長台詞
「昔、息子が小学校に上がる前。
あ、息子は間違いなく私の息子です。
家族三人で海へ行ったんです。
冬休みと夫の正月休暇を利用した温泉旅行でした。
ただ息子はまだ小さかったですし、温泉なんか興味なさそうで。せめて息子の楽しめる所に行こうと思いまして…。
どこに行きたいかを聞いたんです。遊園地とか動物園とか。そんなこと言うとばかり思うでしょう。
それが海に行きたいだなんて言うんです。
冬の海はとても寒いから遊べないよと、何もないしもっと良い所にしましょうって私は言ってあげたんです。
それでも息子は、文也は海がいいって。
おかしいと思いませんか。
夫は別にいいだろって言うんです。海が好きなんだろって。
それで海に近い温泉を探して、そしたら海鮮も当然売りになってるんです。
夫はそれに惹かれて結局海に面した温泉に行くことになって。
海が好きなんて私知らないんですよ。息子のことですから私が知らないはずないのに。
一点を除いては普通の、楽しい温泉旅行でした。
息子は興味なさそうだった温泉も楽しんでくれて、民芸館みたいなところでも「何これ何これ」って興味津々で。お土産を買ったり料理を食べたり。
普通子供は興味持たないんじゃないかしら、武家屋敷と庭園だなんて。でもそんなところでも文也は楽しんでおりました。
でもその間ずっと言うんですよ「海はまだ海はまだ」って。
道すがら。それに部屋や展望浴場から見えるんです、海が。そのたびに早く行きたいって言うんです。
もっと早くに気づくべきでした。
今になって思えばあの時すでに憑りつかれていたんです。
二泊三日の最終日。
ホテルをチェックアウトしてから海に行きました。
車の中で文也はすごくはしゃいでるんです。
もともとはおとなしい子なんです。聞き分けもよくて。
あとは家に帰るだけだから。お前の気が済むまで海で遊んでいいぞなんて夫は言っていて。
一応有名な海水浴場があるので、そこならレストランなんかもありますし、そこへ行くつもりだったんですけど。
途中小さな砂浜が見えたんです。
息子は「ここ?ここ?」なんてはしゃぎだして。
ここじゃないよ、もっと大きくて奇麗なところがいいだろうって夫が言うと「ここでいい」なんて言うんです。
じゃあちょっと寄るかなんて夫も言い出しまして。
私は止めたんですけど「普段仕事ばかりだから、文也の興味に付き合ってあげたい」なんて言うんです。
そこはわずかに砂浜があるだけで、ほとんど磯と言ったほうが正しいような所でした。
地元の子供なんかはそこで泳いだりするのかもしれないけど、絶対に予定通りに海水浴場に行くべきだったんです。
海藻やらゴミやら打ちあげられて汚い所でした。
車を止めて夫と息子は近くの磯の様子を見ていました。
潮溜まりっていうのかしら、生き物なんかを見ていたみたい。
私はそれを眺めていました。
でも風が強くて髪は乱れるし、何より砂が飛んでくるんです。
それが目や口に入って、肌に当たって痛くて。髪にも入り込んで。
だから私は車の中に避難してその様子を見ていたんです。
夫はしばらく息子と遊んでおりました。
何やら見つけてはそれを指でつついているのが見えて、汚いから本当にやめてほしかったんですけど。
しばらくすると夫も車に戻ってきて、車を風よけに、その陰でタバコを吸いだしたんです。
私は文也も連れて来てよって言ったんです、風邪ひいちゃうじゃないって。
夫は子供がちょっと風邪ひくぐらい良いだろなんて無責任なこと言うんです。
あんなにはしゃいでる文也を見るのは初めてだって笑うばかり。私はそれが変だって言ってるのに、そもそも夫はそこまで文也のこと見てないんです。
ただ、夫もしばらくすると寒くなってきたのかどこか店に入りたいと言い出しまして。
息子のことを大声で呼ぶんですが、風が強くて全然聞こえないみたいで。
時折こちらを見てはくれるんですが、やはり戻れと言っていることには気づかず手を振り返すばかりで。
私は早く連れて来てって言うんです。でも夫は「楽しんでるから」と言って躊躇して。
そうしているうちに気がつくと、文也は動きを止めて遠くを眺めていました。
先ほど言った、小さな浜辺のほうです。
文也はそちらを指さしていました。
そして走りだしたんです。
これには夫も慌てて文也を追いかけました。
さすがに目が届かなくなるのはまずいですし、磯の上を走るのも危険ですもの。
私も慌てて車を出て、夫を、息子を追ったんです。
私が磯の、一番高い所にたどりついた時、夫は息子から少し離れたところで立ち尽くし、息子は膝をついて何かを眺めておりました。
やはりその砂浜も汚く、海藻やらゴミやら打ちあげられていて、何か流れ着いた物を眺めているんだと思ったんです。
夫はゆっくりと息子に近づき、私は急いで息子に駆け寄りました。
近づくにつれそれが何かちょっとずつわかってきました。
息子はそれから目を離さず、夫は黙って私のほうを見ていました。
そこに落ちていたものこそ、赤い布に包まれた赤ん坊。愛子だったんです」