四辻に戻る
犬が吠えた。
少年が倒れている。
集落の中心の四辻の、その中央に。わざとらしく。
犬を連れた老人は引っ張られながら駆け寄る。
家を出た少年が約束の時間になっても少女の家に現れない。話は集落の数人の耳に入っていた。
しかし年頃の男子のこと、そして平和な田舎の村のこと。そこまで大事と思うものもいなかった。それがこの瞬間一変した。
「圭!圭!」
けたたましい犬と老人の声に、広くまばらに建つ家々からは想像もつかないほど迅速に、かつ多くの人が集まった。
それと同時に若い、といっても四十代、五十代の男が圭を担ぎ近くの家に運ぶ。
その間犬はずっと吠え続けていた。
犬は圭によくなついた日本犬の雑種だった。
おとなしい老犬なのだが、圭に向かって、圭の周囲を警戒するように吠え続けていた。
圭は土間を上がってすぐの畳の上に寝かされた。
全身びしょ濡れで、泥や草がついている。
眠っているようだが、よく見ると目は半開きで口がわずかに動き、聞き取ることはできないが何かつぶやいている。
あっという間に玄関に人だかりができる。
その中には圭の家族や美鈴もおり、中に通された。
「圭ちゃん」
美鈴の小さな声は「せめて風呂に」「せめて布団に」という人だかりの声に埋もれる。
村人は圭についた汚れをぬぐったり、かいがいしく世話をしているように見えるものの、それ以外は何もせず、何もできないでいた。
「どうして救急車呼ばないの?」
圭の妹の純の声がした。
可愛く、とても小さい声だったが、周囲の声はかき消され、静まり返り、あっという間に多くの同調を得た。
「いや、だが、まぁ。場所が場所だしな…」
その一方で圭を見つけた老人やこの家の主、数名の老人が互いに目配せして妹の言葉を実行するに戸惑っている。
目に涙をためる二人の少女に圭の父が近づき、立派な体躯から想像できない、弱々しい口調で話しかける。
「お前たちもあの、山道には入るなって言われてるだろう。特にお墓より先には。圭はひょっとしたらその先に行っちゃったかもしれないんだ。もしそうなら、その場合は病院には行けないんだ。行けない代わりにお医者さんを呼ぶことはできるから、大丈夫、ちゃんと呼ぶからさ」
二人に諭すように、それでいて自分に言い聞かせるように、父の言葉はどこか歯切れが悪く、余計に少女たちを不安にさせた。
「医者はほら、西原から上田さんに来てもらうとして、そのあとはどうする」
言葉を発した家の主に対し、
「それで十分だ」「そもそも迷信だ」「あの人はそういう病気だっただけだ」「脅かされてただけだ」などとしゃがれた声が飛び交う。
一方で「実際こういうことが昔あった」「四十まで生きたが抜け殻のようだった」「十四で溺れた」「村を出ることはなかったが、村のどこにもいないことがあった」「全員で養った」「遠くから宮司を呼んだ」などしゃがれた、不安げな声もちらほらあがり、それらは反目、対立しているように聞こえる。
言葉を選びすぎる老人たちの会話は、幼い二人の少女に何の情報も与えなかった。
何もわからぬまま進展せぬ現状と放置されたままの圭を見つめ、美鈴は次第に苛立ちを覚え始める。
純は兄の容態と、自分の知らない、自分の生まれ育った村の何かを察して動揺に体を強張らせる。
頭上を飛び交うしゃがれた声は、事態を進展させるためのものではない。
記憶の断片をとりあえず口にしているだけの老人特有のものにすぎない。
ただ過ぎる時間の中で、圭だけが薄く微笑むような口元で何か呟いている。時折体を震わせ、畳の擦れる音が聞こえる。
玄関先につながれた犬はまだ吠えている。
「大丈夫だよ」
兄を見つめ、じっと動けずにいる少女の横から声がした。
赤く、もこもことした異形がちょこんと座り、純を見ている。
周囲の大人たちからわっと声が上がる。
かろうじて人間のような、出来の悪いゆるキャラのような不気味な姿。
そしてそれがどこから現れたのかと狼狽する大人たち。純はむしろその周囲の反応を不思議に思った。
「ずっといたのに」
美鈴はその不気味な姿に眉をひそめ、怪訝な顔をした。
「お兄ちゃんどうなるの?」
純はアイアに不安な顔を寄せる。アイアは不敵に笑い、
「わたくし、よい法師を存じております。それをご紹介いたしましょう」
そのよくわからん見た目とは裏腹に、丁寧な口調でなされた提案を村人は訝しんだ。
しかしそれも案の定と、
「あなた方の懸念、わたくし概ね心得てございます。恩を売るつもりはございませんが、そこに伏す美男めをあめふらし御領より引きずり出したるはこのわたくしめにございます。今日日かくのごとき沙汰を生業とするものも少なかれば、この下賤の言葉とてないがしろにはできますまい」
芝居がかったわざとらしい話し方は嫌に陽気で、その場にふさわしくないものだった。美鈴が睨む。
「あめふらし」
不気味に歪むその口から発せられたその言葉に、老人たちは反応しないわけにはいかなかった。
目の前の、誰よりも小さく存在感のある物体。それはある程度、むしろここにいる誰よりも状況を把握しているらしい。
とはいえその不気味な姿。手放しで信じることを拒ませる胡散臭い迫力がある。
ともすればあの、あめふらしの手のものでは。
老人たちはひそひそと耳打ち合う。
しかしそれは日本人特有の、ただ決断を先延ばしにしたいだけの、変化を起こす意図のない無力な会話だった。
誰の耳にもはっきりと聞こえるように声を出し、その状況を打破したのは圭の父親だった。
「純ちゃんはどうしたい?」
純はアイアの奇妙な姿をじっと見つめ、そのもこもこの二の腕に触れようとしていた。頭上の言葉にハッとして、唾をのんで父親を見た。
「お兄ちゃんを助けてほしい」
娘の言葉に優しく微笑む。
「美鈴ちゃんもそれでいいね?」
圭の父の言葉に美鈴は少し悩んで頷いた。
硬直した状況を打破しようと思った。
このままでは話が長引くばかり。訳知り顔の老人たちも息子への正しい処置など誰もわかっていない。
赤い不気味なもこもこを信用したわけではない。しかし他に手はないと思った。
子供の無垢な言葉を借りてしか行動を起こせない自分を情けなく思ったが、こうでもしてきっかけを作らなければ息子の容態は変わらぬままだ。
「頼めるかい。いいですね」
父親は早口にアイアと老人たちに言葉をかける。
アイアはこぶしで自らの胸をたたき、ポスっと音がする。
「それではその法師に連絡いたしますので、報酬は成功した時だけで構いません」
話を進め、周囲には有無を言わせまいとする父親の意図を汲み、アイアも足早に話を進める。
あれよあれよと話が進められた老人たちだったが、父親が決めたのだ、反対することはなかった。
自分たちが決めたのではない。
老人の一人が黒電話に手を伸ばそうとした。
しかしアイアはそれを制し、胸元のひと際もこもことした部分に小さな手を突っ込んだ。
そしてそこから取り出された金属のようなガラスのような板に純は驚愕した。
「スマーフォトンだ!」
その声につられ老人たちも
「スマーフォトンじゃ」「スマーフォトンじゃ」と次々に驚愕の声を上げる。
美鈴は表情を変えず、その様子を怪訝な顔で眺めている。
体が小さいために妙に大きく見えるスマートフォンをシュッシュッと巧みに操り、
「あ、おじさんですか。わたくしです」
アイアは不気味に、上機嫌に話し始めた。
外ではずっと犬が吠えている。
冒頭のヤギに負けず劣らず、人懐っこい村のアイドルだ。
それが今は全身全霊で大地を踏みしめ、眉間にしわを寄せ、歯茎をむき出しにして吠えたくっていた。




