礼拝堂のカオス
白と黒のタキシードが扉の向こうに消えた瞬間、聖堂に満ちていた神聖な静寂は、ガラス細工のように砕け散った。
「ど、ど、どういうことなのよ、綾乃っっっっ!!」
五条綾乃の母は、反動で身を仰け反らせるように立ち上がり、完璧に巻き上げた髪を震わせ、顔を朱に染めて絶叫した。まるで血圧の上昇が目に見えるようだった。
「ふ、不潔ですわっ……なんてことを……!」
隣の父・五条伯爵もまた、持っていたステッキを床に突き立て、顔面蒼白。貴族としての威厳などというものは、すでにパイプオルガンの陰に逃げ出して久しい。
一方、田中家の親族たちはと言えば、完全にフリーズしていた。
「えっ……? うちの龍司が……逃げた……?」
龍司の父は、青ざめた顔で唇を噛みしめ、震える指で眼鏡の位置を直した。わなわなと揺れる口元には、言葉が見つからない。
その隣で、彼の妻は膝に置いていたハンカチを取り落とし、ただ呆然と祭壇の方を見つめていた。
「……あり得ない……」
あちらこちらで、小声が飛び交い始める。
「演出じゃないの? あの黒い男、俳優? それとも……」
「いや私、感動して泣きかけてたのに。何この展開、まさかのゲリラパフォーマンス?」
「すっごい……推しカプ脱出エンド……。現場で見られるなんて奇跡じゃん……」
若い女性参列者たちは興奮気味にざわめき、なかには感動して拍手を送りそうな者までいた。
そんな混乱のなか、ひとり悠然と落ち着き払って前列に座っている男がいた。田中翔。新郎の腹違いの兄である。
翔は足を組んだまま、肩を揺らして笑いを噛み殺していた。背もたれに身を預け、まるで傑作のオチを観た演出家のような顔で、ゆっくりと頷く。
「……やってくれたな、弟よ。これはもう、伝説入りだわ」
飄々とした翔の態度に、もはや誰も突っ込めなかった。「兄も兄だな……」誰かが天井を仰ぎながら、そっと呟いた。
その後、翔は控室に戻ると使用人にだけ一言──「ご祝儀、返金よろしく。あ、オードブルは持ち帰りで」
ようやくその場を収めようと、神父がそっと聖書を閉じる。落ち着きすぎた口調で、一言だけ呟いた。
「──主よ……なんと刺激的な門出でしょう」
その呟きに、「それな……」と小さく返した者がいたが、誰もが聞こえないふりをしていた。
*
その日の午後、ふたりの逃走劇は、静寂を破り、ネットを騒がせた。
@nanamin_torico
【速報】教会で花婿が別の男に連れて行かれました
#花婿逃走中
#白と黒のタキシード
#リアル昼ドラすぎる
13時42分。目撃者による写真が添えられ、事態は加速する。
@honeysnap23
写真撮っちゃった……マジでドラマじゃん……
(※添付画像:バージンロードを手をつないで走る白と黒のタキシードの男たち)
#花婿逃走中
#推しカプ爆誕
13時51分。謎の相関図職人が登場。
@reijisou_map
五条綾乃(花嫁)←庭師と関係あり?
田中龍司(花婿)←黒服男に連行される
翔(兄)←全体の仕掛け人疑惑
#人間関係図2025
#花婿逃走中相関図
14時15分には早くも動画配信者が現地入り。
【動画タイトル】
花婿が逃げた教会、現地に行ってみた。【神回】
【動画内容】
・花嫁の母がまだ怒鳴ってた
・神父が「平和がいちばん」と締めてた
・控え室のオードブルだけ普通に美味しかった
16時現在、トレンド2位:#花婿逃走中
コメント欄は、もはや祝福と騒乱の坩堝と化していた。
「こんなの、もうドラマ超えてる」
「白タキの新郎と黒タキの男が手を繋いで駆け抜ける世界線好きすぎる」
「むしろ五条綾乃がヒロイン力高くて泣いた」
いつしかネットは、当事者たちよりも、確信を持って物語を語り始める。タグの数は増え続け、相関図は日ごとに複雑になり、動画配信サイトには「考察動画」が次々とアップされ続けた。
その日、教会で誓われるはずだった嘘は壊れ、真実だけが「物語」となって、世界を駆け抜けていった。
この短編『花婿、逃走中』は、『エデンフォール』本編へとつながるサイドストーリーです。
誰かに決められた未来ではなく、自分で選んだ道。
これは、その“始まり”の物語。
気に入っていただけたら、『エデンフォール〜静かなる絆〜』本編もぜひ読んでみてください。