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第十二話 蛇神と忠礼

 清孝とりよは、夕方の下見の後、一旦宿屋に戻り、夕餉をとって態勢を立て直した。

 その間に、短い秋の日はとっぷりと暮れ、宵田の宿場町は宵闇に包まれ、宿の軒先には提灯が灯る。


 やがて夜半近く、表通りは常夜灯や、まだ宿へたどり着かぬ客を待つ宿の提灯で明るかったが、その明かりの下にすら、ぬるく湿った風が吹きはじめる。澱んだ空気が肌を撫で、町全体が不気味な気配に包まれていった。


 清孝とりよは、それぞれ神職と巫女の正装に着替え、従者を一人従えて宿屋の門を出る。


「お客さん、十分に気ぃつけてくだせえな。――はい、提灯だっけさ」


 宿の女将と主人がわざわざ起きて見送りに出て、従者に提灯を手渡した。


「旦那さまも奥さまも、あんまり無理しねえでくだせえよ。二人が戻らっしゃるまで、店の者は起きて待ってるすけ」


「親切、痛み入る」


 清孝は尊大に頷き、当然のようにりよと従者を目で促すと、山手の城跡へ向けて歩き出した。


「昼間とまるで空気が違うな……霊やあやかしではない……これは、禍神の気配だ……」


 清孝は立ち止まり、周囲を見回してから、夜空を仰いだ。

 宿場の灯は遠ざかり、月明かりすら薄く、風だけがざわりと草を揺らしていく。


 張り詰めた彼の気配に、りよもつられて周囲を探る。

 不気味な湿り気は肌で感じるのに、そこに潜む“神”の気配は掴めない。

 ただ胸の奥に、何か見えぬものにじっと見られているような心地がした。


「――相手は、おそらく神代から生き残ったいにしえの神……相当な大物だ」


 清孝は低くつぶやくと、当然のようにりよへ手を差し出した。


「おおよそ一筋縄ではいかぬ。今のうちに、そなたの陰の気を――」


 その意図を悟ったりよは、迷わずその手を取った。



 城跡へと続く石段のたもとで、清孝は従者に結界札を持たせ、「ここで待て」と短く命じた。

 従者は緊張で喉を鳴らしながらも、深く頭を下げる。


 清孝はそのままりよの手を握り直し、指先から淡い鬼火を立ち上らせた。

 青白い火が風もないのにゆらりと揺れ、石段を照らす。


 一歩踏み出すと、山のふもとでうるさいほど鳴いていた秋の虫が、ぴたりと声を止めた。

 耳に痛いほどの静けさ。

 夜気の中に、じわりと生臭い匂いが混じる。

 背筋をなぞるような冷たさに、りよは無意識に清孝の手を握る力を強めた。


 やがて、昼間に訪れた社の前へとたどり着いた。

 妙な静けさは相変わらずだったが、頭上の木々が途切れ、星空がのぞく。

 そのわずかな開放感に、りよは知らず肩の力を抜いた。


「……何もいませんね。まだ早いのでしょうか」


 りよがあたりを見回しながらつぶやくと、清孝は静かに首を振った。


「いや――もう、ヤツはそこにお出ましだ」


 清孝が二本の指を立て、すっと横に空を切る。

 途端に、昼間老人が見つめていた辺りの地面が、ぼうっと淡く光を帯びた。

 光は地霧のように形をなし、やがて人影が輪郭を得ていく。


 陣笠を目深にかぶり、若草色の陣羽織。その下には黒詰襟の洋装、袴に大小の刀。


 陣笠の家紋も、陣羽織も、腰の大小も――すべてに見覚えがあった。


『帰ったら、祝言を挙げ、夫婦になろう』

 出立のとき、手を握ってそう囁いた彼の声が耳によみがえる。

 りよは胸を締めつけられ、思わず一歩踏み出していた。


「……てつの……すけ……さま……」


 そのつぶやきは届いたのか、人影がかすかに揺らぎ、俯いた顔がゆっくりと上がってゆく。


 見知った口元。通った鼻筋。そして――涼やかなはずの目元に、違和の影が走る。

 そこには、りよの知る笑みはなかった。


 月明かりが陣笠の縁を越え、彼の顔の半分を照らす。

 その皮膚は削ぎ落とされ、白い骨が夜気に晒されていた。


 りよは、高揚していた心が一気に恐怖に呑まれていくのを感じた。


「下がっていろ」


 清孝が一歩踏み出し、りよを背後へ押しやる。その背が壁のように立ちはだかる。


『……懐かしい声がした気がする……我が名を呼ぶは、誰ぞ――』


 若々しい、少年から青年へと移ろう年頃の声。

 その響きは確かに、りよの胸に刻まれた鉄之助のものだった。

 会いたい――触れたい――そんな想いが胸を揺らす。


 だが、清孝の肩越しにのぞいた“それ”は、すでに人の形を保ってはいなかった。

 肉体の輪郭が揺らぎ、骨と影が軋みながら膨れ上がる。

 ひゅう、と夜気を吸い込み、禍々しい神気が迸る。


『うま……そうな……神気だ……な』


 もうその声は、涼やかな青年の声ではなく、妙に響く不気味な邪神の声に変っている。


 陣笠も、陣羽織も、ずるりと抜け落ち――そこに現れたのは、うねる鱗と裂けた口を持つ、巨大な蛇の頭だった。


「蛇神め……あの若武者の魂を基に、周囲の怨念を集めて膨れ上がっている」


 清孝は拳を握りしめ、武者震いとともに片手を突き出した。指先から青白い火がにじみ、夜気に揺れる。


「土地神か何かですか?」


「いや……あれはこの地のものではない」

 清孝の声が低くなる。

「いにしえ、人の手で封じられ、封じた者と共に遠くから運ばれてきた類の禍神だ」


 言葉の終わりを待たず、蛇が咆哮した。

 ひゅう、と空気を吸い込む音のあと、巨大な口がこちらに向かって裂ける。

 地を打つ尾の衝撃が、社殿を震わせた。


「下がっていろ!」


 清孝の声と同時に、鬼火が爆ぜた。青白い炎が弧を描き、蛇の鱗を焼く――。


 蛇神は清孝の鬼火もものともせず、あぎとを大きく開き、彼を丸ごと呑み込まんと迫ってきた。


 りよは後方へと退きながら、清孝から教えられた祝詞を必死に唱え続ける。

 それは、直接手を握るよりは劣るものの、陰の気を糸のように清孝へと送り続ける術。

 戦場で少しでも清孝の力になりたいと、りよがねだって教えてもらったものだった。


「……本能で分かっているのか……私を喰らい、より高みに昇ろうとな?」

 清孝の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

「だが――りよを得た私の前では、敵ではない」


 言うが早いか、腰の直刀を抜き放つ。

 鞘走る金属音が夜気を裂き、刃が神威を帯びた異能の炎を纏った瞬間、青白い火花が闇を照らした。

 清孝は間合いを詰め、一息で蛇神の首へと斬りかかる――。


 が、刃は鱗に阻まれ、火花と焦げた匂いだけを残して弾かれた。


「チッ、通らぬか。」


 ならば、と清孝は借りている神威を一段と強化して、再び切りかかった。


『古き神の臭いがする……貴様も我とおなじか――』


 蛇は口調だけはどこか面白そうに、けれども、焦りをにじませながら清孝を弾き飛ばすと、一旦引いて間合いを図る。


「相手は水の気か。私とは相性が良くない。

 しかも、あの若武者が核となり、より事態が複雑化している。何とかしなければ……」


 蛇神から視線を外さず、清孝は思案する。


「りよ、やはりあの若者は、そなたの旧知の者、だったのか?」


「え?ええ……あのいで立ちには見覚えがありますし、お顔にも面影が……」


「……そなたとは……親しかったのか?」


「――っっ」


 唐突な問いにりよは凍り付く。


 清孝はわずかに息を吐き、一瞬だけりよを見た。


「……やはり、あの魂が核だ。あれを引き剥がさぬ限り、何度でも立ち上がる」


「引き剥がす……?」


「親しかったそなたなら呼び戻せるはずだ。名を呼び、心を揺さぶれ。私が隙を作る」


 りよは迷いを見せたが、やがてきゅっと唇を結ぶ。


「……わかりました。必ず」


 清孝が短くうなずく。


「いいか、情は捨てるな。ただし、呑まれるなよ」


 言うと清孝を纏っていた神威を昂らせる。

 りよには、清孝が何倍にも膨れ上がったような、そんな錯覚すら覚えた。


 禍津戸神名命の神気を、これでもかとばかりにその場に降ろし、蛇神の動きを、神格の威圧で抑え込む。


「りよ、今だ!」


 清孝の声で、りよは力いっぱい叫んだ。


「鉄之介さまーっ!中島鉄之介さまーっ!忠礼さまぁっ!」


 その声が夜気を震わせ、社の奥まで響き渡る。

 巨大な蛇神の動きがぴたりと止まり、黄金の眼がぎょろりと揺れた。


『……その名……』


 鱗の下から、わずかに人の肌がのぞく。

 りよは息を呑み、さらに声を張り上げた。


「わたくしです!片岡りよです!覚えておいでですか――!」


『……り……よ……?』


 蛇神の巨体がよろめき、黒い瘴気と淡い光がせめぎ合い始める――。


「この機、逃すか!」


 清孝は短く息を吐き、神威だけを纏わせた直刀を一閃――夜気が裂け、青白い閃光が走った。

 刃が通った瞬間、蛇神の巨体がぎらりと揺れ、そこから黒い瘴気と淡い光がぶつかり合いながら噴き出す。

 そして、それまで絡み合うように一つだった影と光が、音もなく引き剥がされた。


 大蛇の形を取った黒き瘴気がのたうち、鉄之助の姿を宿した淡い光がぐらりと揺れる。


 清孝は一瞬の迷いもなく、大蛇の方へ追い討ちをかける。神威の鎖が音を立てて絡みつき、動きを封じ込めた瞬間、己の異能の業火を叩き込んだ。

 炎が轟き、夜空を焦がすほどの熱が迸る――。


 ピシ、ピシ……と、硬い石がひび割れるような音が闇に響く。

 神威の炎に包まれた巨体がのたうち、邪神の断末魔が夜を裂いた。

 その声が途切れると同時に、蛇の姿は崩れ落ち、黒い瘴気の欠片となって霧散していった。

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