第十一話 宵田城跡の囁き
東京を出て十日目の昼過ぎ、一行は宵田へとたどり着いた。
宵田は科野川の流れに沿って栄えた三国街道の宿場町で、雁木造りの通りが長い影を落とし、川風が水の匂いを運ぶ。
かつては藩が置かれ、戊辰戦争の際は戦の要地として幾度も兵が行き交った地だが、今は祭りを控えた町の賑わいに包まれていた。
宿は藤波陸軍卿の名で、町一番の宿屋が数日押さえられており、必要とあれば滞在は延ばせるという。
従者二人ばかりでなく、駕籠の担ぎ手にも部屋が用意され、清孝から酒代の小遣いが渡されると、駕籠かきは笑い声を上げながら、早速居酒屋へと繰り出していった。
清孝たちも荷を置くと、従者の一人を宿に残して荷解きをさせ、もう一人を連れて町へ出た。
「雁木造り……こちらにもあるのですね。静間の城下町を思い出します」
りよは通りを眺め、秋の陽射しに目を細めた。
「……あれは何のためにあるのだ?」
清孝の問いに、りよはわずかに笑みを含んで答える。
「雪深い町ならではの造りで、店の軒先をつなげ、お客が雪を避けながら歩けるようになっているんです。あの軒先までが店の土地で……本当に、心づくしなんですよ」
「りよは、雪国の生まれなのだな」
「ええ、そうです」
りよは深く息を吸い込んだ。澄んだ秋の空気が胸を満たし、旅の疲れが少しずつほどけていく。
雁木の下で立ち話をする町人、色づき始めた山並み。平和な景色の中に、たった五年前、この地で激しい戦があったとは、とても思えなかった。
「清孝さま、もう午後ですが、早速聞き込みますか?」
「ああ。特段変わった様子はないが……聞いてみなければわからない」
二人は通りを見回し、雁木の下で世間話に興じる女たちの一団に目を留める。
「もし、ご婦人。つかぬことを伺いたいのだが、最近ここらで変わったことはないか?」
清孝が声をかけると、女たちは一瞬ぴたりと口をつぐむ。
次の瞬間――
「きゃぁ〜〜、お兄さん、どっから来なさったがね?」
「えらい二枚目らねぇ! 役者さんかなんかだっけ?」
「宿ぁもう決まってらっしゃるが? うち泊まってきなせや、まけとくすけ〜!」
途端に黄色い声と笑い声が雁木の下に響き、りよは思わず半歩、清孝から距離を取った。
清孝は女たちの圧に、わずかに冷や汗をにじませる。
「と……東京からだ。宿は決まっている。怪異の調査にだな……」
「怪異らか? ちょうど今、その話してたがんだて」
「へぇ〜、宵田の怪異が東都さまで伝わってるがか。どおりでこのごろ客足が寂しいわけらねぇ」
「そりゃあ、あんたんちがボロいすけだろがや!」
一同、腹を抱えて爆笑。
清孝は調子をつかめず、助けを求めるようにりよへ視線を投げる。
だが、りよもこういった賑やかな手合いとは縁遠く、ただ小さく首を振り、袖の端をぎゅっと握りしめるだけだった。
「この前の戦で焼け落ちた宵田城跡にのぉ、夜な夜な若武者の幽霊が出るっちゅう話らっけさ」
年配の女が声を潜めると、他の者も身を寄せた。
「それが、さる藩の名家の若ぇ御当主さまだっけて、とんでもねぇ美男子らてば。女子衆の間じゃ、この夏も肝試しに城跡さ行くもんが絶えんかったんさ」
「あたしが聞いたのは違うすけ」
髪を高く結った女が、手をひらひらさせる。
「城跡にいるのは白ぇ大蛇だっけ話らよ。見つかったら丸呑みにされちまうんだと」
「美男子が女子を丸呑みするっちゅう噂もあるがねぇ」
茶屋の前にいた若い娘がけらけら笑い、周りもどっと笑い声を上げた。
女たちは面白おかしく語っていて、りよにはとても怖がっているようには見えなかった。
「そのお城は、どちらにありますか?」
りよが恐る恐る聞くと、若い女がニカッと笑ってりよの方を向く。
「あらら、姐さんも美男子さ興味あっしゃるがね?」
「ええ、まあ……」
りよは、ここでは調子を合わせた方がよいと判断してうなずいた。
「お城だったら、山手の方にあっぞ。町からすぐらすけ、行きゃあ分かるて。
でも若武者が出るのは、決まって夜中んだてば。今から行っても、しゃあねぇろさ」
「明神さん寄っていきなせや。あそこの札もらえば、大蛇から逃げられるっちゅう話もあるすけ」
別の女が親切そうに言った。
「……ありがとう。とりあえず、明るいうちに下見に行ってみる」
清孝が丁寧に礼を言うと、女たちはまた黄色い声を上げた。
「……雪国の女は、もっとこう、寡黙かと思っていたのだがな……」
女たちからだいぶ離れてから、清孝がぼそりとつぶやいた。
「……そんなことも無いと思います。どこでも町の女はかしましいものですよ」
りよは、どっと疲れた様子の清孝に苦笑しながら返す。
さきほどの喧噪が遠のき、耳に残るのは秋風の音ばかりになった。
女たちの言っていたとおり、城跡は山手にあった。
が、五年前に焼け落ちたにしては木々が鬱蒼としていて、とても火事があったとは思えない。
「確かにお城跡ですが……ここが宵田の激戦地……なのでしょうか……」
りよがあたりを見回しながら首をかしげると、清孝も古びた神社を眺めて腕を組む。
「どうしたお若いの。ははぁ、あんたらが東京から来たって言う神職かい」
背後から、初老の男が声を掛けてきた。
「ああ、陸軍卿からの依頼で怪異を鎮めに参ったが……本当にここが宵田の激戦地か?」
先ほどの女性たちよりは、清孝はこういった手合いの方が話しやすい。
少し肩の力を抜いているのが、りよにも分かった。
「いいや、激戦地で燃えたのは陣屋の方らの。あっちも“城”て言うすけな。
こっちは直江さまが造った古城らすけ……でも怪異が出るのは、間違いなくこっちなんさ」
「旦那さまも、怪異にお詳しいですか?」
りよが尋ねると、老人は顎に手をやり、ゆっくりとうなずいた。
「宵田戦争以来らすけ……もう五年んなるがな。
朝廷側の何某とか言う、立派なお侍さんがの、瀕死でここさ避難なさって、そのまま息引き取らっしゃったんさ。
近習が“必ず迎えに来るすけ”て、もとどり切って国元さ報告に発ったが……」
老人は遠い目をして、社殿前の空き地をじっと見つめる。
清孝もりよも、その視線の先こそが、その武者の最期の地なのだと悟り、息を呑んだ。
「次の朝、わしらが仮に葬ろうとここさ来たら、もう跡形もなかったんだて。
見張りも立ててたんだが、気ぃ付いたら朝んなってたそうらよ。
それからだすけ、夜更けになると若武者が出るの、大蛇が出るのって話が広まったんさ。
去年はとうとう死者も出たすけ。……まあもっとも、怪しい光に慌てて階段から転がり落ちたんが原因らったがや」
「旦那さまは、その武者に……お会いになったのですか?」
りよは神妙な面持ちでたずねた。
老人の言う人物が、どうしても自分のかつての許嫁にしか思えない。
その最期を、この耳で確かめたい――けれど、聞いてしまえば二度と戻れなくなるような気もする。
聞きたいような、聞きたくないような。
それでも、聞かずにはいられない複雑な思いが、胸の奥でせめぎ合っていた。
「いいや、わしが来た時ぁ、もう息引き取らっしゃった後らったのさ。
わしのせがれより、ずっと年若ぇ……あれは十五、六だったかのぉ。
あんな若ぇもんが命落とすんは……切ねぇもんらて」
不意に風が吹き抜け、木々がざわめき、数枚の葉がひらひらと舞い落ちた。
影が長く伸び、日はいつの間にか西へ傾いている。
秋の風はひんやりと、りよの頬を静かになでていった。
「もしあん時の若武者が、まだここにおらっしゃるんなら――
放して、国元さ返してやってくだせぇや。
こんげ縁もゆかりもねぇとこで、一人きりじゃ……さぞ寂しかろて」
そして老人は、「夜に来るなら足元に気ぃ付けなせや」と言い残し、ゆっくりと背を向けた。
夕日に照らされたその背は、すぐに木立の影へと溶けていった。
「――本当に……怪異は、鉄之介さまなのでしょうか……」
ぽつりと漏れた声に、清孝がわずかに眉をひそめた。
「鉄之介?」
その声音は低く、少し硬かった。
りよは、はっとして唇を噛む。
これまで清孝に、鉄之介のことを話したことはなかったし、これからも話すつもりはない。
その名を口にしてしまった自分を、深く後悔する。
「――同郷の……幼馴染です。宵田で討死した……」
清孝は何も言わなかったが、視線が一瞬だけ鋭くなった気がした。
幼馴染、と口にした途端、胸の奥に罪悪感がじわじわと湧き上がる。
けれども、鉄之介が許嫁だったことも、ましてや初恋の相手であったことも――
清孝には知られたくない。
そう強く思ってしまった。
「……同胞に引導を渡すのに、気が引けるなら――」
清孝の言葉を、りよは間髪入れず鋭く遮った。
「いいえ。討伐には、私も同行いたします。
あなた様の妻としての務め――必ず果たしてみせます」
その声音には、断ち切るような強さが宿っていたが、どこか脆さもはらんでいるようだった。
また風が強く吹き、二人の着物を大きくはためかせた。