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あめふらしがへし あいちゃん  作者: 南田萌菜(ナンディ・モイーナ)
あめふらしがへし
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 あめふらしがへし

 あめふらしがまず手をかけたのはお気に入りの美少年ではなく、その隣の小娘だった。


「ありがとうねえ、ありがとうねえ」


 声を震わせながら美鈴をすっぽりと体の中に取り込むあめふらし。美鈴は反射的に息を止めた。

 しかしあめふらしはどうやら自分の体内に圧力をかけているようで、その水でできた体を波打つように拍動させると、大きな泡が美鈴の口からあふれ出た。


 圭はあめふらしのこの姿を見るのは初めてだったが、斎藤から聞いた話に、そして自分の感覚に、これが山で出会ったものであることを理解した。

 圭は腰かけていたタイヤの遊具から滑り落ち、地面に手をついたまま固まっていた。

 その姿に、恐怖に、腰が抜けたのだろうか。それとも一度あめふらしに取り込まれてしまったがために何かしらの影響を受けているのだろうか。金縛りにあっていた。

 苦しむ美鈴の姿に激しく動揺しながらも何もできずにその光景を凝視していた。


「全部お前のおかげだよ。あの日も、いまも。ありがとうね。けれど私はお前が嫌いなんだ。こうして触るのも本当は嫌なんだ。ああ、きたない。きたない」

 眉であろうあたりをひそめ、蔑むように。口であろうへこみは歪にわらって、たのしそうに。

 あめふらしは遊んでいるような口ぶりで胸元を押さえた。

 そこには同じように胸元を押さえた美鈴が上下さかさまに漂っている。

 瞳孔が開き、肺から最後の泡が吐き出される。

 腕に込められていた力が抜け、水中を漂う。長い髪がゆれ、目は何も見ず、ぽかんと開いた口からは舌が覗いている。

 漂う水草がやさしく美鈴を撫でる。


 圭は動けない。

 顔だけをあめふらしに向け、その中を漂う最愛をただただ見つめる。


 幼いころによく二人で遊んだ、見慣れた場所、見慣れた景色。それがまるで別物になってしまった。

 先ほどまで圭を救っていた言葉は小娘のただの願望に過ぎなかった。

 圭を漠然と支配していた罪悪感と恐怖は今ここに実態を持ち、そして異常な速度で巨大化していく。


 そして目の前でゆらゆら漂いながら、白く白くかすれていく美鈴の姿に喪失感と後悔を、それでも一層の愛しさを感じた時、

「あ、ああああああああ!」

 声があふれ出た。

 決して大声ではなく、絞り出した声は喉につかえて情けないものだった。しかし金縛りは破られ、圭に、そしてその周囲に、それは確かに意味のあることだった。


「まあ」

 圭が叫んだことに驚くとともに、その感情の昂り、勇ましさ、それでもいまだ何もできぬ非力への慈しみに、あめふらしは恍惚の声を上げた。

「すごいね。声でたね。泣くことはないよ。すぐに忘れるよ。」

 上気したような、それでいて聖母のような表情を見せ、あめふらしは圭に近づき手を伸ばす。


「ギャー!ギャー!ギャー!」


 突如鳴り響いたその声は、あめふらしのすぐそば、圭の頭上すぐのところで巻き起こった。

 それはあめふらしが数日前に憎悪したものであり、圭にとっても何となく聞き覚えのあるものであった。


 あめふらしが表情を変え、視線を向けるより先に、その声は彼女の胸にすさまじい速度で飛び込み、バタバタと暴れだした。

 右手には鉈鎌、左手には黒い小さな粒をいくつか持っている。


 暴れる小さな体からは無数の羽が抜け落ち、左手からは黒い粒が放たれあめふらしの中を漂う。

 透明でわかりづらいあめふらしの顔が誰の目にもわかるくらい戦慄する。


「うわあ!きたない!きたない!」

 あめふらしは激しく狼狽した。


 波打つあめふらしの中で、アイアはその小さな体に似つかわしくない怪力で美鈴を外に引きずり出した。


 「いやだいやだ」と涙ぐむような声で体を揺さぶるあめふらしの体から、アイアの羽と黒い粒が大量の水とともに排出される。

 

 眉間に大層なしわを寄せ、大きく開く口から牙をのぞかせ、びしょ濡れのアイアはその凶悪な顔を圭に向ける。

「小僧、言いつけを守らんかったな」


「あっ…、その…」

 圭の金縛りは解け、体も声も自由になっていた。しかし新たに現れた異形の、その威圧感にまともに声を出すことができなかった。

 

 アイアはくるりと振り返り、ぺっ、ぺっ、と舌を出し吐き出す仕草のあめふらしを見る。異物の排出と同時にいくらか水を吐き出したためわずかに小さくなっているものの、いまだ仰ぎ見るほどの巨体である。


「あめふらしさま。此度の邪魔建てまことに申し訳ございません。あなた様にたてつく理由も、この若造どもへの義理もございません。ただ、此度は訳あって、どうしても一度、御領地にお戻りいただきたいのです」


 白々しく鉈鎌を捧げ持ち、頭を下げるアイアにあめふらしは心底苛立っているように見える。

「こんなものをひとに呑ませといてよくもまあ…」


 普段から震えるような声のあめふらしの声がより一層震え、憎悪の顔を見せる。


 圭は手元に転がってきた黒い粒を見た。

「これって…、あ」

「ヤギの糞でございます」

 圭が気づくと同時にアイアは答えた。

「あめふらしは大変に奇麗好きですので、こういったものが嫌いなのです」

 ポケットのように自分の腰をまさぐり、いくつかヤギの糞を手のひらに乗せ、アイアは得意げに圭にそれを見せた。


 引き気味の圭をしり目にポイとあめふらしに投げつけるが、あめふらしは体をぐにゃりと動かしそれをよけた。


「実際あの体はこの世で一等美しい水ともいわれ、その水は万病に効くとも、遡上する魚はあれを目指すとも、井戸の底は黄金が敷き詰められているとも。だが一方で若く麗しい男児にこそ一等、その美を見出すとか」

 ニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべ、横目でちらりと圭を見る。かすかに震えるその線の細い姿を眺め、

「まあ、さすがの目利きにございます」

偉そうに鼻で笑う。

「ですがいくら見目麗しくとも、そのままじっとしているようではこのアイアの眼鏡にはかないませぬ」


 その言葉にハッとした圭は動かせずにいた体を無理やりに、勢いをつけて立ち上がり、まともに歩けないまま重力を利用して美鈴のそばに倒れこんだ。

 

 美鈴を抱え起こしても無反応でずしりと重い。腹の、あばらとの堺あたりを押してみるも反応がない。

 力加減がわからない、折れるかもしれない。そう思いながらもこのままではいけないと思い、一度美鈴を地面に寝かせ、力を込めて同じ場所を強く押す。

 美鈴は横を向いてゲホゲホと大量の水を吐いた。その表情は苦悶そのもので、目も開かず、意識もない。

 しかし圭が耳を口元に近づけると、音で、わずかな風で、美鈴が息をしていることがわかり、安堵した。


「そうそう」

 アイアはうんうん頷き満足そうに微笑んだ、変な顔ではあるが醜悪な顔ではなかった。


 満足なんて滅相もない。あめふらしの不満はつのる一方だ。

「偉そうに、私の見立てにケチをつけおって」

 その不満は、お気に入りを奪われたこと、自らを汚されたことよりも別のところにあるようだった。


「どうか此度は御領にお下がりくださいませ。邪魔建てするつもりはないのです。いま、わたくしは…」

 体を震わせ、羽の中にたっぷりと含んだ水を排出し、一瞬で元のもこもこに戻ったアイアの言葉はさえぎられた。

 あめふらしは腕を伸ばし、すさまじい速度でしならせ、鞭のようにアイアを打ち据えた。

 体の軽いアイアは簡単に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

 

「まあ、聞く耳は持ちますまいな」

 起き上がり、咳込みながらアイアはつぶやく。


「いやだ。いやだ。わたしのだから。わたしの」

 きらきらと月の光を美しく乱反射させながらあめふらしはアイアに近寄る。

 両腕を伸ばしアイアをくるくると包み込むあめふらし。大げさな表面張力で腕の中に取り込むことなく、力を込めて締め上げる。

 先ほどの一撃ですでに息も絶え絶えのアイアだったが、その馬鹿力で必死に抵抗する。

 

「溺れさせるのが楽なんだけどね。お前みたいな、一等汚いのは、一等臭いのは、わたしの中に入れたくないんだよ」

 憎悪の顔は一転。下賤のものを憐れみ、慈しみ、その存在に何も期待していないかのような微笑みをアイアに向ける。


「失礼な!ここ数日はちゃんと風呂に入っているというのに!純と!」

 精一杯両手両足を突っ張り抵抗するアイア。しかしいとも簡単にそれは折りたたまれ全身を締め上げられる。顔が紅潮し、汗が噴き出る。

 

 その様子をうかがいながら、圭は音をたてぬようゆっくりと美鈴のそばを離れる。

 近くに落ちていたヤギの糞を砂ごと掴み、あめふらしに投げつける。

 勢いはなく、あめふらしは慌てることなく簡単によけてしまう。少し困った顔をしたのは、それをやったのが可愛い圭だったからだろう。


「ふんっ!」

 圭の行動は戦況を変える決定打ではなかった。

 しかし一瞬の怯みに、アイアは目を見開き、再び力を込めて両手両足を突っ張りあめふらしに抵抗する。


「おお、すごい。すごい」

 あめふらしは余裕で遊んでいるように見える。

「なにができるわけでもなし」

 かわいそうなものを眺めるように言い放つあめふらしに対し、アイアはにやりと笑って答える。そして

 

「キョーーーーーーーーー!!!!」

 ひと際奇怪な鳴き声を上げた。

 その声は甲高く、耳障りなものだったが、人々の眠りを妨げることなく、村の静寂に溶け込んでいった。

 

 ただの苦し紛れか、断末魔か。あめふらしはその声を大変不快に思いながらも特に気にせず、その美しい微笑みを崩さない。

 アイアはまたすぐに手足をたたまれ、先ほどよりも強く締めあげられる。目玉が飛び出しそうだ。

 目をそらしたいのにそらせない。圭はただただその光景を眺めているだけだった。


 風が吹いた。

 

 アイアは大量の水とともにバシャッと地面に落ちる。

 

 あめふらしが微笑みを崩す。

 

 圭はその全貌を見ていた。


 音もなく、村の谷間を縫う風のように、公民館の影から低い姿勢の斎藤が現れたのだ。

 五十代とは思えぬ素早い動きであめふらしの腕の下に潜り込み、刀を鞘から抜き、その太い腕を切ったのだ。

 

 アイアを抱え距離を取る斎藤と自身の腕を眺め、

「ああ、」

 声を漏らすあめふらし。

 それは理解を示す声か、苛立ちの合図か、あるいはその両方か。

 

「がてんだ。なるほどね。お前もたいがい目利きだね。でももうずいぶん年だ」

 あめふらしはつぶやく。

 

 斎藤はアイアを立たせ、体についた砂を落としてやる。

「水の神様っていうからさ切れるかどうか迷ったんだけどさ。案外うまくいく…、あ!錆びてる!」

 緊迫した状況に似つかわしくない呑気な口調で刀を眺め、落胆した。

「あれは金物が苦手にございます。切れたというよりとっさに避けたのでしょう。さっさと朽ちさせようと海よりも早く錆びを浮かせます。しかしその錆びそのものも嫌うようなのでまだまだ効き目はありかと」

 

 ふうん。と話を聞いた斎藤は刀をウリウリとあめふらしに近づけるふりをする。確かに嫌がっているような、その行動自体を怪訝に思っているような。侮蔑に満ちた困り顔が何とも言えない。

 

「でもそれで勝てるのか。こういう場合どうすればいいんだ。おじさん習ってないんだけど」

 こそこそと険しいながらも困惑した表情でアイアに問う。


「あれに勝つとか退治するとか思わぬことです。神様にございます。日の出まで粘り、お帰りいただくしかないかと。で、また七晩やり直しですな」

 アイアは言いながら圭と美鈴を睨みつけ、圭はびくっとする。美鈴はうなされている。

「そっかあ」

 斎藤は再び落胆する。腕時計の明かりをつけ、午前四時を確認する。

「一時間くらいかな。きついな」

 気持ちを切り替える。


 右手に錆びた刀を構えあめふらしとの間合いを取りながら、左手でシッシッと圭に下がるよう促す。

 圭は美鈴を抱きかかえようとしてうまくいかず、両脇に腕をかけて引きずるように公民館の軒下に移動した。こんな状況でも触る場所には気を付けた。


 アイアはあめふらしが激怒するものと考えていたが、そのわかりづらい顔の凹凸は穏やかに、より一層わかりづらくなり、ただ冷静に斎藤とアイアから距離をとっている。

 時折手を伸ばそうとするも、錆びた刀を向けられ引っ込める。

 

 アイアの鉈鎌も錆に覆われており、それを向けると嫌がっているのがわかる。

 試しに鉈鎌の先にヤギの糞をつけ、それを向けてみたところ、大層な侮蔑の表情を見せながら距離をとるのがわかった。アイアはそれを面白がり歪に笑った。

 

 こうしている間にも錆は進んだ。

 刀と鉈鎌が朽ちるのを待っているようだ。


 まともに戦えば必ず勝つあめふらしが持久戦に持ち込むのは、朝になればとりあえず難を逃れられる斎藤らにとっては願ってもないことだった。

 一方でこの尋常でない浸食の速度は、必ずしも持久戦が斎藤らの安全を保障するものではないことを意味する。

 

 斎藤には別の心配もある。

 仮に朝まで持ちこたえ、あめふらしを帰すことができてもこの刀は元には戻らない。

 陰陽師が儀式に使う日本刀ゆえ、格別の業物であるとか、妖刀であるとか、別にそんなことはない。

 それどころかかなりの安物だ。

 とはいえ本物の日本刀。全て拵えると百万を超えた。斎藤が気に入ったスズメの鍔が高かった。可愛かったらしい。

 これを失うのは相当痛い。あめふらしが動けぬ今、先手を打つべきかと気が急く。

 金勘定の焦りを察してアイアが手を見せ斎藤を制す。

 でもぉ。と言わんばかりに斎藤は情けない顔を見せる。


 あめふらしは嫌いなものに近づきたくないだけで、その美意識ゆえに行動を選んでいるに過ぎない。今切りかかって、刃が彼女に触れたとして、それは嫌がらせに過ぎず決定打にはならない。日の出まで待たなければならない事実には変わりなく、むしろ激昂されてしまえば斎藤も自分もひとたまりもないのだ。

 その刀を気に入っているわけでもなく、自分の出費でもないアイアは斎藤より冷静だ。


「黒伏君なら勝てたりしない?」

 何とか出費、現状を好転させたい斎藤は、よもやま話を夢想する。


「黒伏もまあ、神様のようなものですが。時間の無駄、と喧嘩にはなりますまい。場を収めてはくれるかもしれませんが」

「あー、いいねえ。黒伏君っぽいー」

「おじさん、案外余裕ありますね」


 あめふらしは時折探りを入れるように腕を伸ばす。相手の動きや錆の浸食具合を見ているようだ。

 何度目かに斎藤に向けて手を伸ばした時、斎藤が刀を向けるのを一瞬ためらい、目が泳ぐのがわかった。刀の錆が進みその表面が剥がれ落ちたのだ。

 あめふらしはそれを見逃さず、腕を伸ばし斎藤を打ち据える。

 窒息させるほうが楽だったが、刀とその錆まで取り込むのを嫌った。


 斎藤は道を挟んだ石垣まで飛ばされ背中を強く打った。

 思わず体を丸くする。肺がおかしい。呼吸の音がおかしい。

 

 刀が折れている。

 それに気づき眼前に右手を上げた時、そこには巨大で美しい、透き通る女の顔があった。

 口を開けると口角は首まで裂け、ずるりと斎藤を飲み込む。

「ああ、やっぱりいい男だねえ。でもやっぱりちょっと年を取りすぎたねえ」

 斎藤を体内に取り込んだあめふらしは嬉しそうに腹をさする。

 頬を膨らませた斎藤は必至でもがいている。


「キャキャキャキャキャ!」

 奇声を上げながらアイアが駆け寄りヤギの糞を投げつける。あめふらしはそれをさっと避け、そこにはびしょ濡れの斎藤が横たわっていた。

 ほんの数秒息ができなかっただけだが、肺を痛めていることもあり、斎藤は立ち上がることもできず苦しんでいた。


「大変でございます!おじさん!歯が!」

 石垣に叩きつけられた時のものだ。アイアは落ちていた斎藤の奥歯を拾い上げた。

 その衝撃の強さを物語るものではあるものの、決着のつきかねないこの緊迫した状況では些末なことだ。


 あばらが折れているかもしれない。

 痛みと呼吸の苦しさに斎藤は頭が働かず、「やるよ」と適当な返事をする。

 アイアは斎藤の言葉を聞き、嬉しそうに、誇らしげに、その奥歯を天に掲げた。

 大変に緊迫した状況だ。


「この状況をさ、打破するさ、他にないの、もっと、こう、弱点とかさ」

 とぎれとぎれに、苦しそうに話す斎藤。

 アイアはそれを心配しながら斎藤の前に立ち、鉈鎌の先にヤギの糞をつけあめふらしを警戒する。

 

 あめふらしはすきをうかがいながら間合いを取っている。

「目玉が弱点でございます」

「目玉あ…」

 つるんとしたあめふらしの顔を見る。

「どこだよ目玉ぁ…」

「怒ると出てくるのですが、あいにくヤギの糞もこれが最後。わたくしの鎌もじきに折れましょう」

 アイアは鉈鎌の先のヤギの糞を愛おしそうに見た。

「悪口でも言ってみるか」

 はは、と笑い、咳込み、苦しみだす斎藤にアイアは焦った。

 動けない斎藤を守ることに、気遣うことに集中するアイア。

 これを狙ったのだろうか。それとも偶然だろうか。

 物音と叫び声が聞こえアイアは自分の失態に気づきハッとする。

 

「うう!うう!」

 言葉にならない声を上げる圭。片手で美鈴を抱きしめ、片手で木の枝を振り回している。

 あめふらしは二人に覆いかぶさるように迫っていた。

「そんなにだいじい?」

 あめふらしは微笑みながらも不満気に圭の腕を払う。

 圭は倒れこみ美鈴が地面に落ちる。

 打ち据えられた腕の痛みと恐怖に耐え、圭は慌てて振り返る。


 美鈴は再びあめふらしの中に浮かんでいた。

 あめふらしは上機嫌に自分の体内に圧力をかける。


 その圧力は余裕をもって弄んでいた先ほどとは打って変わって、急激で、強力なものだった。

 美鈴の体がきしみ、目玉が飛び出、巨大な一塊の泡が再びあめふらしの中を上昇する。

 その体の中を漂う水草を掴み、引きちぎるも、あめふらしは意に介さない。


 飛び出た眼球がゆっくりと圭のほうを見る。

 圭は何もできない。声にならない声を漏らし、手を伸ばし、涙を流した。

 

 日の出まであとわずか。あめふらしは仕留めにかかっていた。

 

「山の神様は女が嫌い。っつって、鉄とか錆よりはましなんだな」

 依頼は失敗。圭がさらわれるばかりか、その幼馴染が殺される結末。

 あめふらしの中に浮かび苦しむ美鈴を、あろうことかちょっと美しいなと思いながら斎藤は自嘲の愚痴をこぼした。


 アイアはゆっくりと斎藤のほうを見る。

 笑っている。


「もうひとつわすれてたあ」


 この邪悪な景色の中でも、ひと際邪悪な声があった。

 決して大きな声ではないが、その声は絶望のさなかにいる圭をより一層震え上がらせた。


 その声の主はあめふらしではない。

 あめふらしもその声に対して嫌悪感をあらわにした。


 アイアは既にあめふらしの頭上すぐ近くにとびかかっていた。

 あめふらしはとっさにアイアを体に取り込まぬよう肩から上に力を込める。

 

 バシャンと水しぶきが上がるものの、アイアはその体内に侵入することができずあめふらしの頭にしがみついている。

 さっさと振り払いたいが、アイアはどうせ何もできない。多少の錆や糞は我慢してさっさと体内の小娘を殺そうと、あめふらしは微笑みながら力を込める。


 あめふらしの胸のあたりに見たことのない、見たくもなかった幼馴染の顔が浮かび上がる。全身に激痛を感じながら、もう少し顔を伸ばせば息ができるのにそれができずにもがき苦しむ幼馴染の顔だ。

 目をそらしたいのにそれができずにいる圭の耳に、そしてどこにあるのかわからないあめふらしの耳に、


 コンッ


 と小さな音が聞こえた。

 くぐもった金属のぶつかるような音。


 一層下卑た目元、口元でニヤニヤと嗤うアイア。その手が振り下ろされている。

 

 目の前に素早く振り下ろされたその腕をあめふらしはしっかりととらえていた。

 先ほどまで錆とヤギの糞で自分への嫌がらせに使われていた鉈鎌。そこにはヤギの糞はなく、錆が落とされ、ほんの一部だが先端が銀色に輝いていた。

 そして今、その先端は自分の喉元にあり、美鈴の眉間より少し下、左目頭の近くに刺さっている。


 アイアは力を抜いた。

 鉈鎌は若い肌の弾力で押し返され、それと同時にわずかに赤がにじむ。


 あめふらしが硬直するのがわかる。

 アイアはその絶妙に力を抜いた右腕で、指先で、鉈鎌の柄をゆっくりと引き上げる。


 その切っ先は美鈴の鼻の、額の、幼い凹凸を巧みにとらえ、わずかにその先端を皮下に残したまま滑りあがる。


 美鈴の額には一本の赤いすじが現れ、そしてそれはじんわりと煙のように広がる。


 その様子をじっと見ていた圭だったが、もだえ苦しんでいた美鈴の動きがぴたりと止まったことだけがわかった。

 ずれた眼鏡を直す斎藤には、あめふらしがぴたりと動きを止めたことだけがわかった。


「わすれてたわすれてた、いちばんいいのをわすれてたあ」


 上機嫌に、不気味に笑うアイアは右手を、鉈鎌を天に掲げる。その先端には小さな、赤い雫がある。


「ああ、ああ、あああああああああ!」


 あめふらしは暴れだし、アイアはたちまちに吹き飛ばされる。


 その体が波打ち、体内が泡立つほど、美鈴の額の血はあめふらしの中に広がり、美しく透き通った体が美しく不純物に侵されていく。

 

 その模様は一定ではない。広がり、まとまり、一本の筋を作り、ビー玉のような模様を体の動きに合わせて刻一刻と変化させる。

あめふらしはたまらず美鈴を体外に吐き出す。美鈴の額からはどくどくと血が流れている。

 あめふらしの中にそれ以上血が増えることはなかった。しかしヤギの糞やアイアの羽のように体外に排出することはできず、桃色の模様を美しく揺らしながら悶えている。


 圭は立ち上がることができなかったが、這いつくばって美鈴のもとに近づく。


 呼吸があり、薄く目を開け、

「圭ちゃん」

 消え入りそうな声で呼ぶと、美鈴は再び目を閉じた。


 美鈴の体を自分に持たれさせ、流れ続ける血を止めようと、圭は両手で額を押さえる。血は止まらず、血と水でぬるぬるとした。それでも圭はその愛しい額を優しく、強く抑え続けた。

 

 アイアにも疲労があるのか、足を引きずりながら斎藤に近づく。

「血か。美鈴ちゃんを切ったのか」

 斎藤の顔は険しかったが、怒りの表情ではない。

「山の神様は女が嫌い。女の流す不浄の血が嫌い。というのがございます」

「うん、聞いたことある。でも、こういうやり方があるのか。知ってたのか」

「思い付きでございます。しかしこのこと、記録し残されるがよいかと」


 得意そうに話すアイアだったが、儀式は失敗。女の子に大けがまでさせて話が相当にこじれるのではと斎藤は不安に思った。

 それでも最悪の事態は免れたかと安堵し、アイアを見つめ、あめふらしを眺める。


 安堵もつかの間。血管のような模様が全身に浮き出たあめふらしを見て、果たして最悪の事態は免れたのだろうかと不安になる。


 あめふらしの表情が先ほどまでと違いよくわかる。


 美鈴の血で色づいたためではない。白と黒の別の模様がある。

 模様ではない。目玉だ。


 今まで凹凸で目と判断していたところにぎょろぎょろと大きな目玉が二つ。

 さらにその上、額の、眉のあるであろうところにもう一対の目玉が現れている。


「四ツ目かあ」

 

 一時の安堵の反動のためか、無気力に斎藤はつぶやく。


「あ!目玉出た!あれです!あれが弱点でございます。あれを打ちなされ!」

 意気揚々と大声を上げるアイアに対し斎藤は困った顔を見せ、


「どうやって?」

 折れた刀を半笑いで見せた。


 アイアの鉈鎌も根元から折れ、カランとアスファルトに落ちる。

 

 もう何も策はない。二人は目を見合わせ、そしてあめふらしを見た。

 大きいなと思った。

 血管模様と水草が、なんだか人体模型の動脈と静脈みたいだなと思った。


 あめふらしは四つの目でぎょろぎょろと自分たちを見据え、怒りに震え、もはや圭のことなどどうでもよい。口を大きく広げ呼吸なのだろうか、ああ、ああ、と声に似た音を繰り返している。


 斎藤とアイアは身を寄せ合った。

 

 空は明るくなり始めているが日の出はまだ先のようだ。

 

「もう少しだったのに」

 薄笑いを浮かべ、目を閉じ、せめて楽に、一思いに殺してくれないかなと斎藤は思った。


 目をつぶり、しばらく待った。

 が、何も起こらない。焦らされているのだろうか。


 斎藤とアイアはゆっくりと目を開ける。

 

 朝焼けの始まった空の下、血の筋と水草の漂うあめふらしの姿がより鮮明に、より美しく見えた。

 

 ひどく上下するあめふらしの肩は徐々に落ち着き、血の筋は霧のように広がり体全体がかわいく色づく。

 

 そのうちに四つの大きな目もぐるんと顔の中に沈み込み、どこかへ消えて行ってしまった。

 

「おしゃべりとりめ、おそいゆきどけの息さえなければ、おまえなんかにかける義理なんてないのにね」


 あめふらしはそう言い放つと、ずるずると大きな体を重そうに四辻へと進み、山道にかけられた注連縄を普通にすり抜けていった。

 

「あの…、まだ日の出じゃないですよ」


 山へ帰るあめふらしの背中に斎藤が声をかける。

 よせと言わんばかりにアイアが斎藤をにらむ。

 

「もういい。だいたい日の出だし。もどる時間もかんがえて」


 ああなるほど、日の出まで下界で活動できるのではなく、日の出ている間は山の上の井戸付近、御領と呼ばれるあたりにいなければならないのか。

 斎藤は新しい知識にわずかに興奮を覚える一方、ちょっとだけがっかりした。もののけ姫のデイダラボッチみたいな威厳ある消え方を期待していたのだ。


「つぎのなのかはちゃんとして」

 その言葉を最後にあめふらしは山の中へと姿を消した。


 斎藤はキョトンとした。

「この儀式のこと把握してるのか。なんか聞いてたのと違うな」

 新人で、識者に言われるがまま行動していただけの斎藤だった。あめふらしの言葉に動揺し、考えを巡らせる。


「なあアイア、圭君をあきらめさせるんならさ、引っ越しさせちゃダメなの。視線を絶ったところでこの村にいたんじゃ結局また見つかっちゃうじゃない」


 斎藤の言葉に今度はアイアがキョトンとした。

「視線を絶つ?引っ越しなどしてあめふらしがついて行って、この地を離れてしまったらどうするのです」


 斎藤は眉をひそめる。

 なんだか二人の話がかみ合っていない。


「葬式を行い、その後七晩姿を隠すことで圭君が死んだと思わせる。あめふらしの活発な夜の間はおじさんが刀で視線を切って目隠しするんじゃないの」

「はあ?そんな術は知りませぬ。あったとしておじさんにそんなことできますかね」


 からかうアイアに斎藤はムッとするも何も言い返せない。

「あめふらしにつかまった時点で圭はあめふらしのものでございます。死ぬまで」 

 斎藤はさらに眉をひそめる。何か言いたいではあるが何も言葉が出ない。アイアに続けるよう催促する。


「我々は圭があめふらしのものとなったことを祝福したのです。あれは結婚式ともいえるし、葬式というなら圭はもはやこの世のものではございません。圭は七晩人との接触を断ち山の神のものとなったことを示し、その間、格別の者が舞を見せ祝福するのです」

 

 斎藤は痛む体をさすり、石垣に体を持たれさせ、楽な体勢を探る。アイアも余裕はなかったが、それでも斎藤の体を気遣いながら話を続けた。

「その代わりにあめふらしのものでありながら村で暮らす赦しを得るのです。奴も狭量ではございません。旅行くらいなら大目に見ることもございましょう。ただ、よそに移るともなればあめふらしは圭を取り戻そうと何をするか。最悪この地を離れるようなことがあればこの山はどうなってしまうか。あめふらしが現れるまで、かつてこの一帯は作物の育たぬ土地だったと黒伏より聞いております」


 これは人と妖怪の解釈の違いか、それとも自分の聞いた中に嘘があったか。斎藤は悩むが考えて答えが出るようなものではない。


「選ばれる若い子っていうのはさ、どんな子でもいいの?南にはちょっとした町もあるしさ、西原とかはこう、しっかり信仰も残ってるらしいじゃない」

 

 斎藤の問いにアイアは神妙な声で答える。

「基本はこの笹方かと。例外はありましょうが、西原はないでしょうな。あそこには星野竜王神社がございます。西原のものが立てた社にございます。そしてその祭神こそほしのうりうりあまりあまりぐんだりん、つまりあめふらしでございます」

「そうか」


 アイアの話から察するに今回の件、自分が想像していたものとは違っているようだった。


 斎藤は今回の件、神の気まぐれのような、陰陽師らしい仕事だと乗り気だった。しかしそこにはしっかりとした歴史的背景があり、多分に人間の意志が、利害が関係しているようだ。


 それでもアイアの語った内容は斎藤の疑問を晴らし、好奇心を満たし、一定の満足感を与えた。


 心配なのは美鈴の存在だった。

 これから七晩儀式を無事済ませ、圭をこの村から出さぬようにしたところで、そのそばにある美鈴の存在は、圭に、あめふらしに影響を与えないのだろうか。

 若い恋だ。たいがいは儚く、あっけなく終わってしまうものだ。それでももしそれが燃え盛るようなものになってしまったら、永く続いてしまったら。


「村で暮らす赦しを得たとして、その先何か制約はないのか?仕事は通勤何キロ以内とか、暮らし…その、結婚とか」

 自分の考えている内容をそのまま尋ねるのが恥ずかしく思われ、斎藤はそれとなくアイアから情報を引き出そうとしたが、アイアはキョトンと「さあ」と答えるのみだった。


「どのみち我々にできるのは儀式をやり直すことだけでございます。その後どうあれ、山へ連れていかれるよりはるかにましなのです。親御がおります、純もおります」


 もっともだった。アイアの言うことは正しいが、斎藤は何か考え、考えがまとまらず、まっすぐにアイアを見た。 

 アイアは困った。


「神様相手にあまり大層なことができると思いなさるな。それでもこれは、あなたにしかできぬ十分に大層なことなのです」

 斎藤は目を閉じた。


「解決などなく、あるのは対処のみ」

 つぶやいたのは五年前、脱サラして師事した陰陽師の言葉だった。


 体の痛みを我慢しながら圭と美鈴のもとに歩み寄る。


 手当が得意というアイアに美鈴を任せ、圭には助けを呼んできてもらうことにした。


 圭は美鈴のもとを離れたくない様子だったが、美鈴の濡れたシャツを破り額を押さえ、胸元から何やら軟膏の入った小さな缶を取り出すアイアを見て、それが最善と理解した。

 先ほどまで腰の抜けていた少年の、弱々しい足取りだった。しかし斎藤は頼もしさを感じ、アイアはその後姿を鼻で笑った。


「遅い雪解けって何?」

 せっせと応急処置をするアイアに斎藤が尋ねる。

「黒伏の古い名ですね。本名でしょうか。この場におらずして山の神様を帰らしむとは。いや、さすが黒伏」

 アイアは得意げに語り、うっかり美鈴の頭をきつく縛りすぎる。美鈴が唸る。

「そういや黒伏君も四ツ目だな。なんかえらい妖怪は四ツ目なのかね。なんか知ってる?」

 胸をさすりながらだらしなく座り、斎藤が尋ねる。

「さあ?四ツ目のお化けはいくらか知っておりますが、確かにそのほとんどは古くからある神のようなものですね」

 そっけなく、それでいて得意げに語るアイアに、斎藤はやっぱり。と頷いた。


「ただ昔、わたくしが黒伏と出会ったばかりのころ、なぜあなたは目が四つもあるのかと尋ねたことがございます」

「へえ、なんて言ってた?」

「へんてこなおまえがへんてこなことをしないかよおく見張っておくためだよ。と」

「それじゃあなんだか赤ずきんみたいだ」

 斎藤はハハと笑い、胸を押さえた。

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