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第一話 誰にも見送られずとも

「ねえ、嘉七さまは、あやの着物、褒めてくださるかしら?」


 昼下がりの縁側越しに、何枚も着物を広げた部屋が見える。

 その真ん中に立った少女は、くるりと一回りして、母を見やった。


「ええ、とても似合っていてよ。やはり江戸表の呉服屋は、趣味が良いわ。」


 母は満足そうに笑い、女中が畳に広がる着物を拾い集めてゆく。


「お母様。今では江戸ではなく、東京と申しますのよ?

 そのような古い名を呼び続ければ、田舎武士だとバカにされます。」


「まあまあ、そうでした。あやは賢いのね」



 庭先で洗濯物を干していたりよは、ふと手を止めて、室内を見た。


 そこに広がっていたのは、幸せな良家の母娘の光景。

 でも、りよは知っていた。


 本当は、この家にそんな余裕は無いことを。


 安政二年。片岡りよは、科州(かしゅう)静間(しずま)藩の番頭表御用人を務める家に生まれた。

 父は片岡 兵十郎 重直、母は同格の酒井家から嫁いだみつだった。

 片岡家は、城勤めの家柄として、それなりに名はある。だがその名は、女児にとっては誇りではなく、ただの重しだった。


 幼い頃から、りよには“見えないもの”が見えた。

 水を浮かべて、宙に魚を泳がせることもできた。

 特に満月の夜は力が冴えて、月が高くなる頃には、こっそり庭に抜け出しては、不思議な友人たちと、水の玉を操って遊んだ。

 それが楽しくて、怖いと思ったことなど、一度もなかった。


 けれど、それを“禍”と見る者もいた。

 父兵十郎は、その力を「あやかしの所業」と言い、りよが四つのときには、すでに言い含めていた。

「そのような真似をすれば、家を穢す」と。


 一度だけ、命じられたとおりにできず、白昼堂々水の玉を浮かべてしまったことがある。

 掌を竹の物差しで打たれ、庭の木に一晩縛り付けられた。

 泣いても誰も来なかった。



 りよの不幸に、追い討ちをかけたのは、母の死だった。

 三つになる前、実母のみつは、病に伏してそのまま帰らぬ人となった。


 喪が明けるより早く、家には新しい女が入った。

 継母のさいは、出戻りの再婚。父とは、若い頃に恋仲だったらしい。

 やがて、妹 あやも生まれた。


 ふたりにとって、りよは“前の女の忘れ形見”であり、異能を持つおそろしい子だった。


 いつしか、りよの膳は、座敷に並ばなくなった。

 節句も、祝い事も、あやと継母の背中越しに眺めるだけ。


 自室に、冷えた汁と飯のひとつきりの膳──それが、彼女の“食事”だった。


 それが彼女の“家族”だった。


 そんなりよにも、一つだけ、希望があった。


 生まれて間もなく決まった縁談。

 相手は、代々年寄を務める名家──中島家の嫡男だった。


 中島 鉄之介 忠礼。二つ年上の彼は、穏やかで聡い少年で、ときおり片岡家を訪れては、りよの相手をしてくれた。


「りよ殿を、ぜひに」


 その言葉は、みつが亡くなったあとも変わらなかった。

 たとえ、兵十郎やさいが、妹のあやを勧めようとしても──

 鉄之介は、まるで興味を示さなかった。


 格上の家がそう言うのだからと、誰も異を唱えられなかった。

 兵十郎ですら、黙るしかなかった。

 だから、りよは許嫁のままでいられた。


 ……それが、さいの機嫌を損ねる理由のひとつだった。



 だが、りよの不幸を決定づけたのは、戦だった。


 慶応四年──静間藩主・中島忠常が、何者かにより暗殺された。

 その場にいた忠常の側近たちも巻き添えとなり、鉄之介の父も命を落とした。


 元服を終えたばかりの鉄之介は、急ぎ家督を継いだ。

 時は、維新の動乱まっただ中。

 静間藩もまた戦に巻き込まれ、若き当主は兵を率いて出陣することになった。


「帰ったら、祝言を挙げ、夫婦になろう」


 別れ際にそう言って微笑んだきり、彼は古志国こしのくにで凶弾に倒れた。


 その知らせが届いた日、りよは、自分のなかの何かが音を立てて崩れるのを感じた。



 不幸は、それでは終わらなかった。


 幕府が倒れ、大政奉還、そして版籍奉還、文明開花。

 世の中が、華々しく鮮やかに裏返っていく中で、片岡家は禄を失った。


 静間藩は譜代の小藩ゆえに声も小さく、藩主暗殺後の混乱で、新政府への帰順の返答が遅れたこともあり、政府からは冷遇された。


 城勤めの家柄として、かつては中枢にいた片岡家も──

 今では、表から見れば立派な屋敷に住みながら、その内情は火の車だった。


 父は、体面だけは崩すまいとした。

 他の裕福な藩士たちに倣い、東京へと引っ越したが、贅沢は何ひとつやめようとはしなかった。


 そのしわ寄せは、決まって“使いやすいもの”へ向けられる。


「りよ、おまえの縁談がまとまった。」


 先ほどまで庭先で、洗濯物を干していたりよは、帰ったばかりの父に呼び出され、ついにきたか、と俯いた。


「喜びなさい。『斎部いんべ家』よ。京に都がおかれる前から続く、由緒正しいお家柄ですって。

 まあ、色々といわくのあるお家らしいけれど……“狐憑き”のおまえさんにはちょうどいいんじゃないかしら。」


 兵十郎の隣に控えていたさいが、何やらいやらしい笑みを浮かべて、りよを見る。

 あまりにも露骨な表情に、さすがの兵十郎も妻をたしなめた。


「斎部 造酒三郎みきさぶろう 清孝殿だ。斎部家は神職の家系で、旧来から公家方とつながりが深い。

 清孝殿は次期当主で、新政府軍の高官とも親交がある、将来有望な若者だ。

 おまえには、身一つで嫁いでくるようにとの、ありがたい申し出があった。」


 ――ああ、そうか。だから、あやの着物があんなに増えたんだ。きっとあれは、斎部家からの支度金なり、結納金をあてにしたものだ。


 合点がいったりよは、腹の中で渦巻くやりきれない思いを呑み込むと、深々と頭を下げた。


「謹んでお受けいたします。」


 簡素に結ったりよの髷をしばし見つめ、兵十郎は満足げに頷いた。


「三日後に家を発つように。それまでに、身辺の整理をしておけ」


 それだけ告げると、父は静かに席を立った。

 その背がふすまの向こうへ消えたのを見届けてから、さいが、りよを見下す。


「──これで、あやの婿取りの支度が心置きなくできるわ。それだけは、礼を言ってあげる」


 やけに軽やかな声だった。


「だから、絶対に離縁されてはだめよ。二度と、この家の敷居は跨がせないからね」


「承知しております。」


 りよが頭を下げたまま言うと、さいも席を立つ。


「必要なら、あの女の着物を持って行きなさい。

 ほとんど捨ててしまったけれど、行李に一つだけ残っているわ。

 それ以外、この家から何か持ち出そうなんて、思うんじゃないよ。」


 ふすまを閉めかけたその時、さいはわざとらしく振り返って、一言付け足した。


「そうそう、前原さまの奥様が言ってたわ。斎部家って、“嫁を食う家”なんですって。

 今のご当主、この前、七人目の奥様を迎えたとか──ふふっ」


 心底楽しそうな笑い声を残して、さいはふすまを閉めた。



 三日後の朝。

 りよは、父から渡された書状を胸に、母の着物のうち、着られる数枚を選び、風呂敷に包んで背負った。


 花嫁衣裳は用意されなかったが、普段着で赴くわけにもいかず、母の遺品の中から、五つ紋の江戸褄を纏った。

 紋は、母の実家──酒井家のものだったが、致し方ない。


 誰も見送りには出なかった。

 りよは家の門をくぐると、深々と一礼し、父に教えられた住所の方向へ歩き出す。


「おりよちゃん!」


 不意に背中から声がかかった。

 振り返ると、一人の婦人が小走りにりよの方へと近づいてきていた。


「おていさま……」


 知っている顔に、りよは目を見張る。

 彼女は鉄之介の母で、中島家の未亡人だった。

 夫と息子に先立たれ、いまは生家に身を寄せているという。


「間に合ってよかった。あなたが急に嫁ぐと聞いて、慌てて来たの。

 まあ、あなた、なんて格好なの……あの人たちは、相変わらずなのね。」


「良いんです。母の着物なので、心強いですから」


 りよが、あきらめの混ざった笑みを浮かべると、ていは痛ましそうに顔をゆがめた。


「鉄之介が、あんなことにならなければ……今頃あなたが娘だったのに。ほんとうに悔しいこと。

 でも、おめでとう。これをあなたに渡そうと思って」


 ていは懐から一振りの短刀を取り出し、そっと差し出した。

 りよはそれを受け取り、しげしげと眺める。


「酒井家の紋……?」


「ええ。実は、みつさんが亡くなる少し前に、これを私に預けていたの。

 あなたが中島家に嫁いで来たら渡してほしいって。

 みつさん、片岡家があなたにどんな仕打ちをするか、きっとわかっていたのね。

 どうせ、あの人たちは守り刀の一本も、渡していないのでしょう?」


「……ええ」


 ていは、俯いたりよの手を、自分の手でそっと包み、涙ぐんだ。


「あなたを嫁に迎えられなかったのは、本当に心残り。

 だから、どうか幸せにおなりなさい。

 困ったら、いつでも頼ってきて。ね?」


「おていさま……」


 涙ぐむりよを、ていはしっかりと抱きしめた。

 柔らかな香の香りと、懐かしいぬくもりが胸に広がって──りよは、そっと目を閉じた。

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