第十三話 過ぎし人、抱く人
「今度はこちらか……」
大蛇が燃え尽き、黒い灰となって消えた後も、清孝は警戒を解かなかった。
直刀の切っ先が、ゆっくりと鉄之介の喉元へ定められる。
だが、後方で控えていたりよは、二人の間へ進み出ると、手をすっと上げる。
「清孝さま――お待ちください。……少し、時間を」
その声は凛として、揺らぎがなかった。
鉄之介から一瞬たりとも視線を外さぬまま、りよは夫を制している。
目の前の鉄之介は、もう先ほどの陣羽織姿ではなかった。
白無地の小袖に浅葱の裃袴、髷も乱れず、月代は青々と整っている。
半分肉を失い骨が見えていた顔は欠損もなく、どこか淡い光を帯びていた。
『……りよ殿。息災であったか? ――そちらは……りよ殿のご亭主殿か?』
その声音は穏やかで、しかし底に悲しみを沈めた響きがあった。
彼は微笑んでいるのに、その笑みが痛いほど儚い。
「……はい、鉄之介さま」
りよは静かに頷き、後ろに立つ男を示した。
「私の夫、斎部 造酒三郎 清孝さまでございます。
優れた宮司さまで……この度、鉄之介さまを解き放ってくださったのも、この方なのです」
『……そうか。
私は――中島 九郎左衛門 忠礼。静間藩、番頭表御用人見習いを仰せつかっていた。
りよ殿は、いつまでも私を“鉄之介”と呼ぶが……それは、幼名だ』
彼は清孝に向き直り、淡い微笑を浮かべて名乗った。
その声は、遠くから響くような静けさを帯びていた。
『この度は……私の呪縛を解き放ってくれ、痛み入る。
そして……』
鉄之介は一拍、目を伏せた。
それから、かすかに唇を震わせて――
『……りよ殿……御祝言とは……めでたい限りだ』
「鉄之介さま……」
胸の奥が痛み、駆け寄りたい衝動が全身を走った。
だが、足は一歩も前に出なかった。
それは、彼がこの世のものではないから――だけではない。
今ここで踏み出せば、背後に立つ夫とのあいだに、
かすかに芽生えはじめたものまで踏みにじってしまう気がしたからだ。
『りよ殿……今は、幸せか?』
鉄之介が再び向き直り、眉尻を下げた。
泣き出しそうなその顔に、喉がひくりと鳴る。
「……はい。清孝さまには、良くして頂いております」
りよは、清孝との婚姻が一年限りであることを胸の奥に押し込み、
あくまで自然な笑顔になるよう心を整えてほほ笑んだ。
『……そうか……そうか……』
鉄之介は何度かゆっくりとうなずき、唇をわずかに曲げた。
その頬を、一筋の涙が静かに伝っていく。
やがて彼は、清孝へと視線を移す。
その眼差しには、りよと過ごした年月の重みと、残された者への願いが宿っていた。
『斎部殿……りよ殿は、私の大切な女でございました。
不遇な生い立ちでありますが……どうか――末永く、大切にしてやってください』
「……言われるまでもない」
清孝は、ほんのわずかに眉をひそめ、不満そうに、悔しそうに、不愛想に言い放った。
その声音に、わずかな熱が滲んでいた。
鉄之介は小さく息をもらし、口元に笑みを浮かべる。
それから、ゆっくりと姿勢を正し、清孝とりよに向かって深々と頭を下げた。
そして――
『……このような姿でも、最期に、お会いできて……本当に良かった。
どうか――引導を、渡してください』
清孝の異能の炎が、やわらかな朱の光となって鉄之介を包み込む。
燃やすというより、冷たい闇をゆっくり溶かすような温もりだった。
『君がため 玉と砕けし 我が身かな
還らぬ旅を 夢に見つつも』
清めの炎の揺らめきの中で、鉄之介は静かに辞世の句を詠む。
その唇にわずかな笑みを残したまま――光の粒となり、灰となって崩れ落ちた。
炎はしばらくの間、夜気の中で静かに揺らめいていたが、それもやがて消えた。
鉄之介が立っていた場所には、わずかな骨のかけらと灰、そしていくつかに砕けた翡翠の勾玉だけが残されていた。
翡翠は煤を帯びながらも、ところどころ淡い緑を宿している。
清孝は懐紙を取り出し、片膝をつく。
骨も勾玉も、ひとつひとつ確かめるように拾い上げ、静かに包んだ。
「……りよ?」
懐紙を懐にしまった清孝が、呆然と立ち尽くす妻に声をかける。
彼女の頬にはとめどなく涙が流れていたが、それに気づいている様子はなかった。
やがて、はっと清孝に焦点を合わせ、頬の濡れに気づく。
慌てて袖でぬぐうが、涙はぬぐってもぬぐっても後から溢れ、止まらない。
「清孝さま……申し訳ありません。今だけはお許しください……私……私……」
清孝は短く息を吐き、りよの前に一歩進み出る。
「良い。ただ、泣くのなら――私の胸を貸そう……」
清孝の言葉に、呆然と顔を見上げたりよを、彼は迷いなく腕の中へと引き寄せた。
りよの涙は、静かに清孝の着物へと吸い込まれてゆく。
夫の腕の中で、他の男のために涙を流す――その罪深さが胸を刺す。
けれど、その温もりから離れたくないと思ってしまった自分を、りよは止められなかった。
「……清孝さま? もう大丈夫ですよ? そろそろ下ろして……」
「――断る」
短く言い捨て、頑として譲らない清孝に、従者までも、あきれたように視線を送った。
城跡からの帰り道、社の前からずっと、清孝はりよを抱えたままだった。
「古き神を祓って、陽の気が高ぶっている。陰の気が必要なのだ」
その声はどう聴いても棒読みで――言い訳にしか聞こえない。
羞恥に頬まで熱くなりながら、りよは心底思った。
今が夜更けで、人通りが皆無で、本当に良かった、と。
宿に着いても、清孝は彼女を放そうとはしなかった。
起きて待っていた番頭と女将が、まあまあ、と微笑ましげに目を細める。
その視線に耐えながら、りよは抱えられたまま部屋へと戻った。
既に敷かれていた布団に、清孝は正装のままどさりと身を投げ、ひしとりよを抱きしめる。
腕の力は緩まず、まるで手放せば二度と会えなくなるとでもいうようだった。
「――今でも、あの男を想っているのか」
眠りに落ちかけていたりよの耳に、低く沈んだ声が落ちてきた。
胸の奥を軽く突かれたように、りよははっと目を開ける。
暗がりの中、清孝の視線が真っ直ぐにぶつかってきた。その奥に沈む色は、怒りとも、哀しみともつかない。
――どうせ、一年経ったら別れる妻になにを……
胸に浮かんだ言葉を、唇の奥で押し殺す。
ひとつ息をのみ、りよは静かに答えた。
「……はい。けれども、それは、思い出として、です。
生者は死者と交われない……どんなに思っても、終わったことなのです」
「……」
清孝はりよの回答が気に入らないのか、沈黙で返す。
りよは一つため息をついて、誰が聞いているというわけでもないが、囁き声に声量を落とす。
「……私は、今はあなた様の妻なのです。
妻である以上、二心は抱きません。あなた様に、誠心誠意お仕えいたします。」
当然という顔で言ってのけたりよに、清孝はなぜかひどく動揺したような顔をした。
その表情に、りよはいぶかしげに眉をひそめる。
「あなた様が必要とあらば、この身も、陰の気も何もかも差し出します。
期限が来れば、あと腐れなく立ち去りましょう。
それでも何か不満が――」
「やめろ……」
食い気味の低い声が、りよの言葉を断ち切った。
りよはおとなしく黙り、首をかしげる。
清孝は、りよが、かつて自分が暴言と共に提示した条件を繰り返しているだけだと分かっていた。
分かってはいたが――心中は穏やかでない。
「もういい。そろそろ夜も明ける。出立は明日にする。今日一日は寝て、疲れを癒せ」
話は終わりだと、りよの唇に自分の唇を押し付ける。
――が、目を閉じると、暗闇の中で、名もつけられぬ感情が荒れ狂い、持て余すばかりだった。
そんな彼の内心など露知らず、りよはふっと息をもらし、
「……おかしな清孝さま」と小さく呟いた。
その声音は、呆れとも愛着ともつかない。
清孝は返事をせず、りよは今度こそ眠りへと落ちていった。