序 一年限りの妻
夜も更け、月が西空に沈みかけた頃。
りよの待つ寝所へ、床を踏みしめる足音がゆっくりと近づいてくる。
――清孝さまがいらっしゃった。いよいよだわ。
りよは、寝間着の襟元を握りしめ、高鳴る鼓動をどうにか抑えようとした。
――うまくやれるかしら。祝言では、まったく目を合わせてくれなかったけれど、それは彼も緊張していたからだと信じたい。
障子がスッと音を立てて開かれる。
布団のわきに、三つ指をつき、ゆっくりと頭を下げた。
「清孝さま、おまちしておりました。今宵より、よろしくお願いいたします。」
しばらく深々と頭を下げていたが、返事も、動く気配もない。
さすがに不安になってきて、頭を上げると、冷たく見下ろす彼と目が合った。
「……私は、おまえを抱く気はない。」
「え……?」
「父上の目もあるから、寝所は共にする。だが、私はおまえとは交わらない。」
清孝は言い切ると、ため息を一つついて布団の上に胡坐をかいた。
「おまえの実家が、どれほど逼迫しているかは承知している。
金のために娘を売る家など、いくらでもある。」
「――っ」
金の話は、はしたない。
そう言い聞かされて育った彼女にとって、それは最大の侮辱だった。
りよの頬は一瞬で羞恥に染まり、悔しさに唇を噛んだ。
でも、それは、事実だった。
「一年。おまえは最初の妻だから、一年が妥当だろう。一年経ったら離縁する。」
「一年……でございますか?」
りよは、屈辱と怒りに喉を焼かれながらも、
声を荒らげぬよう、息を整えて問い返した。
「ああ――一年間、おまえは“妻”として、務めを果たしてもらう。
危険がないとは言わない。命を落とすことも、ないとは言えん。
だが一年経てば、十分な金を渡し、望むなら縁談も用意する。離縁だ。」
清孝の目はどこまでも冷たい。
「一年後には、すぐに次の妻を迎える。
離縁のあとは――この家にも、私にも、二度と関わるな。
約束できぬのなら……持参の短刀で、今すぐ喉を突け。」
りよは目を見開いたまま、しばし動けずにいた。
やがて、再び静かに三つ指をつき、深々と頭を下げる。
「……かしこまりました。
この一年、“妻”の務め、どうぞお申しつけくださいませ。」
彼女を見下ろす清孝の目には、冷酷さを装いながらも、かすかな満足の色が滲んでいた。
鼻を鳴らした彼は、そのまま布団に身を預ける。
横たわると、自分の横に空間を作り、無言でりよを招いた。
「……交わらないのに、隣に寝てもよろしいのですか?」
不思議そうに尋ねてためらったりよの手を強引に引き、彼女を自分の腕の中に収めると、清孝は深く息を吐いた。
「ああ、交わらないが、身体は差し出してもらう。
これが、斎部家の妻の役割だ。」
そう言って、向かい合った彼女のおとがいに手を添えて上向かせると、素早く唇を奪った。
とっさのことで呆然としたまま、りよの唇はわずかに開いていた。
その隙を清孝の舌が侵し、息が上がるまで、深く、深く奪われる。
身体の力が抜け、ただ、彼の腕に預けられる。
「これが……お役目?」
上ってしまった息の合間にりよが言うと、清孝は涼しい顔で彼女を抱きしめ背中を撫でた。
「そうだ。これがお前の“務め”だ。
昼は、私が“陰の気”を要した時に。
夜は、毎夜、この口から、この肌から――必要な分だけ、取り込ませてもらう。」
それから彼はりよから視線を外すと、小さな声で耳元で囁いた。
「……必要だから行う。それだけだ。そこに一切の情はないのを、忘れるな。」