白い所
美しい石畳だった。
美しく組まれた石と石の間にはわずかに砂が溜まっている。
そこには草が生えることもなく、石が隠れることもなく、誰も来ないはずの山奥に不思議と管理されているように思える。
ふと目に入った一つの石には文字が彫り込んである。いくつかの文字のうちの一つは「永」と読むことができた。
この「永」は元号か、家名か、戒名だろうか。ともかく今、墓石の上を歩いていることに気づいた圭は不気味に思った。
それでも圭の足は止まることなく、その感情もふわふわと、圭を支配するには至らなかった。
しばらく歩くと道は緩やかに下りだし、石の隙間にわずかに湿り気があることに気づく。
下るにつれ染み出す水は増えていき、やがて石畳全体を覆い、さらさらと流れだす。
濡れた道と呼ぶべきか、浅い水路と呼ぶべきか。
圭は靴を濡らしながら、手繰り寄せられるままにさらに奥へと進んでいく。
周囲を覆っていた木々が突如途切れた。
頭上に落ちていた影が消え日に照らされる。
森は広く円形に切り取られ、地面は白い砂が敷き詰められている。
足元を流れていた水は白い砂に染み込み、きらきらと日の光を穏やかに反射している。
切り取られた空間、白い砂が作る小さな丘の中心に小さな東屋がある。
東屋は足元の砂と同じ色で、漆喰で塗り固められているようだ。
円柱と丸みを帯びた屋根の間にわずかな装飾が施され美しい。
圭にはそれが欧風、あるいは中東風の造りのように思えた。
湿った砂の上を歩くと心地よい音がする。
足が沈み込むことはなく、むしろ程よい水気が砂を固め歩きやすい。
東屋には白いベンチがある。
無理をすれば五人座れるほどの大きさで、湾曲した金属のフレームと白い板でできている。
女が一人座っている。
女はちょこんと小さく座っているが、結構長身であろうことがわかる。
レトロな白いワンピースを着ていて、真顔とも微笑みともとれる表情でこっちを見ている。
目を細めているが、瞬きをするたびにかなりぱっちりした大きな目であることがわかる。
鼻筋が通り少し面長で、黒い髪は肩より長い。二十歳くらいだろうか。
彼女を覆う東屋の雰囲気も相まって、圭には日本人離れした容姿に思えた。
不思議な状況に初対面とあり、違和感と気恥ずかしさを覚える。
しかし目が合っていて立ち去るのも不自然と、足元の砂を鳴らしながら近づく。
「こんにちは」と先に声をかけたのは女のほうだった。
圭も挨拶を返そうと思ったが、声が出ず会釈した。
美しかった。
話題に上るどんな有名人よりも美人で、「絶世」という言葉が脳裏に浮かんだ。
そもそもこいつは可愛い幼馴染に会いに行く途中だったのだ。それでも年頃の身、刺激的な出会いに体が固まった。
女はベンチの中央に座っていたが、圭が会釈を返すと体を端に寄せ微笑んだ。
気が付けば山の奥へと足を進め、そこには自分の知らない景色があり、美しい女が一人自分に微笑んでいる。
この状況を怪しまない、そこに一切の恐怖を抱かない圭ではない。
それでも圭は東屋へと歩を進め、女の隣に座った。
それはここまで何かに手繰り寄せられた感覚にも似ていた。
その感覚がなくてもこいつはまぁ、座ったんじゃないかな。
「こんにちは」
「どうも…」
微笑む美しい女に対し絞り出した声は、今にも消え入りそうにかすれた、情けないものだった。
「ここはあんまり人が来ないのよ。あんまりっていうか全然。いいところでしょ。私のお気に入りの、秘密の場所だったんだけど、まさか人が来るなんて」
「あ、そうなんですか」
お気に入りの場所を、時間を奪われたことを咎められているのだろうかと思い、圭は背中を丸くした。
「向こうから来たってことは笹方の子よね。距離あったでしょ。お墓抜けてきたの?怖くなかった?私はほらこっち、西原から来たの。知ってる?案外近いんだよ」
不気味とも思えた状況も、女の口から明かされた事実は拍子抜けするものだった。
何のことはない。奥へ奥へと進むうち、山を越えた別の集落に近づいていたのだ。
そして女の喋り方が自分たちと同じイントネーションで、明るくあっけらかんとしていたことで、圭のそれまで抱いていた不安感は案外あっさり消え去った。
「西原は年寄りばかりで、いつ廃村になるかわからんて聞いてますけど」
これまでの緊張が一気に晴れ、圭は冗談を言った。
「ひどい」
女は笑った。
「まぁ、実際そうなんだけどね。おじいちゃんとおばあちゃんが西原に住んでてね、たまに遊びに来るの。普段は高木に住んでるのよ」
「ああ、いいですよね、高木。コンビニありますしね」
圭の言葉に女は体を大きく揺らし、圭の肩をたたいた。
この反応は圭を喜ばせた。笑ってくれたと思いあっさり気を許した。
濡れた靴は不思議と心地よく、その中で足の指を握ったり開いたりした。
それでもやはり気恥ずかしく、饒舌になることはなかった。
しかし女の問いに一問一答でもごもごと答えるうち、気がつけばいろんなことを話していた。
学校でのことや家族のこと。どんな楽しみがあるかなど。
女が尋ね、圭が答えた。
何度か圭が女に尋ねようとすることもあったが、そうすると女は前のめりに次の質問でさえぎった。
圭の問いかけに女が答えることもあるにはあった。しかしその内容は不思議と頭に入らなかった。
ただ、冗談交じりに話すと必ず笑ってくれるのがうれしかった。
笑い方が美鈴に似ていると思った。話し方も。
特別社交的でもない圭がこれまでの自分の行動への疑問を忘れこうしていられるのはそのためだったのかもしれない。
そうだ、美鈴だ。
可愛い幼馴染に会いに行っていたくせに、こいつは知らない女との会話に夢中になっているのだ。
見た目は全然違うものの、その屈託のない仕草にどこか美鈴が感じられ、それがまるで大人になった彼女のようで、上位互換のようで。
この短い時間の中で美鈴に向かっていた感情が女に向かい、美鈴が満たしてくれるはずだったものをこの女が満たしてくれている。
圭はそのことに気づかず、軽率に時間が過ぎていく。
暗い森のなか、その空間は白い光に切り取られ、木々のものか、女のものか、良い匂いが圭を包み込む。
幻想的な空間に圭は酔ってしまったのか、浮ついて頭の回らない、ちょっと情けない姿をさらしている。
どのくらい話しただろうか。差し込む光がわずかに夕方らしくなっている。
「名前は」
女が尋ねる。
「圭」
思えばここまで互いに名前を知らずに話していた。
それを微塵も不思議に思うことなく、圭は問われるがままに答え、そして自分から尋ねることはない。
「好きな子がいるのにね」
圭は頷く。
「約束があったのにね」
圭は頷く。
「私のほうがよくなっちゃったかな」
圭は頷く。
「ここはいい場所だもんね」
圭は弱々しく頷く。
「ずっとここにいたいよね」
圭の眼はどこにも焦点が合わず、ただゆらゆらと揺れている。
「その子のことはもうどうでもいいでしょ」
圭の体がわずかに震える。
空が赤い。
太陽は木々の向こうに隠れ、森が切り取る頭上の空は、遠くにあるのに近くに見えて、大きな大きな火口みたい。
鳥の鳴き声が聞こえた。
甲高いカラスのような、猫の馬鹿笑いのような、邪悪な赤子のような、そんな鳴き声だった。