お兄ちゃんのベッド
「ねぇお兄ちゃん。深江さん帰っちゃったね」
深夜1時を過ぎたころ。
うとうとしていた文也の頭の後ろから声がした。
もう間もなく眠りにつこうかという意識の中、ドアの開く音も足音も聞こえない、突然のことだった。
それでも文也は特段驚くこともなく、ゆっくりと寝返りを打ち、声のほうに顔を向けた。
そこには愛子の顔があった。
ベットの縁に顔の半分を隠した、大きな目がこちらをまっすぐに見ていた。
顔の下半分は、きっと笑っている。口元はきっと、いたずらっぽく口角を上げた、そんな顔をしている。
その声色から、二人の歴史から、文也にはその表情が見えるよりもむしろ鮮明に思い描くことができた。
「なんだよ愛子、何時だ。母さんに怒られるぞ」
文也はわざとらしく落ち着いた様子で、眠りを妨げられた不機嫌を演技した。
明かりはすべて消した、遮光カーテンの閉じた部屋。
それでもわずかな光がその隙間から差し込み、使い慣れた部屋の様子はぼんやりと視認することができる。
そして愛子のシルエットは、そのわずかな光量から説明がつかないほどはっきり認識することができ、その目はきらきらと、そのわずかな光量の反射では説明がつかないほど輝いて見えた。
「そうだな、帰っちゃったな」
探るような目でこちらをじっと見つめて何も言わない愛子に文也は声をかける。
「変な人だったな」
笑ってみせる。
「でも美人だった。お兄ちゃんはそう思わなかった?」
ベッドの縁に顎を乗せ、愛子は唇を尖らせた。
「そうだな、なんか、モデルさんみたいだったな」
「ね。タイプ?」
愛子が首を傾げる。
「どうかな、すごく美人だと思うけど。近寄りがたい、洗練された、普通じゃない美人だと思った。中身は普通の、っていうか結構あれだったけど」
「ねー、面白い人だったねー」
愛子はにこにこと笑う。
兄妹はしばらく深江について話した。
深江から聞いた高校での生活や福池という町のこと。
便秘のこと。夜3回おならをしていたこと。
大学ではやたら学食を食べていたこと。
スイーツを奪われたこと。
砂鉄を集める謎の趣味。
自分を隠すようにしているかと思えば、言葉選びはずいぶんとあけすけだったこと。
そんなことを、正直言ってほとんど悪口なのだが、二人は悪気なく、声を押さえてくすくすと話した。
「どうした、眠れないのか」
楽しそうな愛子に違和感を覚え、文也は誠実な顔を見せた。
「ん-、そうかも、ちょっと興奮してるかも」
愛子は上目遣いに、照れているようにも見える。
「面白い人だったからな、また会えるんじゃないか、志望校うちだって言ってたし、また連絡来るかも。こっちからしたっていいしな」
文也は深江が大学の見学に来たわけではないことを知っていた。それでも愛子にかける言葉として、この言葉はこの上なく無難だと思った。
「ちょっとだけ、お兄ちゃんと深江さんが仲良くなった未来とか想像して、そういうのもありだなって思っただけ」
「なんだそれ。一晩泊りに来ただけだろ。いや、でも出会いって案外そういうものなのか…」
わざと考え込む仕草を見せた文也を見て、愛子はんふふと笑った。
「珍しいね、おまえがそんなに人のことを、わざわざこんな夜中に話しに来るなんて。いやまぁ、変な人だったしな、気持ちはわかるが」
二人きりでこんなに楽しく話すのは久しぶりだ。しかもこんな夜中に。
文也もだんだんと高揚を隠さなくなってきている。
「初めて会う人だったしね」
暗い部屋ではっきりと見える愛子の顔が、伏し目がちに、今までとは違う、含みのある笑顔になったのがわかった。
「そうだな、初めて会う人だ。お前は会ったんだろ、斎藤さん。お父さんの知り合いで…。斎藤さんはどんな人だったんだ」
愛子の顔がもとにもどる。
「斎藤さんも面白い人だよ。普通の、Vシネマとかにいそうな」
「なんだっけそれ、昔の映画か、日本の」
「そうそう。でもほとんどお母さんと話してたから」
愛子の態度はそっけなかった。
愛子は急に喋らなくなり、んふふと笑って文也を見つめたり、爪をいじったりした。
文也は何も言わない。
するすると触り心地の良い夏布団の中を、もっと触り心地よいすべすべの愛子の腕が進む。
文也はギョッとした。
「ねぇ、お兄ちゃん、久々に一緒に寝ちゃダメ?」
「あ、あーそうだな、何年前だろうな、最後に一緒に寝たのは。でもほら、そろそろ部屋に戻りな、僕も眠いしさ」
早く部屋に戻れ。それはもう少し早く伝えることのできる言葉だったが、それを先送りしていたのは他ならぬ文也自身だった。
布団の中を進む極上の腕は、やがて文也の腕にぶつかった。
ゆっくりとなぞるように腕に指を這わせ、それが手の甲にぶつかると、回り込み、文也の指をとらえ、優しく握る。
「寝ていいよ。一緒に寝るだけ」
愛子が微笑む。
「いや、ベッド狭いしさ、寝にくいだろ」
慌てる文也。
「昔はもっと狭い所で一緒に寝てたんだよ」
「いやだから、それはむかしの、体の大きさも」
「いいじゃん」
愛子は傾げた首の動きをそのまま体全体に伝播させ、柔らかく文也の布団に潜り込んだ。
「いや、おまえ、暑いって」
「お兄ちゃんが暴れるから暑いんでしょ」
慌てる文也と楽しそうな愛子。
昼間、深江に話した自分の言葉が頭をよぎる。
と同時に、そんな自分の気も知らず、無邪気に抱き着く愛子に腹立たしさが芽生える。
「ほら、いい加減戻れって、母さん怒るって」
「お兄ちゃんがじっとしてればばれないって」
「いい加減」
そんなつもりはなかった。
だが、いつからだろうか、高校に入ったくらいからだろうか。心に芽生えた異常なものを抑え込もうと努力し続けた自分と対照的な、普段とは違う突然の、文也からすればデリカシーのない行動に、つい、足が出た。
文也の足がみぞおちにあたり、愛子はベッドから蹴り出され、床に落ちた。
愛子は突然のことにびっくりしたし、文也は自らの思いがけない行動と変な咳をする妹に動揺した。
しかしそれ以上に、ベッドから落ちた音、その振動が1階で眠る律子に聞こえたのではないかと固まった。
二人とも口を押さえ、体を硬直させ、息をひそめた。
愛子は床に耳を当てた。
文也は首を少し浮かせ、何も見えないのにキョロキョロする。
2~3分経っただろうかと思う頃、こういう時は実際は1分も経っていなかったりするのだが、
「大丈夫か」
ひそめた、おびえた声で文也がつぶやく。
愛子は笑顔を作ってこくこく頷いた。
瞬間的に変な咳をしていた愛子だが、大事には至っていない。
それがわかると文也は安堵し、
「部屋に戻れって。僕はもう寝るからな」
そう言って背中を向けた。
罪悪感を表に出さぬよう努めて突き放した。
愛子は戻らなかった。
落ちた冷たい床で丸くなったままだった。
兄の蹴りが痛かったからではない。
なんだか楽しくて、面白かったから。
体を丸めたまま、くすくすと笑った。
蹴られた腹を押さえ、にこにこ笑って。
翌朝文也が目覚める直前まで、ずっとそうしていた。