第十四話 大事にされていたひと
「……忠礼殿のご遺族は、今どこに?」
復路――茶屋で一服の折、湯呑を置いた清孝が静かにたずねた。
宵田からの帰り道、怪異は鎮まり、予定よりもはるかに早い出立となった。それでも、往路にあった明るさは消え、主人たちの面持ちは沈んだままだ。従者や駕籠かきたちは、互いに首をかしげつつも、その理由を問うことはなかった。
「芝の霞町です。私の実家もある――静間藩の旧藩士たちが集まっている界隈に……鉄之介さまのお母さまも暮らしておいでです。」
「お父上や兄弟は?」
「お父さまは……慶応の頃に亡くなりました。それで、鉄之介さまが元服して間もなく家督を継がれたのです。
弟君もおられましたが、他家へ養子に出されていて――中島家は、実質お家断絶となりました。
お母さまは、いまは生家に戻っておいでです。」
りよは素直に答えながらも、なぜそんなことを尋ねるのか――と、わずかに眉を寄せて清孝を見た。
「忠礼殿を送った後……遺骨と、あの玉の欠片が残ったのは知っているだろう?」
「ええ。……清孝さまが拾ってくださいましたよね」
りよは一瞬だけ、清孝の懐へと視線を落とし、静かにうなずく。
「ああ。遺骨はもちろん、ご遺族に返すのが筋だ。
だが、あの玉――詳しいことは分からぬが、古く、強い力を帯びた呪具だと思う。
一介の武家が、なぜあんなものを持っていたのか……少し気になる。」
「危険なものなのですか?」
「いや。砕け散ったときに、呪具としての力は失われた。
安心しろ――もう、何の力もない。」
言い切ると、清孝は茶碗に残った湯を一息であおり、卓に静かに置いた。
そして腰を伸ばし、裾を払って勢いよく立ち上がると、店先の駕籠かきへと歩み寄る。
「帰る前に少し足を延ばして、芝まで頼みたい。駄賃は上乗せする。」
「へい、承知しやした!」
駕籠かきはキセルの灰を軽く叩き落とし、歯を見せてニカッと笑った。
芝 霞町の旧藩士町。
格子戸をくぐり、通された座敷には、丸髷に結った髪に、華美ではないが上質な着物をまとった夫人が静かに座していた。
りよの嫁入りの朝、はなむけをくれた――中島鉄之介の母、ていである。
清孝は畳に膝をつき、軽く一礼する。
「急な訪問にもかかわらず、お時間を賜り、まことに恐れ入ります。
りよの夫、斎部 清孝と申します」
「おていさま、ご無沙汰しております。」
りよも柔らかく微笑み、頭を下げる。
「いいえ、こうして訪ねてくださって、うれしゅうございます。
……まあ、おりよちゃん。元気そうで、本当に安心いたしましたよ」
「本日は――こちらを届けに参りました」
清孝は、懐から小さな漆塗りの合わせ箱と、懐紙に包んだ包みを取り出し、卓の上に静かに並べた。
「まあ……何かしら」
「……ご子息、忠礼殿の、遺骨でございます」
箱に伸びかけたていの指が、触れる寸前でぴたりと止まる。
見開かれた瞳が、箱からゆっくりと清孝へ移った。
「……あの子の――」
「おていさま、私たち、先日まで宵田へ行っておりました。
そこで、鉄之介さまに……お会いしたのです」
「忠礼殿は、蛇の神と一体となり、怨霊としてこの世に囚われておられました。
それを、私が祓いまして――こちらを」
清孝はそう告げ、懐紙をそっと開く。
露わになったのは、いく片にも割れた勾玉。
その瞬間、ていの表情は、一気に凍り付いた。
「……翠蛇玉が――」
「ご安心ください。もうこの玉には、呪力も神気も残ってはおりません。
ただ――これについては、何かご存じですね?」
勾玉をじっと見つめていたていは、やがてゆっくりと顔を上げ、清孝の鋭い視線を正面から受け止めた。
「……本当に、何も残っていないのですね?」
「はい。私が祓いました。
見立てでは――ここに封じられていたのは、蛇の姿を取る、かなり古い神かと存じますが……?」
ていは一瞬、視線を泳がせた。
しかしすぐに唇の端をわずかに上げ、何かを決めたように、ゆっくりとうなずく。
「……もう、中島家も断絶し、あの神も祓われたとなれば、秘密にしておく理由もございません。
この玉に封じられていたのは、“皆武知さま”。
中島家が、まだ波多野氏と名乗っていた頃――領していた荘園を荒らすいにしえの荒魂を封じ、やがて神として祀り上げたのが、その始まりです」
ていはそっと手を伸ばし、玉の破片に指先を触れながら、静かに語り継いだ。
「武家として身を立てた中島家にとって、“皆武知さま”は戦の神となり、多くの武功をもたらしてくれました。
天正年間、先祖が挙げた数々の武勲にも、この神威が少なからず関わっていたことでしょう。
ご存じのとおり、我が中島家は静間藩主・中島家の傍系にあたります。
江戸の太平の世となってからは、“皆武知さま”の封印と管理を、大名家より密命として仰せつかっておりました。
この秘密は、代々の当主とその妻だけに受け継がれ……鉄之介が、最後の持ち主となったのです」
「戦の神が付いていながら……なぜ――」
思わず、りよの口からこぼれた言葉だった。
ていはその顔を見つめ、かすかに悲しげな微笑を浮かべる。
「……これは、あくまで私の推測ですが……鉄之介がまだ嫁を迎えていなかったから、かもしれません。“皆武知さま”を封じ、その力を中島家のために振るうには――妻の役目が欠かせないのです」
そう告げると、ていは静かに手のひらを上に向けた。
その瞬間、空気がわずかに震え、掌の上に澄んだ水の玉がふわりと浮かび上がる。
「おていさま……その力……」
「ええ。私も、おりよちゃんと同じ――水の異能を持つ者なのですよ」
ていはしばらく水の玉を弄んでいたが、ふっと息を吐くようにして、それを消し去った。
「中島家が、おりよちゃん――あなたをぜひ嫁にと望んだのは、優れた水の異能をお持ちだと知っていたからです。
けれど、どうか誤解なさらないで。鉄之介は、ただ家のためではなく、心からあなたを慕っておりましたし……私も主人も、あなたをお迎えできる日を、どれほど楽しみにしていたことか」
りよは、そっと清孝をうかがった。
清孝もまた、同じようにりよを見ていた。
ふと重なった視線の奥に、彼のわずかな動揺が揺れているのが見えた。
それを見ていたていも、探るような眼で清孝を見つめる。
「だからね、清孝さん。おりよちゃんの実家はあのような有様ですが……私たちは、今も娘のように思い、大切にしております。
そちらのお家のことは、噂程度ながら耳にいたしますけれど――
彼女は、粗末に扱ってよい子ではございませんのよ。」
清孝は、じっと自分を射抜くような視線に、思わず背筋が冷たくなるのを感じた。
りよが契約のことを口にするはずがないと分かってはいた。
だが、目の前の女は――すべてを見透かしているかのように思えた。
「けれど、……幸せそうにしているのを見て、少しだけ、安堵いたしました」
ていの目元が優しげに緩む。
清孝の肩の力も自然と抜け、隣のりよもほっと息をついた。
ていは、そっと漆塗りの小箱へと手を伸ばした。
大切に手のひらに載せると、息を整えるように一拍置き、ゆっくりとふたを開ける。
中には絹布が折りたたまれており、彼女はそれを両手で包むように持ち、丁寧に広げた。
それは、りよが道中の土産店で見つけ、清孝の許しを得て入れ替えた箱だった。
「……まあ、こんなに小さくなってしまって……」
指先がわずかに震える。
「でも……帰ってきてくれて、本当にうれしいわ。
清孝さん、おりよちゃん、ありがとう。
この子を、私のもとに返してくれて……本当に、ありがとう」
ていは、絹布の包みごと鉄之介の遺骨を胸に押し当てた。
しばし目を閉じ、言葉を呑み込む。
やがて、頬を静かに涙が伝った。
ていのもとを辞し、斎部家の屋敷へと向かう。
駕籠は屋敷のある村落へ入る少し手前で返して、夕暮れの中を清孝は馬に荷を付けて引き、りよと従者二人はそれに従った。
「……大事にされていたんだな、そなたは」
屋敷が見えてきたところで、清孝がりよへと振り返り、ぽつりと言った。
「――ええ、おていさまや、中島家のみなさまには……よくしていただきました」
りよは静かに微笑み、清孝の隣に歩をそろえるのだった。