第十五話 三度目の釘
「いやあ、“異能特務局”の筆頭候補さまは、実に優秀でなにより――戦も、女もね。」
茶碗を持った清孝の指が、わずかに止まった。
「……なんだ、その“異能特務局”とは。」
宵田から東京へ戻って、まだ数日も経たぬうちに、資雅は斎部家を訪れていた。
今日は、りよは同席していない。座敷の卓を挟み、男二人でひざを突き合わせている。
「ああ、名称が決まった。“陸軍省異能特務局”だ。一応は陸軍省の下に置かれるが、他の師団とは一線を画す。ほぼ天皇陛下の直属と言って差し支えない。局長には、相当な自由裁量が与えられる。」
嬉しそうに茶をすする資雅に、清孝は淡々と問いを返す。
「で、その局長には誰が座る。」
「僕だよ。この篠崎資雅が内定した。発足は来年四月――異能が、ついに表の制度に組み込まれる。」
清孝の瞳が一瞬、深く沈む。喜びとも憂いともつかぬ色を帯びたまま、湯呑を口に運んだ。
「それは何よりだが……先日の宵田の一件か?」
「ああ。怪異討伐の報告を、君たちが戻ったその足で藤波陸軍卿に申し上げたところ――不思議なことに、卿を長らく悩ませていた悪夢が、その日の夜からぴたりと収まったのだ」
資雅は芝居がかった口調で、わざと間を置き、にやりと笑った。
「おかげで、異能特務局の発足にも力強い後押しをいただけた。いやあ、清孝殿のお手柄だな。はははは」
清孝の眉間に、深い皺が刻まれる。
「……報告した直後に、悪夢が収まったと?」
清孝の視線を、資雅はにやにやと受け止めたまま、黙っている。
「おかしいではないか。我々が怪異を収めてから、東京に戻るまで、十日は空いている……。
なのになぜ、その間も藤波卿は悪夢に苛まれていた?」
広間に、しんとした沈黙が落ちる。
湯の香りだけが、二人の間をゆるく満たしていた。
やがて資雅は、口角を吊り上げたまま、ゆっくりと声を落とす。
「……これはねぇ、萩月藩士の間じゃ、ちょっと有名な話なんだけど――
宵田戦争のとき、藤波隊が朝廷側についた某藩の重臣を――誤射したらしい」
ひと呼吸置き、わざと清孝の反応をうかがう。
「まだ元服間もない若い藩士だったそうだが、某藩主も帰順のごたごたで脛に傷がある身。朝廷軍に強く出られず、その重臣の名誉を守るためにも“討死”として処理した」
資雅は茶をすする音を立て、わざと間を空ける。
「……お家断絶の憂き目にあったそうだしねぇ。藤波卿も、自責の念は深かったんだろうねぇ」
「……貴様――それが、りよの許嫁だったと、知っていたな」
清孝の声は、低く押し殺されていた。
「知った上で、私にその依頼を振ったのだろう」
射殺さんばかりの視線が資雅を貫く。
だが資雅は涼しい顔で湯呑を口に運び、ゆるく笑った。
「さて……どうだったかな」
湯呑を軽く揺らし、湯面に揺れる影を面白そうに眺める。
「ただ、藤波卿には貸しができた。異能特務局の発足も近づいた。
そして――君の奥方は、過去に区切りをつけた」
そこで一度、視線だけを上げる。
「あとは奥方との関係をどうするのか――君の腕次第だ。どう料理するかは、私の口を挟むことじゃない」
湯呑を置く音が、静かに響いた。
「……結果だけを見れば、悪くない取引だったろう?」
「……ふざけるな。ことは、そんなに単純ではない……」
清孝は低くうめき、顔を手のひらで覆った。
指の隙間から覗く瞳には、怒りと苦悩が入り混じっている。
「……あれは“最初の妻”なのだ」
唇を強く結び、低く続ける。
「一年の契約だと、白い結婚だと――すべて、彼女のためを思ってのことだ……」
言葉の端がかすかに震え、頬に食い込んだ指の関節が白くなる。
資雅は湯呑を揺らし、茶面を見つめながら小さく笑った。
「単純ではないか」
わざと肩をすくめる。
「……あの娘は、お前の陽の気をいくら浴びても平気なのだろう。
身も心も愛でて、可愛がればいい。子の一つでも授かれば――もう逃げられまい」
口の端が、愉快そうに吊り上がった。
「我々の類に、そんな女は滅多に現れん」
湯呑の縁で唇を湿らせ、わざと小さく息を吐く。
資雅は目だけを細め、清孝を値踏みするように見た。
清孝は、それ以上は何も言わなかった。
顔を覆っていた手を、ゆっくりと膝に戻す。
湯気の立つ茶碗を、憮然としたまなざしで見据える。
その視線は、茶ではなく、資雅の言葉の残滓を睨み潰すかのようだった。
「ま、これからも依頼はいくつか持ち込むかもしれんが――、発足まではゆっくり過ごしてほしい。
事務方の調整は僕の仕事だからね。
徴用まで、問題は起こしてほしくはないが――君にその心配も無用だろう。」
それからいくつかの話題を経て、資雅は立ち上がり、裾を払った。
「まあ――奥方は、大切にな」
わざとらしく口角を上げ、にやりと笑って背を向ける。
清孝の眉間の皺が、もう一段深くなった。
資雅が帰った後、清孝は自室に座り込み、長く思案に沈んだ。
りよを大切にしろ――そう釘を刺されたのは、この短期間で三度目だ。
鉄之介、てい、そして資雅。
そこまで言われれば、嫌でも考えざるを得ない。
宵田へ行くまで、清孝の中には、どこかりよを侮る気持ちがあった。
親に金で売られた哀れな娘。
しかも売られた先は、嫁を喰らう斎部家だ。
幼いころから、父と女たちの末路を見てきた。
初めは元気だった女たちが、日を追うごとにおとなしくなり、あるいは狂っていく。
動かなくなる者もいれば、泣き叫びながら家から連れ出される者もいた。
父はそうなった女たちに一切の興味を示さず、新しい肌ばかりを求め続けた。
自分は四番目の花嫁の子だ。
だが物心つく頃には、母の姿はなかった。
聞けば、清孝を産んで一年も経たずに消えたという。
――その家に、幸せが訪れる余地など、最初からなかった。
やがて元服を迎えても、清孝は嫁を取らなかった。
幕末の動乱にかこつけて、先延ばしにしてきたのだ。
女を不幸にすることへのためらい――父のようには、どうしても冷酷になれなかった。
しかし明治も五年。
世が落ち着きを取り戻すにつれ、父の圧力と、自らの中で滞る陽の気が、じわじわと迫ってきた。
陽の気は、精に最も濃く宿る。
だから最初の花嫁には、肌に触れるだけに留める。
可能なら、様子を見て――せいぜい唇を重ねる程度だ。
そうすれば、白い結婚を貫いたまま一年は保てる。
命も心も、壊さずに済むはずだった。
目を付けたのは、没落士族の娘。
武家で厳しく育った女なら、生家のために黙って従うだろう。
一年限りと告げても、おとなしく受け入れるはずだ。
初夜から情を抱かせぬよう、釘を刺す。
金で売られる女は、きっと誰にも愛されたことがない。
一年だけでも斎部の妻として衣食に困らず、多少の贅沢ができれば――それで満足するはずだ。
自分は情け深く、恩情ある男だ。
そう信じきっていた。
まるで、それだけで嫁を救えると思いこんでいるかのように。
だが……実際はどうだったろう。
りよは、たしかに哀れで酷い有様で嫁いできた。
望んだとおりに従順で、一年の契約も文句も言わず呑み込んだ。
つつましく、着物一つでも買い与えようとすれば、頑なな遠慮の末に押し頂く。
その上、陽の気は、いくら渡しても、陰の気をいくら奪っても、けろりとしている。
計算通り――そのはずなのに、なぜか彼女を手のひらに収めた実感がない。
それは、りよに、かつて愛し、愛された人がいたからなのか……
彼女を大切に思う者が、他にもいたと知ったからなのか……
清孝は、そこで思考を止めた。
次の瞬間、全身をすさまじい羞恥と、言いようのないざわめきが駆け抜ける。
一年限り、愛さないと突きつけておきながら――彼女を自分の女だと疑いもなく思っていた。
彼女にとって自分が唯一の男だと、傲り高ぶっていた。
その思い上がりの浅ましさに、今さら気付いてしまったのだ。
「私は――つまり……りよを……あの女を……」
無意識につぶやいた言葉に、自分で気づき、はっと口を閉ざす。
縁側の向こう、庭にりよの姿があった。
誰にも見られていないと思っているのだろう。水の異能を試しているようだった。
池の水面が静かに持ち上がり、小さな波紋を描いて宙にたゆたう。
その中を泳ぐ鯉を、りよはそっと指先で追い、子供のように目を細めている。
浅い銀の膜のなか、紅と金の鯉がゆるりと尾を揺らすのが、清孝の位置からも見えた。
清孝は、息を呑んだ。
――何のしがらみもなく、ただ穏やかに微笑む彼女が、ひどく遠いものに見えた。