第十話 鉄之介の夢、宵田への旅
「生島武則神祇卿からは打診があったが、向こうは教部省への再編で手いっぱいらしい。
藤波司陸軍卿のほうは、海軍との分離で騒がしいようだが、異能の軍事利用には強い関心を示していた。来春には、いよいよ“異能部局”が立ち上がるかもしれん!
萩月藩の旧藩士たちを中心に、色よい返答が続いている。――横谷殿の進言が、効いたな!」
横谷邸の一件から、早くも二か月。
清孝とりよは、些細なあやかしの事件をいくつか解決していた。
二か月ぶりに斎部家の屋敷を訪れた篠崎資雅は、吉報を伝えようと、興奮気味にまくしたてた。
「……なるほど。つまりこれは、神祇省ではなく、軍の手に委ねられるということか」
向かいに座った清孝は、腕を組んで思案する。
その隣でりよは、微笑を浮かべたまま、静かに耳を傾けていた。
「ああ。神祇省としても、古い“神もどき”や“あやかし”には手を焼いている。
だが、国家神道を推し進める上で、そんなものがうようよいるとは、口が裂けても言えん。
……となれば、表に出すのは軍。異能特務局を作って、裏から統制したほうが都合がいいって寸法だな」
資雅は、出されていた茶にようやく口をつける。
「ふむ……異能はともかく、神威の軍事利用は。他家は、どう考えているのだろうな……」
「神威を擁する家は多くないが――海野、羽鳥、後西院、武茂、卜部あたりは、富国強兵のためならば、軍事利用は望むところ。
玉置、五百島、桃蘇の三家は、慎重あるいは否定的だな。……まあ、彼らの祭神を考えれば、確かに、軍事利用となると難しかろう」
「……我が父上にも、聞いたのか」
清孝が探るように尋ねると、資雅は茶をひと口すすり、肩をすくめた。
「ああ、一応な。斎部と……土師、風張は、無回答だ。
どの家も、自分の神様で手一杯なんだろうよ」
「……父上がどうお考えであろうと、私はこの動きに賛同するつもりだ。
私に分け与えられている分の力――その使い道は、私自身の裁量に任されている。
どのみち、新時代に我々“異能組”が居場所を得るには、
その力を国家のために使うほかあるまい」
二人の会話を黙って聞きながら、りよは、ただ目をみはるばかりだった。
――旧時代の栄光にしがみつく、実家の姿が脳裏をよぎる。
この人たちは、新しい世の中で、自分たちの居場所を作ろうとしている……
藩のこと、家の没落、自分の不幸――そればかりを抱えていた私の世界は、
なんと狭く、小さなものだったのだろう。
もう、新しい時代。旧い時代は戻らないのだ……
「ところで、りよちゃん」
資雅が、ふと話題を切り替えた。
「君は、『美戸香比売命』って神名に、聞き覚えはないかな?」
思考の奥から急に引き戻され、りよは瞬きをした。
「ミトノカビメ……? いいえ、聞いたことはありませんが……」
「そうか。まあ、勝手なことだが――君のこと、改めて少し調べさせてもらった」
資雅は茶碗を手にしながら、淡く笑った。
「斎部の嫁ということもあるが……横谷邸では、君から“斎部とは違う神威”を感じたからね」
ぴたり、とその目が、りよを射抜く。
「君の母上は、みつさん、だったね。……彼女が、酒井家の“養女”だったことは知っていた?」
「……いいえ。母は私が幼いときに亡くなって、詳しいことは……」
資雅は、少しだけ声を低めた。
「彼女の素姓は、神津家――式内社、箸渡口神社の神職の家系さ。
彼女はその一人娘だったが、ある日突然、神社は放棄された。
神主は失踪、妻は酒井家の後妻に入り……みつさんも、養女となった――」
資雅は、ひと呼吸置いて続けた。
「……とまあ、偶然ここまで辿れたのはね。
異能組の発足に向けて、“強い神威を持つ家系”を当たっていたから、ってわけなんだけど」
「そう……なんですね」
「何か、心当たりはない?」
心の奥までのぞき込もうとするような資雅の視線に、りよは思わず目を逸らした。
かすかに唇が揺れ、彼女は小さく首を振る。
突然明かされた自分の出自――
それをどう受け止めればよいのか、すぐには答えが見つからなかった。
「まあ、何か思い出したら、すぐに教えてくれたまえ」
資雅は軽く笑い、ひと息置いてから――声の調子を変えた。
「……と、それは一旦置いておこう。
話を戻すが、ここから来春までが、我々“異能組”にとっての正念場だ」
湯呑を茶卓に戻すその仕草すら、場の空気を切り替えるようだった。
「――回りくどいぞ。また、神もどきの討伐だろう」
清孝が睨むように低く言えば、資雅は肩をすくめて言う。
「ご明察。藤波陸軍卿直々のご依頼だよ」
資雅は少しだけ声を落とし、重く続けた。
「……戊辰の役、宵田戦争は知ってるかい?
卿はあの戦の夢を、いまだによく見るそうだ。
――葬られなかった将兵たちが、夢枕に立つと」
その言葉に、空気がわずかに凍った。
「実際、旧宵田藩領では怪異の目撃が相次いでいて、地元は騒然としている。
ま、我々の出番だろうね」
「宵田といったら……古志国か。……数日かかるぞ」
清孝が、いつものように冷静に行程を思案しているその隣で――
りよは、すうっと血の気が引いていくのを感じていた。
宵田戦争。古志国。鉄之介さまが討死された戦――。
まさか……
まさか、篠崎さまは、それも知った上で……
りよは、激しい動悸に襲われ、思わず胸元を押さえた。
資雅は、相変わらず読み取れない微笑を浮かべたまま、静かにりよを見返している。
「清孝殿には馬が宛がわれる。昔のように宿で乗り継ぎはできないが――無いよりは、いいだろう。
りよ殿には駕籠が用意される。安心して古志国まで行きたまえ」
――鉄之介さまのご遺体は、静間へ帰ってこなかった。
藩兵は宵田から相津へと転戦し、彼の死は、近習で乳母子だった少年が、ひと房の髪と共に知らせてくれた。
しばらくして、彼の名が太政官日誌(官報)に載ったと知ったとき――
りよは、ようやく彼の死を、心の底から受け入れたのだった。
――鉄之介さまは……立派な最期だったと、そう聞かされた。
でも、どうして――
どうして陸軍卿は、激戦だった相津戦争ではなく、宵田のほうを夢に見るのだろう……
もしかしたら……
いや、私の考えすぎた……
怪異だって、鉄之介さまと関係ないかもしれない。
古志国へ発つまでの数日間、りよは準備を進めながら、何度も考えた。
考えてしまった。
考えれば考えるほど、資雅も、陸軍卿も、何もかもが疑わしく思えてくる。
やがて――とうとう、鉄之介の夢を見た。
彼の夢は、久しぶりだった。
けれど、彼は――背を向けていた。
りよは、呼ぶことも、追いかけることもできなかった。
そして――出立の朝。
りよは、これ以上考えるのはやめようと決めた。
――私は、たとえ一年限りの約束でも、今は斎部の嫁。清孝さまの妻なのだ。
だからこそ、この一年だけは、清孝さまに心からお仕えしよう。
他意など、決して持ってはならない……
今回の道中は、清孝とりよ、それに荷物持ちの従者が二名。
加えて、資雅が雇った駕籠かきが二名。
最近、東京では人力車が流行りはじめているという。
だが彼らは、久しぶりの駕籠仕事に、むしろ喜んでこの長旅を引き受けてくれた。
「宵田までは、十日ほどの予定だ。
長丁場だが……頑張ろう」
「どの路を通られるのですか?」
駕籠に乗る前、りよは清孝に尋ねた。
「中山道を高崎から三国街道へ。
途中に難所の三国峠があるが……まあ、秋も初めだから、心配はないだろう。
伍女、温かい着物も入れてくれたか? 峠は冷える」
「はい、たしかに。お仕立ては間に合わず、古着ですが……物は良い品でございます」
伍女の笑顔に、清孝は満足げにうなずき、馬の背へと乗り上げた。
「行ってまいります」
いつものように、伍女と芳乃たちが門前に並び、手を振って見送る。
りよは駕籠の中から顔を出し、屋敷をふり返った。
――そういえば、東京を出るのは一年ぶりだ……
静間から来たとき、父は馬、継母とあやは駕籠、私は……歩きだった。
駕籠に乗り、身体を小さく折りたたんだまま、りよは、また考える。
行き先のこと。過去のこと。いまの自分のことを。