。
「“七番”を迎えたのは今春だ。これまで私の女たちは、いずれも数年は保ってきた。なのに、あの女は半年も経たずに限界を迎えた」
清義の眼差しは氷刃のように息子を射抜く。
「すなわち――そこに“例外”があるということだ」
畳を指先で軽く叩きながら、なおも理を積み上げる。
「お前が、禍神に特別気に入られた女を娶り、勝手気ままに神威を振るった。そうでなければ説明がつかぬ」
そして、ゆっくりと声を落とす。
「のう……この責任。とるべきだとは思わぬのか?」
なぶる清義の言葉に、黙って控えていたりよが、もう我慢ならぬとばかりに身を乗り出した。
「勝手気ままになんて……それは違います! 清孝さまは、新しい時代を見据えて――」
「黙れ!」
雷鳴のような怒声が座敷を打った。
「女ごときが、口を挟むな」
りよの言葉は一瞬で断ち切られた。
畳に吸い込まれるような沈黙。彼女の肩は小さく震える。
清義は鼻で笑い、吐き捨てるように続けた。
「新しい時代だと? 篠崎の若造がほざく“異能特務局”のことか。そんなものに踊らされおって。
誰が協力しろと言った! 斎部には要らぬ。異能も神威も、先祖代々の封印ひとつで十分だ!
外がどう変わろうと関わりはせん。我らはただ、封じ続ける――それだけよ!」
「そうは言いましても、父上――」
清孝が噛みつく。だが、その声は座敷に響ききる前に、清義の手拍子にかき消された。
パン、パンと乾いた音が二つ。
次の瞬間、三方を囲む襖が一斉に開け放たれる。
襖の向こう――ずらりと並んだ奉公人の影。皆、息を殺し、最初から待ち構えていたかのように控えていた。
「話はここまでだ」
清義の声音は冷たく揺るがない。
「清孝。お前の“最初の妻”は、この私の妾とする。
具合が良ければ――“八番”として遇してやろう」
凍るような沈黙ののち、続いた言葉は刃そのものだった。
「そしてお前は、継嗣としての覚悟が足りぬ。……しばし牢で頭を冷やしてこい」
合図と同時に、奉公人たちがなだれ込む。
清孝は咄嗟にりよを抱き寄せ、その身を庇った。
「離すものか!」
必死の声が上がる。りよもまた、清孝の衣をつかんで離さない。
だが――多勢に無勢。
乱れ飛ぶ腕に絡め取られ、りよの指は一本ずつ剥がされていく。
清孝の体には縄がかけられ、座敷に軋む音が満ちた。
「清孝さま、清孝さまぁっ!」
りよは必死に手を伸ばす。だが奉公人たちに四方から押さえ込まれ、追うことすら許されない。
「りよ――! りよっ!」
清孝もまた声を張り上げ、妻の名を呼び求める。
次の瞬間、彼の胸と腕に札が叩きつけられた。
異能は封じられ、さらに猿轡を噛ませられ、目隠しまで施される。
声も、力も、すべてを奪われたまま――畳を軋ませ、無理やり引きずり出されていく。
「清孝さま……!」
りよも二人がかりで押し倒され、必死に抗った。
髪は乱れ、かんざしが畳に転がり、着物も無惨に着崩れる。
清孝の声は猿轡に塞がれ、りよの叫びも押し伏せられ――座敷には乱れた呼吸音だけが残った。
――そして。
彼女の前に影が差した。
見上げれば、清義が立っていた。
「……っ」
りよは精一杯に睨みつける。
清義はゆっくりと腰を下ろし、りよの顎をつかみ上げた。
骨が軋むほどの力。視線を逸らすことも許されず、顔を無理やり近づけさせられる。
「女がてら、私に楯突くとは――息子への忠義と見てやろう」
冷笑と共に吐き捨てられる声。
「だがこれ以上逆らえば……あやつを廃嫡する。継嗣の座から引きずり下ろす」
「……っ」
りよは歯を食いしばり、ただ睨み返すしかなかった。
「ふん。女であるお前が、どれほど粋がろうと無駄だ。
次の封印の儀は三日後――その後、お前を使う。それまでに覚悟を決めるのだ」
清義は立ち上がり、背を向ける。
「私は、おとなしく従順な女が好きだ。……無理やりするのは面倒だからな」
衣擦れの音とともに敷居をまたぎ、影が消える。
座敷に残されたのは、押さえつけられているりよの荒い息と、畳に転がったかんざしだけだった。
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清孝は、本家の奉公人たちに囲まれて、引きずられるように地下への階段を下りた。
階段を一つ降りるたびに、空気の温度が下がり、湿気と土とカビの匂いが鼻をつく。
やがて、錠前を開ける金属音がして、畳の上に転がされた。
「若様、失礼いたします。」
縄を外され、代わりに手枷をはめられてから、目隠しと猿轡が外された。
「異能は使えませんので、無駄な抵抗はしないように。
これ以上御館様に逆らえば、本当にお立場が危ういです。」
淡々と言ったのは、兵右衛門だった。
「……」
それでもなお、清孝が反抗的な目をしていると、兵右衛門はため息をつく。
「“一番様”は諦めなされ。御館様も、“三番様”までは、先代様に差し出されました。」
「……りよは物じゃない。差し出すとか、そういった類では――」
縄目で赤くなった手を握り締めながら、清孝は吐き捨てた。
兵右衛門はわずかに目を伏せ、それでも淡々と告げる。
「いいえ、物でございます。この家では、妻となった女は、ただの物でございます。
だからあれほど――幼い頃より、妻には決して情をかけるなと申したではありませんか」
冷えた牢内に、言葉が鈍い刃のように響く。
「“二番様”には、手練手管に優れた、美しい娘を見繕いましょう。
聞けば若様はまだ純潔。女の肌を知れば……契ってもいない“一番様”など、すぐに忘れられます」
「忘れられるか!」
清孝の声は怒鳴り声に変わっていた。
「りよは――特別なのだ。あんな女……忘れられるものか!」
兵右衛門は目を伏せ、淡々と告げる。
「忘れられます。……忘れなければなりません」
ほんの一瞬だけ、言葉に影が差した。
「さあ、若様。聞き分けなさってください。あなたの未練が、“一番様”をより苦しめ、追い詰めることにもなりますよ。
とにかく、まずは次の封印の儀と、御館様と“一番様”の閨が無事に済むまで、ここでおとなしくなさっていてください。」
兵右衛門は困った子を憐れむような目を投げ、座敷牢の錠前を閉めた。鉄の軋む音が耳に残る。
中は湿った土の匂いがこもり、薄暗い灯が頼りなく揺れていた。
封印の儀は――新月。三日後だ。
そして、父が過剰に取り込んだ陽の気を発散する方法は、閨しかない。
――このままでは、りよが父に抱かれる。
りよの柔肌に、父の指が食い込むのを想像してしまった瞬間――吐き気がこみ上げた。
「……やめろ……」無意識に声が漏れる。
鎖を振り払おうと手をがちゃつかせる。しかし鉄はびくともせず、異能も封じられている。
無力感が押し寄せても、思考は止まらなかった。
――必ず取り戻す。りよは、私の妻だ。




