表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/35

第十六話 妹、門を叩く

 秋もすっかり深まり、身狭国(むさしのくに)の縁辺を縁取る高山には、白い雪の冠をいただくものもちらほらと現れはじめた。

 斎部の屋敷の庭木や、近くの里山も、うるしの目を刺すような赤から、銀杏いちょうの眩しい黄色、かえでの深い紅、山毛欅ぶな小楢こならのやわらかな茶色まで――山は燃えるように、今年最後の彩を競っている。

 その美しさの奥に、冷たく鋭い風が忍び寄っていた。


「芳乃さん、この楓など、清孝さまの書斎にいかがでしょう。」


「はいはい、奥さま。仰せの通りに。

 こんな枝一本で若様の御心が休まるなんて思えるとは……やっぱり、奥さまはおめでたいですねぇ」


 相変わらず芳乃の物言いは棘を含んでいた。

 けれど、りよはもうあまり気にしなくなっていた。

 きっと芳乃は、こういう言い方しかできないのだ。

 そう思うようにしてからは、不思議と胸の波立ちも静まるのだった。


 芳乃が(はさみ)で、バチンと大きな音を立てて楓を一枝切る。

 その瞬間、りよの背筋を、冷たいものがかすめた。

 久しく忘れていた——慣れ親しんでいたはずなのに、どうしようもなく嫌な気配。


「奥さま、少しよろしいでしょうか――」


 植え込みの向こうから、従者が足早にやって来た。


「はい、何でしょう?」


 りよが向き直ると、従者は困惑を隠せない顔で口を開く。


「あの……奥さまにお客様が。片岡あやさまと名乗っておられまして……」


「片岡……あや?」


 りよが呆然と聞き返すと、従者は何を思ったか、慌てて喋り出す。


「奥さまがご存じないようでしたら、先触れもございませんし、お引き取り頂きましょうか――」


 とって帰ろうとする従者に、りよは慌てて制止する。


「い、いえ!それは私の妹の名です。十三、四ほどの乙女でしょう?

 こんな遠いところまで、何しに来たのでしょう……」


「会われますか?」


 少し胸をなでおろした従者がうかがう。


「ええ、座敷に通してくださいますか?

 芳乃さん、楓は飾っておいてください。」


 従者が去ると、りよは胸の奥に、どうしようもないざわめきを覚えた。

 妹に会うのは、もう何カ月ぶりだろう。

 思い出すのは、嫁ぐことを命じられたあの日のこと。

 縁側の向こうで、さいと女中が、りよの支度金をあてにして買った着物を広げていた。

 その横であやは、袖を撫でながら嬉しそうに笑っていた——。


 実家で、りよがあやと言葉を交わす機会はほとんどなかった。

 悪意をぶつけてくるのは、もっぱら継母のさいで、あやはその影に隠れ、そっとこちらをうかがっているだけの存在だった。

 きっと、さいから「お姉ちゃんには近づくな」と言い含められていたのだろう。

 だから、りよは彼女に強い悪感情を抱いてはいなかった。

 ただ、縁側越しに見たその横顔は、いつも母の影の中に沈んでいた——。


 伍女に案内され、あやの待つ座敷へ向かう。

 近づくほどに、久々の再会の緊張ではない、背筋を這い上がるような嫌な気配が強まっていく。


「りよ、酷いじゃない。何度も手紙を書いたのに、全部無視して」

 襖を開けるなり、あやは責めるように言い、恨みがましく上目遣いで見た。


「手紙……ですか? 一通も届いておりませんけれど……行き違いかしら」

 りよは向かいに座りつつ、素早く妹を観察する。


 薄紅の牡丹(ぼたん)をあしらった友禅——上等だが、寒牡丹にはまだ早い季節。

 しかも裾や袖口はわずかに擦れ、全体にくたびれた印象がある。

 かつて季節を外すことなどなかったあやが。

 連れの女中の小袖も色褪せ、綻びを縫い直した跡が痛々しい。


 ……この違和感、やはりあの嫌な気配と同じ——。


「白々しいわ。こんな豪勢なお屋敷で悠々と暮らして、片岡家のことなんてどうでもいいと思っているんでしょう?」


「……本当に知らないのです。何があったの?」


 りよは内心、面倒だと感じた。それでも、理由も聞かずに突き放すのは違うと思い、一応問い返した。


 あやは口を尖らせ、早口にまくし立てた。


「父上がね、また妙な商売を始めたの。藩の古い仲間を集めて、海運だの洋式工場だの……。でももう、借金ばかり膨らんでる。母上も、最近はおかしな人たちとばかり会って、家のことなんか見向きもしない」


「それで?」


「それでじゃないわ!」


 あやの声が震える。


「屋敷の中がおかしいの。夜になると誰もいない廊下で足音がしたり、障子に濡れた手形がついてたり……。女中たちは次々に辞めていくし、眠れない夜が続いて……」


 あやの瞳は、ただ怯えているだけでなく、どこか熱に浮かされたようにも見えた。


「聞いたわよ、りよの旦那さん、お祓いみたいなこともやってるんでしょう?

 じゃあ一度、うちに来てお祓いしてよ。それと……お見舞金も、ちゃんと包んでね。

 嫁の実家なんだから、そのくらいしてくれて当然じゃない」


「無理よ。私からそんなお願い、清孝さまにはできない。

 それに……さい様から、“二度と敷居を跨ぐな”と仰せつかっているの」


 ぴしゃりと言ったりよに、実家にいたときにはなかった威圧を感じて、あやはたじろいだ。

 それは、嫁いでから身につけた静かな強さだった。

 が、それでも負けじと言い募る。


「そんな! じゃあ片岡の家を見捨てるっていうの? 育ててもらった恩を、平気で裏切るの?」


「……そんな言い方をされても。私はもう嫁いだの。片岡家の人間じゃないわ」


「りよっ!」


 あやが声を上げたその時、襖がパンと小気味よい音を立てて開いた。


「やけに鼻を刺す臭気が漂っていると思って来てみれば……りよ、こいつは誰だ?」


 不機嫌を隠そうともしない清孝が、眉間に深いしわを寄せて座敷に入ってくる。


「先触れもなく、申し訳ございません。私の腹違いの妹、あやでございます」


 りよは少し恥ずかしげに紹介したが、あやはぽかんと口を開けたまま、清孝を穴があくほど見つめていた。


「えっ……? ええっ?! ちょ、ちょっと待って、この人がりよの旦那さん?

 全然普通じゃない! っていうか……すごい二枚目! 歌舞伎役者みたい!」


 不躾に指を刺され、清孝は心底嫌そうな顔をして、りよに目配せした。


「用件はなんだ?」


「……どうも実家が拙いことになっているようで。お祓いと……お金の無心に来たようです……」


 消え入りそうなほど恥じ入って言うりよとは対照的に、あやは目を輝かせて身を乗り出していた。


 清孝はもう一度あやに目を向け、細めた瞳の奥で何かを見極める。

 やがて、嫌なものを見たように眉をひそめた。


「……血まみれの男女が何人も見える。百姓に、商人……女は武家の娘か。

 あながち、先祖が百姓一揆や借金の相手を斬ったのだろう。女は……痴情のもつれか」


「っ……」


 あやは息を呑み、思わず周囲を見回した。


「武士の世が終わり、弱った今こそ、奴らは表に出てきたのだ。

 お前個人に憑いていないのが、まだ幸いだ。……さっさと嫁いで実家を出れば、万事解決だ」


「解決って、私は婿取りをするのよ!片岡の家は出られないわ。ねぇ、祓ってよ」


「断る」


 清孝は一言で切り捨てた。


 それでもあやは、畳に手をつき、縋るように身を乗り出す。


「そんなぁ……。じゃあ、私とりよを取り換えるのはどう?

 私はりよよりずっと若いし、器量だって……ほら、ずっといいわ」


 つややかな髪を指でかき上げ、媚びるように笑う。


「ねぇ、旦那さま。りよ、これ、名案だと思わない?」


 りよは返す言葉を失い、息だけが詰まった。

 清孝は困惑するりよを一瞥すると、ゆっくりとあやをにらみ据え、その手を無言で取った。


 自分が選ばれたと思ったあやは、一瞬、口元に喜色を浮かべる。

 だが次の瞬間、その笑みは凍りつく。

 顔がみるみる青ざめ、目を見開いたまま、清孝の手を振り払う。

 息を詰まらせ、胸元と口を押さえ、畳に崩れ落ちた。


「……私の有り余る陽の気を、少しだけお前に送った。

 この程度でこの有り様——私の妻を名乗るなど、笑止千万。

 分をわきまえよ」


 清孝は、汚いものでも触ったかのように懐から手拭いを出し、指先を丁寧に拭った。

 そのまま、りよをこれ見よがしに後ろから抱き寄せ、頬に手を這わせる。


「りよは、先ほどの何倍も、常に私の陽の気を受け取り、さらに自らの陰の気も私に渡している……お前では足元にも及ばん」


「……ならば、せめて、実家のお祓いを……」


 なおも食い下がるあやに、清孝はりよを抱いたまま、氷のような視線を投げた。


「……何の義理があって、私が貴様たちのために動かねばならん?

 りよを娶った義理ならば、支度金で十分に果たしたつもりだ」


 あやは唇を震わせたが、清孝の視線に射抜かれ、何も言えずに俯いた。

 座敷に重たい沈黙が落ちる。


 その時、廊下の向こうから足音が近づき、襖の外で控えていた伍女の声がした。


「若様、本家よりの使者がお見えです」


 清孝は腕を解き、りよの肩を軽く押して離す。


「通せ」


 襖が開き、旅装の男が深く頭を下げた。


「急ぎの用にて参上仕りました。……御館様より、山神討伐の命にございます」


 緊迫した空気に、りよは思わず息を呑む。

 あやは状況を飲み込めず、ぽかんと二人を見ていた。

 だが清孝は振り返らず、淡々と告げる。


「――行くぞ、りよ」


「はい、清孝さま」


「ちょっと待ってよ! 無視する気?!」


 あやの怒声が背後から飛ぶが、清孝は振り返らない。

 あとを追いかけたりよが、足を止めて振り返る。


「私たちはこれからお役目なの。何人も……いえ、村落一つの命運がかかっているの。

 しかも、ちゃんと事前に先触れもあったのよ、ね?」


 ため息まじりにそう言うと、清孝の背を追った。

 座敷に残されたあやは、呼び止める言葉を失い、ただその背を見送るしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ