第廿五話 本家の灯、父の影
(りよとのことばかり考えて……これでは色欲に溺れた痴れ者ではないか。――嘆かわしい。)
“異能特務局”の準備室からの帰途、清孝は悶々と考えを巡らせた末、屋敷の門前で耐えがたい羞恥に襲われた。
結婚して以来、りよに情が傾くほどに、羞恥や嫉妬、後悔や焦燥といった感情に悩まされる時間が増えた。
かつては、こうしたものとまったく無縁に生きてきた。それはそれで楽だったが――
では、あの頃に戻りたいかと問われれば、答えははっきりしている。否、だ。
りよを手放すことも、彼女や他の女を道具のように使い捨てることも、二度と許せぬと清孝は知っていた。
「ああ、若様、お帰りなさいませ!
――若様がお出かけになられて間もなく、本家より使者が参りました。火急の御用とのことで……若様に、直ちに本家へのご出頭をと。」
屋敷の門をくぐるや否や、従者の一人が駆け寄ってきた。息を切らし、声も上ずっている。
「……先日の手向村の件ではないな?」
清孝は逡巡を振り払い、鋭く問い返す。
「はい。何でも――御館様の七番様がご乱心とのことにて。おそらくは……」
「……りよを差し出せ、とでも申すのか」
「大いにあり得ましょう。が、詳しくはまだ……」
清孝の眉目が鋭く細められる。
「わかった。すぐ行く――りよも呼べ」
「はっ」
従者は一礼し、足早に去っていく。
その背を見送ると、清孝も着替えるために自室へと引き返した。
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火急の用と聞かされていたが、使者はゆったりと座敷に腰を下ろし、茶を口にしながら伍女と談笑していた。
もともと伍女は本家に仕えていた女中で、使者とは旧知の間柄だったのだ。
やがて清孝がりよを伴って座敷に入ると、使者は笑みをすっと引き、厳しい表情で迎えた。
「若様、お久しゅうございます。そして――若様の“一番様”。
初めてお目にかかります。本家の番頭を務めております、仙吉と申します」
仙吉は深々と頭を下げる。
「その呼び方はよせ」
清孝の声音は冷たく鋭かった。
「りよは“一番”ではない。私の妻だ。
本家がそのような物言いをするから、嫁が道具のように扱われるのだ」
怒りを隠さない清孝に、仙吉は眉ひとつ動かさず、ただ首を横に振った。
「残念ながら――若様はじきに“二番様”をお迎えになるでしょう。
すでに、選定は始まっておりますゆえ」
何も聞かされていなかったりよは、不安げに清孝の袖をそっと引き、顔を伺った。
「勝手なことを申すな」
清孝は低く吐き捨てるように言い、すぐに続けた。
「安心しろ。――私はお前を手放す気はない」
りよの瞳が揺れるのを見て、清孝はわずかに口もとを緩め、安心させるように微笑む。
そのまま上座へ進むと、どっかりと腰を下ろした。
「……父は何と?」
「奥さまを連れて、ただちに本家へ戻るように、との御沙汰にございます。期日は即日。
――このまま、私と共に神津毛国へお立ちいただきます」
「――用件は?」
清孝の問いに、仙吉は肩をすくめてみせた。
「さあ……。私のような下々の者には、皆目、見当もつきませぬなぁ」
急にとぼけた口ぶりに、清孝の目がさらに鋭さを増す。
だが、まだここで楯突くのは早いと、理性が告げていた。
「……わかった。すぐに支度する。
伍女、りよの分を頼む。」
清孝は腹を決めて話を打ち切り、立ち上がった。
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仙吉は馬で東京の屋敷まで来ていた。
清孝とりよも、奥多磨へ向かった時と同じく、馬に二人乗りで神津毛国を目指すこととなった。
中山道をひたすら北西へ進み、三日目に高崎へ至る。
そこから進路を変えて利根川を渡り、我妻川の谷を遡った。
谷あいの村々は一見すると寒村であったが、米は乏しくとも蚕や麻の栽培で潤い、さらに奥地からは名の通った豪商をも輩出していると聞く。道すがら、立派な家並みがぽつぽつと姿を見せた。
時は晩秋。紅葉はすでに散り、山々は初雪を待つばかり。
しかし、りよの目には景色など映らなかった。
無言で背を向ける清孝の背に必死で身を預け、その肩越しに伝わってくる緊張を、ただ受け止めるしかなかった。
最後のにぎやかな町を抜けると、一行の眼前に、夕日に染められた険しい岩山がそびえ立った。
岩肌は赤銅色に輝き、山裾の影は深く沈み、まるでそこから先が異界であるかのようだった。
「……我妻郡、江原村……」
道標を読み上げたりよが、声をひそめるようにつぶやく。
そのとき、数刻ぶりに清孝が口を開いた。
「全く……“我が妻”とは、とんだ皮肉だ。あの岩山の麓に、斎部の本家がある。――もうすぐだ。」
彼の顔に久々に浮かんだ表情は、皮肉めいた笑みだった。
だが、その余裕はただの強がりにすぎない――りよには、そうひしひしと感じられた。
一行は街道を外れ、村中の細い道を抜けてゆく。
やがて眼前に現れたのは、築地塀にぐるりと囲まれた広大な屋敷――いや、もはや居館と呼ぶにふさわしい威容だった。
白漆喰の塀越しに、幾重にも重なる瓦屋根がのぞき、道中で目にしたどの家よりも格段に豪壮である。
りよは思わず馬上で身をこわばらせた。ここが、夫の生まれた家――斎部の本家なのだ。
先触れが走っていたのか、門扉は大きく開かれていた。
あたりはまだ明るかったが、既に提灯には灯が入れられ、赤々と揺れる明かりが夕闇を先取りしている。
馬の蹄音を聞きつけていたのか、こちらから声をかけるより早く、奉公人たちがぞろぞろと表へ出てきた。
提灯の火に照らされた顔は、皆そろって笑みひとつ浮かべず、ただ無言で立ち並ぶ。
その整然とした動きに、りよは身をこわばらせる。
良く言えば落ち着き払った、悪く言えば不気味な無表情――ただならぬ空気を感じざるを得なかった。
「若様、おかえりなさいませ。若様の“一番様”も、ようこそおいでくださいました」
留守居の兵右衛門が、抑揚のない声で深々と白髪頭を下げた。
「まずは旅支度をお解きになり、夕餉をお召し上がりください。御館様は――食後にお話しあそばすとのことでございます」
ただならぬ様子に、先ほどまでは少し疲れた表情をしていた清孝も仙吉も、緊張した面持ちで顔を見合わせる。仙吉が出立した時よりも、事態は明らかに深刻になっているようだった。
「……何が起きた?」
清孝がたずねると、背を向けて屋敷の方へと行こうとしていた兵右衛門が振り返る。
「“七番様”が……危篤にございます」
兵右衛門は声を落とし、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「にもかかわらず――禍神が鎮まりませぬ」
言ってはならぬことを口にしているのだと、清孝は直感した。
父に仕える忠実な男であるがゆえに、その一言には重い覚悟がにじんでいた。
「若様も、“一番様”も……御館様の御前に参られるまでに、お覚悟召されたほうがよろしいでしょう」
そして彼は一礼すると、今度こそ屋敷へと足早に向かって行った。
清孝とりよは玄関を上がると、おなじ座敷へと通される。
最初は別々の座敷へと通されそうになったのを、清孝がごねて止めたのだった。
二人きりになるなり、りよは表情を崩し、清孝は彼女をひしと抱きしめた。
「覚悟って……やはり私は、清孝さまのお父上に――差し出されるのですか」
りよの声は震え、唇から血の気が引いていく。
清孝はその細い肩を抱き寄せ、強く、まるで自分の一部を失うまいとするかのように腕に力をこめた。
「ふざけるな……そなたは、私の妻だ。私の最初で最後の妻とする。――誰が渡すものか」
言い放った声は低く震え、りよの髪に落ちる息は熱を帯びていた。
旅支度を解き、身を寄せ合って陰陽の気を整えていると、夕餉の支度が出来たと呼ばれる。
山川の幸を尽くした膳には、川魚の塩焼きや茸の煮物が並んでいたが、東京の屋敷よりも幾分豪勢であることすら、二人の心には届かなかった。
箸の音だけが静かに響き、言葉を交わせぬまま食を終えると、やがて清孝の父、清義の待つ座敷へと案内された。
襖を開けた先には――清孝とよく似た顔立ちの壮年の男が、静かに座していた。
数十年後の清孝の姿を、そのまま写したかのような面影。
だが眼差しは凍りついた刃のようで、口元は険しく結ばれ、眉間には深い皺が寄っていた。
似ているはずなのに、りよの胸に広がるのは親しみではなく、どうしようもない恐怖だった。
「よくぞ帰った。数年ぶりか。……そちらが――お前の“最初の妻”か」
清義は目を細め、口元だけをゆがめて笑う。その眼差しは、まるで嫁ではなく器物を検分するかのようだった。
「――はい。『りよ』にございます。近いうちに、私の唯一の、本妻にと考えております」
「ならぬ」
間髪入れず、冷たい声が遮る。
「戯けが。“最初の妻”を本妻に据えるだと? 貴様にはまだ早い」
「父上! これだけは譲れませぬ。りよは――命を賭しても守るべき、私の妻にございます」
清孝も負けていない。一歩も引かない強い視線で父を見返した。
座敷に張りつめた沈黙が落ちる。燃えるような父子の視線がぶつかり合い、りよは息を詰める。
自分のために父子が刃を交えようとしている――。胸を締め付けられる思いに、膝がかすかに震えた。




