第廿二話 糸に仕込まれた悪意
「桃蘇の皆様、この度はありがとうございました。こちらに簡単ではありますが、朝餉と布団を用意しておりますので、お帰りになる前にどうぞごゆっくりお休みください。」
屋敷まで付き添ってくれた桃蘇の奉公人たちに、濡れた手ぬぐいを配りながら忙しく歩き回る伍女を、清孝は黙ってしばらく眺めていた。
やがて伍女の方が先に視線に気づき、歩み寄ってくる。
「若様、何か?」
「いや、桃蘇の者に世話を焼いてくれて助かる。帰り際には、彼らと、その大八車を貸してくれた商人に宛てて金一封を包みたい。留め置いておけ。」
「承知しておりますよ。確かに。
――まだ何か、おっしゃりたいことがおありでは?」
清孝は一拍だけ迷い、持っていた包みを伍女の掌へ押し渡した。
伍女はその重みを受け止め、わずかに眉をひそめる。
そして、慎重に風呂敷の端を解いた。
現れたのは――りよの巫女服の白衣だった。
「……これは――奥さまの白衣にございますか? これが何か……」
伍女は白衣を手に取り、袖口、背、縫い代の内側へと視線と指先を走らせた。
清孝はじっと、感情を殺した顔でそれを見つめていた。その沈黙が、かえって只事ならぬ重さを告げていた。
「これの背守を担当した女中はわかるか」
「ええ、巫女服の背守は七月に一括で施しましたので……鶴女、伊久瀬、そして芳乃が担当でした。
……若様、何か不都合でも?」
「――背守に、細工があった。
玉止めはするなと命じていたはずだ。それなのに、不必要に幾つも……しかも、一目では分からぬよう巧妙に隠されていた。」
「そんな、まさか……」
「おかげで、今回――りよが禍神に取られかけた。」
事態の重さに、伍女は一瞬顔色を失い、口を手で覆い言葉を失った。
「心当たりはあるか?」
清孝は微動だにせず、瞳だけで伍女を射抜いた。
「いえ……担当した女中はいずれも異能を持ち、斎部の家に忠誠を誓った者ばかりです。
若様の奥方に害をなそうなど、思う者がいるなど……考えられません……」
「そうか。――この後、りよの着物をすべて確認する。
三人は、気取られぬように妻の部屋から外せ。」
「か……かしこまりました!」
伍女は慌てて頭を下げ、小走りに廊下を曲がっていった。
その少し曲がった背を見送りながら、清孝は強く唇を噛みしめた。
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「芳乃、あなたはもうここはいいから、桃蘇のお客様のお世話に回ってちょうだいな。」
りよの部屋で支度を手伝っていた芳乃に、伍女は何気ない顔で命じる。
芳乃は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに目を細め、にんまりと笑った。
――自分が奥方の世話役から“格上の仕事”へ抜擢されたと思ったのだろう。
「はい、承知しましたぁ。……お一人でも大丈夫でしょう、奥さま?」
わざとらしく振り返りながら、勝ち誇ったような笑みをりよに向け、
芳乃は襖の向こうへと去っていった。
いつもなら芳乃の様子など気にも留めない伍女だったが、この時ばかりは目を離せなかった。
その笑みの意味に気づいた瞬間、思わず息を呑み――愕然とする。
りよはと言えば、何事もなかったかのように、淡々と自分で帯を締めていた。
「あの……奥さま。ひとつ、お伺いしてよろしいでしょうか。
芳乃は、いつも奥さまに、あのような態度を?」
恐る恐る問いかける伍女に、りよは不思議そうに首をかしげ、何でもないことのように答えた。
「ええ。芳乃さんはいつもああですよ。もう慣れましたけれど――それが何か?」
「奥さま、申し訳ございませんっ!」
伍女は慌てて正座すると、畳に深々と額を伏せた。
普段は冷静沈着な彼女の、あまりに必死な姿に、りよは目を見開く。
「や、やめてください、伍女さん!」
そんなことをされる覚えはないのに――りよは慌てて手を伸ばし、彼女を助け起こそうとした。
だが伍女は、畳に額を擦りつけたまま、頑として顔を上げようとしなかった。
「女中をまとめる立場にありながら、あのような態度を見過ごしていたとは……不覚にございます。」
「そんな――。
――約定は一年、その後は次の妻。私はその“最初”に過ぎません。
斎部に永く仕えてきた方々にしてみれば、そのようなものに仕えるのは、面白くないのも当然でしょう。
それでも不自由なく世話をしていただいているだけで、私は……ありがたく思っております。」
りよは意識して優しく微笑み、伍女の肩にそっと手を置いた。
その時、襖が音もなく開き、清孝が入ってくる。
「……何をしている」
ただならぬ空気に、清孝は眉をひそめた。
「い、いえ。何でもないのです。ほら、伍女さんも……何か私に御用だったのでしょう?」
「あ……ええ。奥さまのお着物を、確認させていただきたく……」
やがて、部屋いっぱいに着物が並べられた。
初夏から初冬までを彩る衣が次々と広げられ、その光景は、まるで百花が咲き乱れる花畑のようだった。
りよは、この屋敷に来てからまだ数か月。
その短い間に、これほど多くの着物を清孝から贈られていたのだと、改めて思い知らされる。
胸の奥がふっと熱くなり、言葉が出なかった。
その傍らで、清孝と伍女は厳しい面持ちのまま、一枚一枚を確認していた。
いつもはりよを担当しない女中も加わり、無事と判じられた着物を次々と畳んでいく。
「……五着。これだけか」
残された着物を並べ、清孝が低く言う。 その声に、座敷の空気がさらに冷えた。
伍女はそれらを背守が見えるように整え、沈痛な面持ちで押し黙った。
「これが……細工された背守なのですね。どれも同じ手癖に見えます。」
りよはそっと指先で背守に触れた。
手向村で白衣に触れたときと同じ、ぞわりと肌を刺すような嫌な気配が布から立ちのぼり、思わず眉をひそめる。
「偶然が重なって着なかったものばかり……けれど、もし袖を通していたら――」
りよの呟きが、静まり返った部屋に落ちた。
重苦しい沈黙が続き、やがて清孝が膝に手を打ち、すっと立ち上がる。
「よし。その五着と、先ほどの白衣を私の部屋へ。
そして鶴女、伊久瀬……最後に芳乃を、順に呼べ。」
「清孝さま……まさか……」
りよは息を呑み、血の気を失った顔で彼を見つめた。
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「芳乃、若様がお呼びだよ。それはあたしが後でやっとくから、早く行きな。」
桃蘇の奉公人たちのところから茶碗を下げてきたところで、同僚に呼び止められた。
「え? 私が? なんだろう……」
不思議そうな顔をわざと作り、平然としたふりで茶碗のお盆を彼女に渡す。
が――胸の奥は弾けるようで、今にも頬が緩みそうだった。
――ようやく。やっと私に順番が来たのね。
最初の嫁の期限まではまだある。だが、今回の遠征で何か不具合でもあったのかもしれない。
早く行けと言われたのに、芳乃は一度自室に立ち寄り、鏡台の前で髪を整えた。指先が小さく震えている。
――そうよ、何か起こったに違いない。
あの女は白衣を着ざるを得なかった。背守に仕込んだ細工は、必ずや芽を吹く。
今はまだ元気そうに見えても、きっと禍が起こったはず。
若様も、ようやくお気づきになったのだ。
――あんな娘は、斎部の嫁にふさわしくないと。
芳乃は鏡台の引き出しから、小さな蛤の紅を取り出した。
わずかな給金でようやく手に入れ、大事にしまってきたもの。
今日のために取っておいた――そう確信していた。
唇に紅を引き、鏡に向かってそっと微笑む。
頬はうっすらと染まり、艶めいた唇が光を返す。
鏡に映る自分は、ずいぶんと大人びて見えた。
――儚げに俯いてばかりのりよよりも。
私の方が、よほど斎部の奥方にふさわしい。
そう思えてならなかった。
――清孝さま、待っていてください。あなたの正妻が、今まいりますからね。
芳乃は、こぼれる笑みを隠そうともせず、踊るような足取りで清孝の部屋へ向かった。
「清孝さま。芳乃でございます」
逸る気持ちを抑えきれず、襖の向こうに声をかける。
返事はない。
代わりに、襖がすっと開いた。
現れたのは――恐ろしい顔をした伍女だった。
その奥、座敷には女中仲間の鶴女と伊久瀬が青ざめた顔で並び、
射殺すような眼差しの清孝が正面に控え、
そして涼しい顔で静かに座るりよが、芳乃を待ち受けていた。
「――入れ」
清孝の低く重い声。
部屋の空気は氷のように張り詰めていた。




