第十八話 神面被せの夜
神面被せの儀は、いよいよ今夜に執り行われる。
本体たるミタギリサマに触れることは、この儀の肝要であった。
強い陰の気を宿すとされるその神は、日が完全に沈み、闇が満ちてからでなければ姿を見せない。
阿多香は、村から山道を少し分け入った平場に、数か月をかけて舞台を設えた。
木を払い、石を退け、幾度も土地を清め――今はただ、神を迎える刻を待つばかりである。
「夫婦なのだから、恥じらうことはないだろう」
阿多香が肩で笑いながら言い放ち、二人をまとめて仮宮の控室の一つへ押し込んだ。
「……夫婦だからこその、恥じらいがあるのに」
りよは小さくつぶやき、風呂敷包みを解く。
白と朱の布がさらりと床に広がり、巫女装束が静かに並んだ。
清孝はりよを思いやってか、従者を外に下がらせ、自分で着られるものは自分で着るつもりらしい。
何のためらいもなく、さっさと帯に手をかけた。
「……見ていないから、早く着換えよう」
背を向けたまま、道中着てきた襦袢をするりと肩から落とす。
その瞬間、りよの視界に、白い背から長い足先までが一度に映り込んだ。
心臓が跳ね、慌てて同じように背を向ける。
思い切って小袖ごと襦袢を脱ぎ落し、用意してあった新しい襦袢に慌てて袖を通した。
続いて巫女装束の白衣を手に取った瞬間――ぞくり、と背筋を撫であげるような冷たい気配が走る。
……何だろう。
白衣を指先で探る。裏返し、縫い目をなぞり、何度も確かめる。見た目は何もおかしくない。
強いて言えば、背中の「背守」。
縫い目は何度も刺し直された跡があり、糸が抜き差しされた箇所は織り目がよれていた。
……こんなの、今まであったかしら。
指先から、じわりと嫌な感触が伝わってくる。だが持ってきた衣装はこれ一枚。
清孝考案の“特別な背守”を施していない衣は、りよには一切着られない。
仕方ないわね……。
嫌な予感を胸の奥に押し込み、袖を通す。
千早を上から纏えば、不思議とその感触は薄れ、ただ白布の重みだけが肩に残った。
一足先に支度を終えたりよは、続けて清孝の支度にも手を伸ばした。
「従者を呼ぶから――」
呼びかけようとする清孝を、そっと手で制す。
「いいえ、私が手伝えばすぐですから。
それに、本来ならお支度を整えるのも、妻の役得です」
「……それは、そなたの実家の習いだろう?」
りよは首を振り、静間の国元で見た武家の妻たちの姿を思い浮かべながら、袍の裾を持ち上げた。
「そうかもしれません。
でも、私も――清孝さまのお役に、一つでも立ちたいのです」
一瞬、清孝の手が止まる。
「……りよは、もう十分、私の役に立っている」
りよはそれには答えず、どこか嬉しげに冠のあごひもを結んだ。
そんなりよに、清孝も押し黙る。
支度を整え、しばらく手を握り合って陰陽の気を調え終えると、二人は控室を出て、仮宮の通用口で阿多香と合流した。
彼女もまた、着流しから清孝と同じような赤い袍に着替えている。どうやら、今宵は男として振る舞うつもりらしい。
彼女の先導で、山中に設えられたという舞台へ向かう。
頭上には満月がかかり、木々の間からこぼれる月影が、足元をほの明るく染めていた。
人里では耳にしていた虫の音が、山に入った途端ぴたりと止む。
代わりに、湿った土の匂いと、自分たちの足音だけが耳に残った。
「巫女を従えねばならぬとは、難儀よのう」
低く洩らした阿多香のつぶやきに、清孝の眉がぴくりと動く。
「余計なことを申すなら、この場で帰っても良いのだぞ」
露骨な不機嫌を受け、阿多香は苦笑しつつ肩をすくめた。
「失礼。揶揄したわけではない。
ただ……荒魂と和魂が引き裂かれ、陰陽の均衡が崩れた状態で神威を操るのは、並の術者では手に余る。
正直、そなたの負担は大きいと思ったまでだ」
少し声を落とし、阿多香は続ける。
「それに、これは斎部家への直々の依頼だ。そなたは自分の意志で帰るわけにもいくまい。
……まあ、首尾次第では、篠崎が進めている“異能特務局”への参加も、前向きに考えようと思っている。悪い話ではあるまい」
「ふん、あれは資雅殿が勝手に進めていることで、私はヤツの手伝いをしているだけだ」
機嫌の戻らぬ清孝に、阿多香はくすりと笑った。
「しかしなあ……斎部の分かたれた荒魂の半身は、いったいどこへ行ってしまったのだろうな」
ちらりとりよに視線を流し、続ける。
「和魂との和合が成れば――清孝殿に敵うものは、この世にも、あの世にすらいないだろうにな、それこそ、天照大神だろうが――」
「……滅多なことを言うな。買いかぶりすぎだ」
清孝は低く吐き捨てるように続けた。
「それに――和魂の行方など、数代前から誰も追っていない。
斎部は荒魂を縛り、その神威を必要なだけかすめ取る。それが、この家のやり方だ。変えるつもりはない」
「ふーん……」
阿多香はまたも意味深に、清孝とりよの間に視線を往復させた。
月明かりの下、その目は何かを計るように細められている。
ほどなく、一行は山の中の小径を抜け、開けた平地へ出た。
澄んだ空気の中、篝火がいくつも焚かれて、桃蘇の神職や奉公人たちが、儀式の準備の最終確認に追われている。
鈴の音や木槌の響きが、静かな夜気にこだましていた。
「阿多香さま、もう間もなく整います。神面もこちらへ」
上役らしい神職が進み出て、舞台手前の台に据えられた蒔絵の箱を指した。
「ご苦労。儀式は手はず通り、丑三つ時に始める。それまで抜かりなく――確認を怠るな」
阿多香は手慣れた調子で指示を飛ばし、清孝とりよを舞台の手前へと招く。
二人が追いつくと、先ほど指された箱の蓋を静かに開けた。
朱漆の内張りが月明かりを受けて鈍く光り、その中央には面を据えるために誂えた座布が敷かれている。
その上に――美しい女の面が鎮座していた。
「これが、古法の技で拵えた神面だ」
阿多香は面の頬を指先でそっとなぞる。
「顔をそぎ、この面を被せれば、神威の強度はそのままに、国津神の分霊として生まれ変わる。
……美しいだろう?木花咲耶比売命は。
旧き禍神も、この新しい顔をきっと気に入るに違いない」
彼女はしばらくその面に見入っていたが、やがて元通りふたをし、二人へ向き直った。
「まだ少し時間がある。あちらに席を用意しているので、時間までゆるりと過ごされよ。
私はもう少し、最終確認があるのでな。――失礼する」
そう言い残し、阿多香は足早にどこかへと去って行った。
りよは、ぼんやりと蒔絵の箱を見つめる。
「顔を挿げ替えられるって……どうなんでしょうね」
清孝はしばし黙し、視線を箱に落としたまま答えた。
「さあな。だが、それで本当に禍神を御し、利益をもたらす福の神として信仰を集められるのなら――神自身にとっても悪い話ではないのかもしれぬ」
そこで一度、口元だけが笑みに歪む。
「……少なくとも、私のようなものに祓われ、焼き尽くされるよりは、な」
「……自分が自分でなくなってしまっても?」
りよは何げなく、清孝を見上げる。
「ああ……この世の中に、個が個であることに、どれほどの価値があるだろう。
発揮できぬ力を持て余すくらいなら、新しい面を与えて表舞台に立たせればいい……
それが、桃蘇の考えなのだろう」
「桃蘇の……?
清孝さまは、違うお考えなのですか?」
りよが小首をかしげると、清孝は少しだけ視線を伏せ、声を一層落とした。
「今この時はいいかもしれない……」
間を置き、月明かりに照らされた彼の横顔が、ゆっくりとりよへ向く。
「だが――神の寿命は、人間などより、ずっと長いのだ。
人の世は移ろう。価値観も変わる。今は多くの者がかしずいていても、打ち捨てられる未来が来るやもしれん……」
その言葉の後、清孝は一歩近づき、りよの耳元へと口を寄せた。
吐息がかすかにかかる距離で囁く。
「その時、面を挿げ替えられた歪な神は――どうなるのだろう。
……まあ、私の知ったことではないが」
冷ややかな声音に、りよの背筋が粟立つ。
儀式まで残された刻はわずか。
外から見れば、その密やかな距離は、愛を囁く恋人同士のようだった。