お祭りだから
「準備できたよー」
愛子は一昨年の夏買ってもらった浴衣に着替えて階段を下りてきた。
文也と律子は玄関でそれを見とめた。
「じゃあ、そろそろ行くか。母さん、行ってきます」
「その浴衣もまだ使えそうね。遅くならないようにね」
「夏祭り久々だね」
高級住宅街の途切れなく、しかし程よく距離を保って建つ坂道を二人で下る。
水色の浴衣が映えるよう、空は赤みを強くする。
愛子は兄を見上げにこにこと嬉しそうに言った。
その言葉を、そして笑顔ながらもどこか緊張しているような視線を文也は不思議に思った。
「去年も行ったろ。行ってないのは一昨年だ。僕が受験だったから」
「そうだっけ。そもそもお兄ちゃんなんて一日息抜きしたくらいで落ちるわけ訳ないのに。それに一年ぶりだって十分久々でしょ」
愛子の言葉に文也は意地悪く笑った。
「それもそうだな」
あの夜、思わず妹の腹を蹴って以来、文也は愛子との距離を測りかねていた。
深江にはいらぬ情欲を抱いているのは自分だと伝えた。実際そう思っている。しかしあの夜の愛子の様子はなんだ。
翌朝起きると部屋に愛子の姿はなく、重い足取りで階段を下りた。
愛子は普段通り食事をとっており、普段通りに「おはよう」と言った。
いつも通り。いつも通りかわいかった。
「夜中大きな音しなかった?事故とかじゃないわよね」
神経質に不安を顔にする律子にびくっとするも、愛子は「私も聞こえた」と笑っていた。
昨日のアレは何だったのか、まさか夢か。願望か。
深江に吐露した自らの情欲も、このように夢想するまでになるとは。いや、むしろ昼間にそれを声に出したのが原因か。
自分も来るところまで来てしまったのだろうかと恐ろしくなる。
それでも文也はいつも通り、己を隠し、いい息子を演じ、いい兄を演じた。
それからしばらくすると母の様子が変わった。
劇的な変化があったわけではない。
その声はやはり落ち着いた、冷たさを感じるものであった。
ただ、冷たさと言っても色々ある。
肌に張り付く真冬の金属か、ふいに頬に落ちた雪かあられか。
愛子に向かう言葉の棘がなくなったわけではない。
それでも何かが。文也がそれを知覚して思わず「あ」と声を漏らすような何かが。
あの深江とかいう女が何か取り計らったか。それとも斎藤とかいう男が何かをしたのだろうか。
「浴衣、汚さないようにしなさいね」
裕福だからと言って頻繁に浴衣を買い与えるようなことはしない。特に笑顔を向けるわけでもない。
それでも律子の愛子に対する、母親らしく振舞う姿を見るようになり、ここしばらくはずいぶん穏やかで、このよい変化が自分にも訪れる予感を感じていた。
「一昨年は結局友達と行ったんだろ。別に無理に僕と行く必要はないんだぞ。その、変わり映えもしないだろ」
文也は愛子を見下ろした。
自分に向かう時間が他のものに移ってくれたらいい。そうすればこっちからも自然と距離が取れるようになるんだ。そして愛子もちょうどそういう年頃なのではないか。例えば自分が海で拾われたというのが実は長らく負い目であって、案外愛子はこういう言葉を待っていたのかも。
しかし愛子はムスッとする。
「今年は今年で何か違うかもしれないでしょ。そもそも毎年一緒に行こうって言ったのはお兄ちゃんなんだよ」
子供っぽい、普段の大人びた様子とは違う年相応な、そんな顔もかわいいなという感情が浮かび、慌てて振り払う。
「こんな田舎の祭りにそんな変化が、出店のメニューくらいだろ」
「いいじゃん、出店のメニュー」
「それにそんな小さいとき言葉なんて。そもそも言ったっけ?」
「言ったって!いいの!これはジンクスみたいなものだし。一昨年は一緒に行けなかったからひどい目に合ったんだよ!」
「ん?なんかあったか?」
「ほら、えっと、あれ。冥王星が仲間外れになったやつ。お前なんか惑星じゃないって」
「あれ僕のせいだったのか…」
毎年兄妹で夏祭りに行ったって、そんなもの惰性で行うことにどれほどの価値があるか。
そんなことを自分の本心ではないが、あくまで妹を気遣うように言う文也。
文也はもちろんこの夏のイベントを億劫だなんて滅相もなく。
特に妹を女として意識しだしたこの数年は、普段距離をとろうと心がけている分兄妹として堂々と、あるいはそれは恋人のようだと思いながら、その高揚と罪悪感、背徳感とのバランスが心地よく。
愛子が拒否をしてくれるなら丁度いいと自身に言い聞かせながら、一方で愛子が望んでいるのだから仕方ないと都合よく、ずるく考えていた。
「そうだよお兄ちゃんのせい。私あんなの初めてだったんだから。まさか惑星が消えるだなんて」
「別に消えたわけじゃ。それに僕だって、というか誰だって初めてだろ、あんなの」
夏祭りの会場、地域で一番大きな神社とその通り。そして隣接する小学校のグラウンド。
歩いて行けない距離ではない。しかしこんな風にしゃべりながら、だらだらと歩けば余計に時間がかかってしまう。
まだまだその喧噪も聞こえず、祭りに参加しているとは言えない状況。それでも既に文也は普段よりもラフな、距離の近い会話に高揚を、非日常を感じていた。
「今回は何があるかな」
愛子は笑顔でそう言った。
履きなれないはずの下駄も上手に履きこなし、カラン、カランと愛子の足音が心地よい。
ふと見降ろした愛子の顔からは子供っぽさが消えており、普段の大人びた顔に戻っていた。
「去年と何も変わらないと思うけどな。それか今年は盆踊りに参加してみるか?」
優しく語りかけた文也を見上げ、
「したことなかったっけ?」
と大きな目を一層大きくして愛子はかわいく首を傾げた。
「ないだろ。ん?小さいころ一回くらい踊ったっけ?あれって勝手に参加していいものなのか?」
「いいでしょ」
「そう?」
夏祭りはいつも出店を見て回って最後に花火を見るくらいだ。
妹と二人、それだけだ。それだけで十分だ。
何か決まりとか、その裏側だとかを文也は知らない。
そうか、一昨年愛子は友達と盆踊りに参加したのかも知れない。
文也はそう思った直後、そもそも誰と行ったんだ?何人か仲のいい女子は知っているが、まさか男と行ったりはしてないよなと顔をしかめた。
「誰かと飛び込みで参加したことあるのか、一昨年とか」
それとなく探りを入れる文也。
愛子は少し考えて
「んーん、ないよ」
と大人びた笑いを見せた。
この後何を聞こうか、何と切り出そうかと愛子を見つめ文也は無言になった。
それをおかしく思って愛子は笑った。
「まあ、大丈夫そうなら参加してみるか」
何も言葉が出ず、文也は照れた。
小学生だった妹が男子小学生と祭りに行ったかを気にして嫉妬するなんて。
「大丈夫だって!」
愛子は満面の笑みで文也の腕にしがみついた。
表情は崩さないが、内心ギョッとする。
あの夜を思い出す。
浴衣の生地と愛子の肌の境目がはっきりと感じ取れる。
あの夜とは違う。
今日はいいんだ。
今日は祭りだ。
愛子は目を細め可愛らしく、それでいて艶っぽく、上目遣いに文也を見つめた。
そして文也の心と呼応するかのように言葉を放った。
その言葉に文也は自身の中の何かが切り替わる瞬間を感じ取った。
「だってお祭りだよ」




