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運命と出会う



 ヴァイオリンを弾いていた愛らしい少女は、「あ!」と驚いたように言って俺に駆け寄ってきた。


 少女につられるようにして、子犬やウサギや子羊たちが駆けてくる。

 リスが少女の腕から肩に軽やかに登って、それから頭の上で落ち着いた。


 リスを頭に乗せた少女を見るのもはじめてだった。

 やはりここは現実ではなく異界ではないのだろうか。


 少女は、異界に訪問した客人を案内する女神の御使いのようだ。

 ふわりとしたミルクティー色の髪が、走るたびに跳ねる。

 優しい風が吹いて、草花をゆらした。


 かすかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。匂いを感じたのも──おそらく、あの日以来だ。


 鼻の奥に、あの日から髪を燃やしたような匂いがこびりついていて、離れなかった。


 それなのに、今は風の柔らかさも、草木の青々とした匂いも、花の──いや、少女の髪から香る甘い香りも感じることができる。


 片手にヴァイオリンの弓を、片手にヴァイオリンを持ったまま俺のすぐ目の前まで走ってきた少女は、まじまじと俺の顔を見つめる。

 視線は、俺よりもやや上にある。

 何故か、背が低いことがいつも以上に嫌だと思った。


「お父様から聞いています、心臓が悪くて静養に来ているという、男の子ですね! 心臓が悪いのに、こんな丘の上まで登ってきたのですか? 森の道も、かなり長かったでしょう? 大丈夫ですか?」


 矢継ぎ早に質問されて、言葉が出てこない。

 言葉はもともと出てこないのだが、それをはじめて不自由だと感じた。

 

 あまり、気にしていなかった。そのうち声も出るだろうと考えていた。

 筆談はできるし、無駄話はもともとあまりしない。


 家人たちは気に病んでいたが、当事者である俺はさして苦しいとも辛いとも思っていなかったのだ。

 だが、今は。

 少女に返答ができないことが、恥ずかしい。


「あっ、ごめんなさい。自己紹介もしていませんでした。私はディジーといいます。この子たちは、羊と、ウサギと、子犬と、リスです」


 自分の周りに集まる動物たちを撫でながら、少女は俺に紹介をしてくれる。

 犬やウサギなどは見ればわかるのだが。


 少女はディジーという名前なのかと、心の中で何度も繰り返した。


「それで、私はヴァイオリンの練習をしにここまできていて。家のそばで弾くと、家族に聞かれてしまうので、恥ずかしかったのです。まだ、練習中で、上手に弾けませんから」


 先ほどから俺は一切返事をしていないのだが、ディジーはごく自然に会話を続けてくれる。

 俺の中に凝っている声を探すようにして、鳶色の瞳がじっと俺の目を見つめている。

 思わずそらしてしまうと、ディジーは目をしばたかせて、それから柔和に微笑んだ。


「ここまで歩いて、疲れませんでしたか? 少し座りましょうか。お花の絨毯はふかふかで、座り心地がいいのですよ。あっ、でも、高貴な身分の方だとお父様はおっしゃっていましたから、よくないことでしょうか」


 俺は首を振り、ディジーよりも先に花畑の中に座った。


 地べたに座ったことはないが、サフォンとの鍛錬中に剣を弾き飛ばされて、ついでに体も弾き飛ばされたことなら何度もある。

 地面はじゃりじゃりしていて硬いが、ディジーのいうように花畑の上は絨毯のように柔らかかった。


「エステランドは、今は春ですから、暖かいのです。お花畑で休憩日和ですね。冬となると、こうはいきません。いい時期にいらっしゃいました。エステランドを気に入ってくれると、私はとても嬉しいです」


 ディジーもちょこんと俺の隣に座り、一言も話さない俺の顔を再び覗き込んで、にこにこ笑っている。

 何故、微笑んでくれるのだろう。

 ヴァイオリンを弾いている彼女を盗み見して、それから会話すらまともにしようとしない俺に。


 ディジーが座ると、子犬たちがその体を撫でろと言ってつついた。

 困ったように笑いながら「今は手が塞がっているのですよ」とディジーは言った。


「あの、私は、もう少し練習をしようと思うのですが……でも、もしかして道に迷っていますか? それでしたら、街まで送って行きましょうか」


 もう一度演奏が聴けるのだと思うと、期待に胸が震える。

 しかし、ディジーは「もう歩けないのでしょうか。そうしたら、大人を呼びに行ってきますよ」と、心配そうに続ける。


 迷子ではない。歩くことはできる。この程度で、疲れたりはしない。

 大人を呼ばれたくはない。事情を説明できないからだ。

 せっかく、サフォンから逃げてきたのに。もう一度、ディジーの演奏が聴きたい。

 まだこの場所から、離れたくない。


「……君の演奏が、聴きたい」


 ──声が、出た。 

 何故だかはわからない。だが、声が出なくなってから初めて、心の底から話をしたいと思えたのだ。

 久々に出した声は、小さく掠れていた。

 だが、きちんと伝わったのだろう。ディジーは嬉しそうに、花畑の花々のように可憐に微笑んだ。


「あまり、うまくはありませんけれど……それに、お身体は大丈夫ですか?」


「問題ない」


「それなら、よかったです」


 こういう時、人はあれこれと事情を詮索してくるものではないのだろうか。

 ディジーは何も聞かなかった。

 何も聞かずに、俺の言葉をすぐに信用して立ち上がると、ヴァイオリンを構える。


 すぐに、明るい音楽が流れ出した。星の舞踏曲だ。練習中なので、それしか弾けないのだろう。

 だが、十分だった。ディジーの演奏を聴いていると、体が熱くなる。心が、穏やかになる。

 体を包んでいた心を蝕むような様々な感情が消えていき、どうしてか、泣きそうになってしまう。


 座ったままの俺の膝に、動物たちが何故か乗ってくる。頭の上にはリスが乗り、膝の上には子犬やウサギや子羊が。

 暖を取るように、ひしめきあって乗ってくる。

 

 動物たちからは、陽光の匂いがする。

 俺の前で演奏を続けるディジーは、本当に女神の御使いで、俺の元に止まっている両親の無念な魂を天上へと誘っていってくれる気がした。


「実は、人前で弾くのは緊張してしまって、なかなかうまくできなくて。私のはじめての観客になってくれて、ありがとうございました」


 演奏を終えると、ディジーは恥ずかしそうに言った。

 それから、少し考えるように首を傾げる。


「……あの、何か、悲しいことがありましたか?」


「……っ」


「ごめんなさい。なんだかそんな気がしたのです」


 ディジーはヴァイオリンをケースにしまうと、俺の前に座って、俺の手を取った。

 手のひらはあたたかく、皮膚が少し硬い。

 この街の子供たちは、よく働いている。ディジーもそうなのかもしれない。

 

 その手の感触に感心した。そして、距離の近さに気づいて、すぐさま逃げたいような、けれどずっとこのままでいたいような、妙な気持ちになる。


「王都から来たのだと、聞きました。王都では怖いことがあったのだと、噂で知っています。エステランドでは怖いことは起こりません。蜂に追われたり、蛇が出てきたりすると少し怖いですけれど」


「……ここは、穏やかな場所だな」


「はい。何もない場所ですけれど、私は好きです」


 ディジーはそう言って、小さな白い花を摘んで、俺の指に巻き付ける。


「早く、病気がよくなりますように」


「これは……」


「これは、雪割草という花です。雪がとけだすと、一番早く咲く花で、春の訪れを伝えてくれるエステランドではとても大切な花です。雪割草を体に巻いておまじないをすると、願いが叶うと言われています。ただし、一回だけ。大切なお願いをしなくてはいけません。お願いとは、貴重なものなのです」


「その貴重な願いを、何故、俺に」


「心臓は大切なものですから。はじめて私の演奏を聴いてくれたあなたが、元気でいてくれると私は嬉しいです」


 途端に、別段悪いわけではない心臓が、どくどくと鳴り始める。

 顔が熱い。熱が出た時のように、真っ赤に染まった。


 俺は──恋に、落ちたのだ。


 そう気づいたのは、逃げるようにしてディジーの元から走り去り、屋敷に戻った後のことだった。




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