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第九話 鏡に映る夏の色

 横谷邸からふたたび二里半を歩いて屋敷へ戻ったころには、夜が明けはじめていた。


 寝所にはすでに布団が敷かれ、すぐに休めるよう支度が整っている。


「泊まってくればよかったんじゃないですか?」


 伍女と共に清孝たちを待っていた芳乃は、りよの足を湯に浸しながら、不満げに口を尖らせた。


 着がえと身体を拭く布を用意していた伍女が、ぴしゃりと応じる。


「清孝さまは、依頼先の用意した枕ではお休みになってはならないし、出された食事にも手をつけられないんだよ。

 だからこそ、礼を欠かぬよう、あえて早々においとまするんだ。……そんなことも知らないのかい」


 疲れ果てたりよには、ふたりのやり取りも子守唄のように聞こえ、まぶたはゆらり、舟をこぎはじめていた。


「……りよはまだか」


 清孝がりよの元へ現れたとき、彼女はようやく着がえを済ませたものの、畳の上で座ったまま、すっかり眠り込んでいた。


「奥さまったら、若様をおいて先にお休みになるなんて……

 起きてください! せめて布団まで行ってくださいませ!」


 芳乃が少々手荒にゆすろうとしたその手を、清孝の声が制した。


「芳乃、そのままでよい。私が運ぼう」


 そう言って清孝は、りよの膝裏に手を差し入れ、羽根布団でも持ち上げるように、軽々とその身を抱き上げた。

 ふわりと揺れる裾と、あたたかな気配が通り過ぎてゆく。


「……まことに、仲睦まじいことで」


 嬉しそうに目を細める伍女の隣で、芳乃は悔しげな表情を隠そうともせず、清孝に抱かれたりよの横顔を、穴があくほど見つめていた。



 +++++



 呉服屋の畳の上に、色とりどりの反物が広げられている。

 横谷家での一件から数日。りよは清孝に連れられ、珠流河(するが)町の老舗呉服屋を訪れていた。


「店主、これと、それからこれ。そちらのも頼む」


「斎部さまは、まことにお目が高い。では、こちらなどもいかがですかな?」


「ああ、それも良いな。追加で頼む」


「き、清孝さま……そんなにたくさん選ばれても、私には身に余ります……」


 ――資雅に命じられて、というのが一応の建前である。


 だが実際には、りよの持ち物について伍女からささやかれた清孝が、ひと目でその状況を察し、自ら着物の新調を決意したのだった。


「清孝さま? 私は、今のままでも十分でございます。

 この身には、一年後のお約束がございますのに――そんなにたくさんの物をお与えにならなくても……」


 清孝は、ふと目を伏せ、それから静かに口を開いた。


「……りよ。質素倹約を旨とする、その志は立派だ。

 まこと、武家の娘の鏡と申せよう。……だが、今のお前は、私の妻なのだ」


 その声は、決して強くはなかった。けれど、確かに真っ直ぐに届いた。


「斎部家の妻として、ふさわしい身なりをしてほしい。ただ、それだけだ」


「……それにしても、多すぎます。

 それに、こんなに華やかなもの……私には、荷が重すぎますよ」


 りよは、反物の端にそっと指を這わせた。

 それを身にまとう自分を想像したのか、ふいに顔を赤らめ、目をそらす。


 その様子を見つめる清孝の目が、ふと、どうしようもなく優しくなる。

 ――けれど、本人はまだ、その変化に気づいていなかった。


「店主よ。すぐに着られるものは――ないかね」


 清孝が問うと、店主はわずかに困ったように眉をひそめた。

 そこへ、控えていた番頭が静かに歩み寄り、店主の耳元でそっと何かを囁く。


「……お客様が受け取られなかった品でよろしければ、少しばかり蔵にございます。

 少々お待ちいただけますか? あれでしたら、手直し次第、すぐにお召しいただけましょう」


「ああ、それで頼む」


 清孝がうなずくと、店主はすぐに手代を呼び、品を持ってくるよう申しつけた。


「――御一新で、何もかもが移ろいましてね。

 頼んだ着物の仕上がりを待たぬまま、東都を去る方もずいぶんおられましたよ」


 丁稚が反物を片づけていくのを横目に見ながら、店主はしみじみとつぶやいた。


 やがて、手代が数人の奉公人とともに現れ、大きなつづらを手分けして運び込んできた。


「奥さまには――これや、こちらなど、いかがでしょう?」


 差し出された着物を見た瞬間、りよの手がふるりと震えた。


 それは、鮮やかな藤色の美しい小紋だった。


 ――憧れなかったわけでは、なかった。


 けれど武家の娘として、「質素につつましく」と言い含められて育った。

 着ていたのは、いつも地味な縞や紬のお下がりばかりだった。


 妹のあやは、紅や桃色の、華やかな着物を着せられていたのに。


「こちらでしたら……お安くしておきますよ。

 寸法さえ合えば、これはなかなかのお買い得です」


「……着てみても、よろしいでしょうか?」


 店主の言葉に、りよはこらえきれず、そっと気持ちをこぼした。



 店の奥、襖で仕切られた座敷へと通されたりよは、店の女中に手伝われながら、小紋に袖を通していった。


 淡い藤色のその一着は、絽の生地で仕立てられており、これからの季節にぴったりの涼やかな装いだった。


「こちらの帯はいかがでしょう? こんなふうに――ええ、ああ、ぴったりです。

 暑い夏でも、涼しげで良いですよ」


 襟を整えて仕上げると、女中は姿見を出してきて、りよの全身が映るように置いた。


 ……それは、りよにとって、初めての光景だった。


「……これが、私……」


「ええ、そうですよ。奥さまは整ったお顔立ちですから、何をお召しになっても映えます。

 でも、こうした落ち着いた柄の方が、いっそう気品が際立ちますね」


 けれど、女中の言葉もどこか上の空で、りよはただ、鏡の中の自分を見つめていた。


 自分の姿を、こうして全身で映すのは、たぶん初めてだった。

 静間藩の城下の屋敷には、大きな姿見などなかったし、呉服屋を訪れたこともなかったから――。


「りよ、どうだ?」


 女中に呼ばれ、清孝が座敷へと現れた。

 りよの背後から、静かに声がかかる。


「――私……なんだか、細くて頼りないですね。

 腰まわりも……足首なんかも……」


 ぽつりと漏れたその声に、清孝はほんの少しだけ間を置いて返した。


「……別に、気にはならんがな。

 ――体型じゃなくて、着物はどうだ?」


 そこで一度、言葉を切ってから、

 彼はさらりと告げた。


「似合っていると思う。屋敷でも着てくれ。……目にも涼やかだ」


「これを……普段着に、ですか? こんなに上等なのに……」


 振り返ったりよに、清孝は苦笑した。


「ああ。君には、それを着る権利も――義務もある」


 そう言って、ひと呼吸おいてから、付け加える。


「……気にせず、受け取るがいい」


 りよは、戸惑いながらも鏡の中の自分に目を戻した。

 ――屋敷でも着てくれ、と言われたのが、少しだけ、嬉しかった。




「では、直しの品はすぐに。その他の仕立て上がり次第、屋敷へ届けてくれたまえ」


「毎度ありがとうございましたー!」


 店主に番頭、手代に丁稚まで――勢ぞろいで頭を下げられながら、清孝とりよは呉服屋を後にした。


「すぐにも、君に新しい着物を着せて町を歩きたかったのだが……

 背守りのない着物では、何が起こるかわからんからな」


「……申し訳ありません。私が目をつけられてしまったばかりに……

 また、伍女さんたちのお仕事を増やしてしまいましたね……」


 清孝の少し後ろを歩きながら、りよはどこか申し訳なさそうに声を落とした。


 ――けれど、着物を買ってもらうことに対する“後ろめたさ”は、もう手放していた。


 この件について、彼と何度言葉を交わしても、きっと堂々巡りにしかならない。

 それに、着物を買うという事実は、どうあっても変わらなかったのだから。


 不意に、清孝が立ち止まった。


 りよも驚いて足を止め、彼の視線の先を追う――


 そこには、りよよりも少し若い乙女たちが三人、楽しげに連れ立って歩いていた。


 ――清孝さまが……女の方を見つめて?


 胸の奥に、ちくりと痛みが走る。


 ――まさか、清孝さま……ああいう華やかなお方がお好みで?


 乙女たちは、たぶん良家の子女なのだろう。

 華やかな友禅に、艶やかなかんざし。塗り下駄の黒も冴えていて、巾着ひとつ取っても洗練されている。


 ……母の形見の着物が上等とはいえ、今の自分とは、まるで違う。


「かんざしと……下駄もか。巾着もだな。

 ――おなごの支度というのは、意外と物入りだな。

 あと何軒か、回っていくぞ」


「えっ……! 清孝さま、そこまでしていただくわけには――!」


 りよが慌てて断ろうとしたそのとき、

 清孝は、呉服屋で彼女を見つめたときと同じ、優しい眼差しでふり返る。


「必要なのだろう? 無駄な遠慮は、するな」


「ううぅ〜……ありがとうございます……」


 優しい――けれど、有無を言わさぬその眼力に、

 りよは是と答えるしかなかったのだった。



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