第十七話 御手切岳の村
出立の準備を終えた三頭の馬が、鼻息を白く散らしながら待っていた。
その手綱を、従者が一人しっかりと押さえている。
「今回は、篠崎さまのご依頼ではないのですね?」
馬の鼻先にそっと手を伸ばし、撫でながらりよはたずねた。
先触れは数日前に届き、この数日はずっと、神津毛国にある斎部本家からの出立命令を待つばかりだった。
「そうだな。斎部家として――父が受けた。
東海の桃蘇浅間大社からの依頼だ。」
「でも、行き先は奥多磨なんですよね?」
念を押すりよに、清孝が馬に跨がりながらうなずく。
「そうだ。先方はもう奥多磨に入っているそうだ。……さあ、りよ、私の後ろへ」
「ううう……失礼いたします……」
従者に押し上げられ、清孝に腕を取られ、りよはその背に乗り上げた。
今回の旅は急ぎゆえ、馬は三頭。
清孝とりよが二人で一騎に跨り、従者は一騎に乗る。もう一頭は替え馬として引き、道中、馬を代えて進む算段だ。
「清孝さま……失礼いたしますぅ……」
「……そんな妙な姿勢では、馬も困る。二人乗りは身体を密着させて安定させるものだ。恥や外聞は屋敷に置いてこい。」
「は、はいぃ……わかっておりますぅぅ……」
りよは、先日から清孝と二人乗りの稽古をしていたが、いまだに慣れない。
そもそも、なぜ速度が落ちるのに二人乗りをしなければならないのか――。
宵田から戻って以来、清孝の体調はどうにも冴えなかった。
陽の気が溜まるのが以前よりも早く、肌を触れ合わせて気を逃がす時間も、日に数刻は必要になっている。
そのため、道中であってもこうして背中を預け合い、互いの体温を伝え合わねばならなかった。
「ほら、私の腰に手を回せ。遠慮はするな。」
「ええ、はい……でも、本当に……清孝さま、どうなさったんでしょうね……」
りよは、もう開き直って彼の背にぴたりと身を寄せ、小さくつぶやく。
「さあな……。以前も、元服のころに似たようなことがあった。
あれも理由はわからぬまま、いつの間にか収まったが――」
そこで清孝は言葉を切り、手綱を握る指先にわずかに力をこめた。
「では、行って参る。」
いつものように、伍女と芳乃、そして数名の奉公人が門前に並び、一行を見送る。
振り返ったりよの視線が、ふいに芳乃とぶつかった。
憎々しげな目元のまま、口端だけが、勝ち誇るようにわずかに上がっている――。
その笑みが胸の奥に小さな棘のように刺さる。
けれど、馬が歩き出すと、りよは再び清孝の背にしがみつくほかなくなった。
「りよは――温かいな。もう空気が冷たい……
ほら、手先が冷える。私の羽織の下に――」
発って間もなく、清孝がつぶやく。
吐く息が白くほどけ、背中越しに伝わる体温が妙に近い。
やはり宵田から戻って以来、清孝は体調だけでなく、どこか態度も変わった――と、りよは思っていた。
前よりもずっと優しく、さりげなく気遣ってくれる。
その変化が、かえって胸をくすぐり、くすぐられたことを認めたくない気持ちも生まれる。
それでも心地よさに負けて、彼女は、まだ曖昧なまま、この関係に甘んじていたい――そう思ってしまっていた。
「そうですか? 私にとっては――清孝さまの方が、ずっと温かいですけれど……」
言われるままに羽織の下へ手を差し入れると、指先にぬくもりがじわりと広がった。
りよはそっと彼の背に頬を寄せ、目を閉じる。
厚手の衣越しにも、鼓動がわずかに伝わり、その一定のリズムに自分の呼吸も自然と合わさっていく。
風が頬をかすめ、耳元で馬の蹄が土を叩く。
斜めに差す秋の陽が影を長く伸ばし、遠くの山肌にはうっすらと白い冠が見えた。
背中越しのぬくもりだけが、その冷たさをそっと追い払っていた。
青梅街道を多磨方面へと進み、その夜は青梅の宿に泊まった。
翌日はそのまま西へと進み、川沿いの紅葉を愛でながら、冷え込みの増す山道を行く。
夕刻には、依頼人の待つ村へとたどり着いた。
御手切岳のふもとにある手向村――。
林業を生業とし、山深い立地にもかかわらず、多くの人々が暮らしている。
木の香りが風に混じり、村の入り口の広場には切り出されたばかりの材木が積まれていた。
しかし男たちは何かの準備に追われて広場をせわしなく歩き回り、女子供は家の近くで緊張した面持ちのままこちらをうかがっている。
「清孝殿! お待ち申しておった!」
広場の端から駆け寄ってきたのは、着流し姿の若い女だった。
髪は一つに束ねて背に流し、日焼けした頬には健康的な赤みが差している。
動きに合わせて開いた襟元から、豊かな胸に巻かれたさらしがちらりとのぞいた。
「桃蘇阿多香殿か? 斎部清孝だ。」
清孝は名を確かめつつ歩み寄る。
りよも裾を押さえ、小走りにその後を追った。
「いかにも。私が桃蘇浅間大社の筆頭宮司、桃蘇阿多香だ。
このたびは、神面被せの儀へのご助力、まことに感謝する。」
阿多香は簡潔に礼を述べると、すっと声を落とした。
「……ただ、ここは人目が多い。詳しい話は、仮宮を設けてある。そちらで――」
清孝は黙ってうなずくと、りよを振り返り、手招きした。
「こちらは妻のりよ。彼女の助力なくしては成らぬ。よって、この場にも同席させる。」
その言葉に、阿多香は初めてりよへ視線を向けた。
頭のてっぺんから足元まで、じろりと一瞥し、ほう、と短く息をつく。
「承知した。――しかし、これが噂に聞く“斎部の嫁”か。
何と言うか……思っていたより、ずいぶん普通だな。」
言葉の端に、値踏みするような響きがあった。
初対面でそんな物言い――りよは胸の奥に、かすかな怒りが灯るのを感じる。
「普通、なのが、特別なのだ。」
清孝はすました顔のまま、静かに返す。
その声音に、りよは自分の怒りを呑み込み、背筋を正した。
迎え入れられた仮宮は、本当にここ数日で建てられたらしく、杉の香りが濃く漂っていた。
柱にはまだ皮の名残があり、床板も白木のままで、踏むたびにかすかに鳴る。
「神面被せの儀が無事に済めば、村人たちが正式な社殿を建てると申し出ているのだ。」
阿多香は円座に腰を下ろし、胸を張って言った。
口元にうっすらと笑みを浮かべ、どこか誇らしげだ。
「一応、具体的な経緯と策を聞かせてもらえるか。
父からは“山神を抑えろ”としか聞いていないのでね。」
清孝とりよも向かいに腰を下ろし、間を置いて静かに告げた。
「全ては――御一新に始まるのだが」
阿多香は、円座に腰を正し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここら一帯は、もとは修験道の聖地でね。
修験が盛んだったころは、山神も抑えられていた。だが、神仏分離に続く廃仏毀釈で修験の講が壊滅し、抑えがきかなくなったらしい。」
りよは思わず室内を見回した。新しい杉の香りの奥に、何か湿った匂いが混ざっている気がした。
「表向きは菊理比売命を祀っているが、実際には“ミタギリサマ”という土着神だ。」
ミタギリ――耳慣れぬ響きに、りよの背筋がわずかに粟立つ。隣に座る清孝は表情を動かさない。
「そこで、我ら桃蘇浅間大社が神面をすり替え、木花咲耶比売命としてお祀りする。
そして、この地に“桃蘇浅間神社”を建て――東都進出の足掛かりとするのだ。」
「神面をすり替える……とは?」
清孝がいぶかしげに問うと、阿多香は二本の指を立て、空を切るようにスッと横へ払った。
「いわれも分からぬ神の顔を――こうして削ぎ取り、正当なる国津神の顔を植え付けるのだ。
接ぎ木と同じで、古来よりこの国をまとめるために行われてきた方法だ。」
その口調はあまりに平然としていた。
だが、りよにはその所作が、生き物の皮をはいで別の顔をかぶせる光景のように思えた。
背筋をひやりと汗が伝い、胸の奥がぞわぞわと騒ぎ立てる。
「ほう……禍神を御する方法に、そんなものもあるのだな……」
清孝は感心しているような口ぶりだったが、その眼差しは氷のように冷たく、決して警戒を解いてはいなかった。
阿多香はその視線を真正面から受け止め、ふっと鼻で笑う。
「まあ、どうとでも思うがいい。これが我らのやり方だ。」
彼女の声が一段低くなる。
「禍神に情など持たないでくれ給えよ。――奴は今年の梅雨、たった一夜で一ケ村を土砂で埋め尽くし、十数人もの無辜の命を奪ったのだ。」
りよの脳裏に、ぬかるんだ大地と、埋もれた家々の影がよぎる。
その光景に、背筋が思わず強ばった。
阿多香は、そんなりよの心中などお見通しとばかりに、わずかに口端を上げ、今度ははっきりと彼女を見すえる。
「人間の御せる、和魂への面の付け替えは急務なのだよ。――のう、斎部の奥方。」
鋭い声が、仮宮の新しい柱に反響し、りよの胸の奥まで突き刺さった。
人の手で、いにしえの昔より息づいてきた神の顔を変える――。
柱の木目を見つめながら、りよは唇をきゅっと結んだ。
一見、理にかなった策に思える。だが、その奥底には、とんでもない禁忌を踏みにじる匂いが漂っている。
新しい杉の香りが、なぜか冷たく鼻腔を抜ける。
その不安を、りよはどうしてもぬぐえなかった。