水草
盛夏、日は沈んでも空は赤々とこの世を照らす。
一方山奥にあっては、日が沈むより早く影が落ち、火の粉のような木漏れ日がかすかにちらつくのみとなる。
しかしその森は赤く、円く切り取られていた。
中心には井戸がある。
井戸の周囲は沼で満たされており、赤黒く輝いている。
木々は鬱蒼と密度濃く生い茂るも、沼には触れぬよう避けている。
沼の中には一切の生き物の姿がない。
苔も、蛇も、蛙も、およそ湿地を好むであろう生き物の、その痕跡すらない。
微生物もいないのだろうか、臭いもない。
「キャーッ!キャーッ!」
けたたましい声は沼を囲む木々のどこかから聞こえる。
分厚い森に開いた円形の穴は雑なコンサートホールのように声を反響させ、その出所をはっきりとさせない。
しかしその声は円の中心に向けられていることがわかる。
それは石で組まれた井戸の縁に腰を下ろしていた。
うねうねと動く巨大で透明な体。
その中に骨格のように、あるいは神経のように水草がゆらゆらと揺らいでいる。
顔、首、肩、胸、腰、腕。それらは境界が不明瞭で、シルエットからかろうじて女の形と認識できるにすぎない。
下半身に関してはいよいよはっきりせず、井戸の中から体の一部を外に出し、大げさな表面張力で丸く重力と拮抗しているかのようなありさまだ。
きょろきょろとあたりを見渡す。声の出所を探っている。
透明な顔は光の当たり具合でかろうじて表情を読むことができる。
眉間と思しき所に力を入れ、口を曲げ、尖らせ、嫌な臭いがした時のような不機嫌さを見せる。
「キャーーーッ!」
おそらくは威嚇だ。それだけならまだいいのだが、この声はどこか嘲笑のように感じられ気分が悪い。
首を伸ばし、目を凝らし、腕の中に抱くものを守るように肩に力を入れる。
抱く。とは言ったものの、実際は腕と胸と思しき所を漂っている。
時折口から小さな空気の粒を出し、柔らかい髪は短いながらも豊かに揺れ、薄く開いた目は瞬きもせず、どこか一点を見つめている。
温い、心地よい水圧の中、時折水草に触れながら、圭は胎児のようにその透明な体の中を漂っていた。
「キャッ!キャッ!キャッ!」
その様子を咎めるように、囃し立てるように声は激しさを増す。
巨大なそれは体を井戸に戻しながら、体を丸くしながら、より一層大事そうに圭を包み込む。
圭の口から大きめの気泡が漏れる。
その一方で首だけは長く伸ばし、周囲への警戒を強め、とうとう声の出所を突き止めた。
井戸を囲む木々のうちの一つ、枝に鳥が留まっている。
人面の梟のようで、丸い目がこちらをギョロギョロと睨みつけている。
声の出所を突き止め安堵したのか、井戸に座る透明なそれは口と思しき部分をにやりと曲げた。
しかし次の瞬間、ハッとする。
対照的に枝に留まる奇怪な鳥は丸い目を不気味に細め、口角を上げる。
円形に広がる森に反響し居場所がわからなかったのではない。無数の木々に無数の鳥が、同じ顔で奇怪に嗤っていたのだ。
「キャッ!キャッ!キャッ!キャキャキャキャッ!キャーッ!キャーッ!」
不快な声が自分に浴びせかけられる。
その姿を認めると、井戸のそれは表情を歪ませた。
恐れをなしたのではない。胸糞の悪いものに囲まれた事実に嫌気がさしたのだ。
時折足場を掴みなおし、羽を広げ、体をゆすりながら不快な声をまき散らし、不快な顔でじっとこちらを見続けている鳥たち。
円形に散らばるそれらを警戒しながらゆっくりと井戸の中に戻ろうと試みる。
しかし、それらに集中しすぎた。
無警戒の空、赤く円くぽっかりと開いた大穴のはるか高くより、垂直に、無音で落ちてくるアイアに気づくのが遅れてしまった。
わずかな空気の揺らぎか、上空の敵意に気づくと、圭を胸のみに預け、両腕を広げ、目と口を裂けんばかりに広げ、迎え撃たんと空を仰ぎ見た。
しかしアイアは既に自分の胸に飛び込み、圭の両肩を掴んでいる。
そのまま圭の体を半分ほど外へ引きずり出すが、水草が圭の足に絡まりなかなか思うようにいかない。
にやけ面のままわずかに眉間にしわを寄せる。
巨大なそれは胸糞の悪い不気味で下賤な姿と行いに、表情は最大級の憎悪に歪み、その小さな体に目にものを見せようと透明な手を伸ばす。
アイアに届くすんでのところ、その腕の中にバシャバシャと木の枝に留まっていた鳥たちが一斉に飛び込んできた。
羽音がせず気づくのが遅れた。
アイアと同じ顔をしているが少し小さい。
それらは悠々と自分の体の中を泳ぎ回り、漂う水草に嚙みつき引きちぎる。
大きな体を大きく震わせ、醜い鳥たちを外に吐き出す。
鳥たちは無残に地面に叩きつけられる。
そして再びアイアに敵意を向けたとき、そこには圭を引きずった跡が残るのみだった。
足元に叩きつけたはずの鳥たちも消えており、無数の羽が散らばっている。
「キャキャキャ」と下卑た笑い声が遠くから聞こえてくる。
声のほうを見つめながら器用に自分の中を漂うわずかな羽を外に吐き出す。
「わたしのぉ…、わたしのぉ…、」
あめふらしは震える声を出した。
喪失感に満ちたその表情は、夕暮れのわずかな光を集めて輝いた。
溶けたガラスのようだった。