第十六話 妹、門を叩く
秋もすっかり深まり、身狭国の縁辺を縁取る高山には、白い雪の冠をいただくものもちらほらと現れはじめた。
斎部の屋敷の庭木や、近くの里山も、漆の目を刺すような赤から、銀杏の眩しい黄色、楓の深い紅、山毛欅や小楢のやわらかな茶色まで――山は燃えるように、今年最後の彩を競っている。
その美しさの奥に、冷たく鋭い風が忍び寄っていた。
「芳乃さん、この楓など、清孝さまの書斎にいかがでしょう。」
「はいはい、奥さま。仰せの通りに。
こんな枝一本で若様の御心が休まるなんて思えるとは……やっぱり、奥さまはおめでたいですねぇ」
相変わらず芳乃の物言いは棘を含んでいた。
けれど、りよはもうあまり気にしなくなっていた。
きっと芳乃は、こういう言い方しかできないのだ。
そう思うようにしてからは、不思議と胸の波立ちも静まるのだった。
芳乃が鋏で、バチンと大きな音を立てて楓を一枝切る。
その瞬間、りよの背筋を、冷たいものがかすめた。
久しく忘れていた——慣れ親しんでいたはずなのに、どうしようもなく嫌な気配。
「奥さま、少しよろしいでしょうか――」
植え込みの向こうから、従者が足早にやって来た。
「はい、何でしょう?」
りよが向き直ると、従者は困惑を隠せない顔で口を開く。
「あの……奥さまにお客様が。片岡あやさまと名乗っておられまして……」
「片岡……あや?」
りよが呆然と聞き返すと、従者は何を思ったか、慌てて喋り出す。
「奥さまがご存じないようでしたら、先触れもございませんし、お引き取り頂きましょうか――」
とって帰ろうとする従者に、りよは慌てて制止する。
「い、いえ!それは私の妹の名です。十三、四ほどの乙女でしょう?
こんな遠いところまで、何しに来たのでしょう……」
「会われますか?」
少し胸をなでおろした従者がうかがう。
「ええ、座敷に通してくださいますか?
芳乃さん、楓は飾っておいてください。」
従者が去ると、りよは胸の奥に、どうしようもないざわめきを覚えた。
妹に会うのは、もう何カ月ぶりだろう。
思い出すのは、嫁ぐことを命じられたあの日のこと。
縁側の向こうで、さいと女中が、りよの支度金をあてにして買った着物を広げていた。
その横であやは、袖を撫でながら嬉しそうに笑っていた——。
実家で、りよがあやと言葉を交わす機会はほとんどなかった。
悪意をぶつけてくるのは、もっぱら継母のさいで、あやはその影に隠れ、そっとこちらをうかがっているだけの存在だった。
きっと、さいから「お姉ちゃんには近づくな」と言い含められていたのだろう。
だから、りよは彼女に強い悪感情を抱いてはいなかった。
ただ、縁側越しに見たその横顔は、いつも母の影の中に沈んでいた——。
伍女に案内され、あやの待つ座敷へ向かう。
近づくほどに、久々の再会の緊張ではない、背筋を這い上がるような嫌な気配が強まっていく。
「りよ、酷いじゃない。何度も手紙を書いたのに、全部無視して」
襖を開けるなり、あやは責めるように言い、恨みがましく上目遣いで見た。
「手紙……ですか? 一通も届いておりませんけれど……行き違いかしら」
りよは向かいに座りつつ、素早く妹を観察する。
薄紅の牡丹をあしらった友禅——上等だが、寒牡丹にはまだ早い季節。
しかも裾や袖口はわずかに擦れ、全体にくたびれた印象がある。
かつて季節を外すことなどなかったあやが。
連れの女中の小袖も色褪せ、綻びを縫い直した跡が痛々しい。
……この違和感、やはりあの嫌な気配と同じ——。
「白々しいわ。こんな豪勢なお屋敷で悠々と暮らして、片岡家のことなんてどうでもいいと思っているんでしょう?」
「……本当に知らないのです。何があったの?」
りよは内心、面倒だと感じた。それでも、理由も聞かずに突き放すのは違うと思い、一応問い返した。
あやは口を尖らせ、早口にまくし立てた。
「父上がね、また妙な商売を始めたの。藩の古い仲間を集めて、海運だの洋式工場だの……。でももう、借金ばかり膨らんでる。母上も、最近はおかしな人たちとばかり会って、家のことなんか見向きもしない」
「それで?」
「それでじゃないわ!」
あやの声が震える。
「屋敷の中がおかしいの。夜になると誰もいない廊下で足音がしたり、障子に濡れた手形がついてたり……。女中たちは次々に辞めていくし、眠れない夜が続いて……」
あやの瞳は、ただ怯えているだけでなく、どこか熱に浮かされたようにも見えた。
「聞いたわよ、りよの旦那さん、お祓いみたいなこともやってるんでしょう?
じゃあ一度、うちに来てお祓いしてよ。それと……お見舞金も、ちゃんと包んでね。
嫁の実家なんだから、そのくらいしてくれて当然じゃない」
「無理よ。私からそんなお願い、清孝さまにはできない。
それに……さい様から、“二度と敷居を跨ぐな”と仰せつかっているの」
ぴしゃりと言ったりよに、実家にいたときにはなかった威圧を感じて、あやはたじろいだ。
それは、嫁いでから身につけた静かな強さだった。
が、それでも負けじと言い募る。
「そんな! じゃあ片岡の家を見捨てるっていうの? 育ててもらった恩を、平気で裏切るの?」
「……そんな言い方をされても。私はもう嫁いだの。片岡家の人間じゃないわ」
「りよっ!」
あやが声を上げたその時、襖がパンと小気味よい音を立てて開いた。
「やけに鼻を刺す臭気が漂っていると思って来てみれば……りよ、こいつは誰だ?」
不機嫌を隠そうともしない清孝が、眉間に深いしわを寄せて座敷に入ってくる。
「先触れもなく、申し訳ございません。私の腹違いの妹、あやでございます」
りよは少し恥ずかしげに紹介したが、あやはぽかんと口を開けたまま、清孝を穴があくほど見つめていた。
「えっ……? ええっ?! ちょ、ちょっと待って、この人がりよの旦那さん?
全然普通じゃない! っていうか……すごい二枚目! 歌舞伎役者みたい!」
不躾に指を刺され、清孝は心底嫌そうな顔をして、りよに目配せした。
「用件はなんだ?」
「……どうも実家が拙いことになっているようで。お祓いと……お金の無心に来たようです……」
消え入りそうなほど恥じ入って言うりよとは対照的に、あやは目を輝かせて身を乗り出していた。
清孝はもう一度あやに目を向け、細めた瞳の奥で何かを見極める。
やがて、嫌なものを見たように眉をひそめた。
「……血まみれの男女が何人も見える。百姓に、商人……女は武家の娘か。
あながち、先祖が百姓一揆や借金の相手を斬ったのだろう。女は……痴情のもつれか」
「っ……」
あやは息を呑み、思わず周囲を見回した。
「武士の世が終わり、弱った今こそ、奴らは表に出てきたのだ。
お前個人に憑いていないのが、まだ幸いだ。……さっさと嫁いで実家を出れば、万事解決だ」
「解決って、私は婿取りをするのよ!片岡の家は出られないわ。ねぇ、祓ってよ」
「断る」
清孝は一言で切り捨てた。
それでもあやは、畳に手をつき、縋るように身を乗り出す。
「そんなぁ……。じゃあ、私とりよを取り換えるのはどう?
私はりよよりずっと若いし、器量だって……ほら、ずっといいわ」
つややかな髪を指でかき上げ、媚びるように笑う。
「ねぇ、旦那さま。りよ、これ、名案だと思わない?」
りよは返す言葉を失い、息だけが詰まった。
清孝は困惑するりよを一瞥すると、ゆっくりとあやをにらみ据え、その手を無言で取った。
自分が選ばれたと思ったあやは、一瞬、口元に喜色を浮かべる。
だが次の瞬間、その笑みは凍りつく。
顔がみるみる青ざめ、目を見開いたまま、清孝の手を振り払う。
息を詰まらせ、胸元と口を押さえ、畳に崩れ落ちた。
「……私の有り余る陽の気を、少しだけお前に送った。
この程度でこの有り様——私の妻を名乗るなど、笑止千万。
分をわきまえよ」
清孝は、汚いものでも触ったかのように懐から手拭いを出し、指先を丁寧に拭った。
そのまま、りよをこれ見よがしに後ろから抱き寄せ、頬に手を這わせる。
「りよは、先ほどの何倍も、常に私の陽の気を受け取り、さらに自らの陰の気も私に渡している……お前では足元にも及ばん」
「……ならば、せめて、実家のお祓いを……」
なおも食い下がるあやに、清孝はりよを抱いたまま、氷のような視線を投げた。
「……何の義理があって、私が貴様たちのために動かねばならん?
りよを娶った義理ならば、支度金で十分に果たしたつもりだ」
あやは唇を震わせたが、清孝の視線に射抜かれ、何も言えずに俯いた。
座敷に重たい沈黙が落ちる。
その時、廊下の向こうから足音が近づき、襖の外で控えていた伍女の声がした。
「若様、本家よりの使者がお見えです」
清孝は腕を解き、りよの肩を軽く押して離す。
「通せ」
襖が開き、旅装の男が深く頭を下げた。
「急ぎの用にて参上仕りました。……御館様より、山神討伐の命にございます」
緊迫した空気に、りよは思わず息を呑む。
あやは状況を飲み込めず、ぽかんと二人を見ていた。
だが清孝は振り返らず、淡々と告げる。
「――行くぞ、りよ」
「はい、清孝さま」
「ちょっと待ってよ! 無視する気?!」
あやの怒声が背後から飛ぶが、清孝は振り返らない。
あとを追いかけたりよが、足を止めて振り返る。
「私たちはこれからお役目なの。何人も……いえ、村落一つの命運がかかっているの。
しかも、ちゃんと事前に先触れもあったのよ、ね?」
ため息まじりにそう言うと、清孝の背を追った。
座敷に残されたあやは、呼び止める言葉を失い、ただその背を見送るしかなかった。