五夜、人妻。
五日目の夜、数日同じことを繰り返した慣れのためだろうか、手を抜いたわけではないのだが、日の入り後の儀式はスムーズに終えることができた。
「ちょっと早すぎたかな」
五日目にして確信に至ったのだが、初日と二日目には道を、庭を歩く足は何かが絡みつくように重かった。
朝、眠りについても体の痛みのために頻繁に目が覚めるほどだった。
それが結界が張られてからは改善され、昨日に至ってはむしろ体の調子がいいといった具合だった。
とはいえ神経を使う儀式だ。汗ばんだ体を庭の端で休める。
芝生の厚く茂ったところにブルーシートを引き、座布団が二つと麦茶の入った魔法瓶、いくつかの袋菓子がざるに盛られている。
三日目の夜以降、夫妻が用意してくれるようになった。
自分の息子を守るためにやってきたものに対する気遣いと考えればそう格別のものでもない。
しかし斎藤も自らが胡散臭く思われる類のものであることを自覚していたため、これをありがたく思った。
座布団の一つに腰を下ろし、もう一つをアイアに勧める。するとアイアはそれを断り、
「不安でしたら今宵もわたくしが一時庭を回りましょう。わたくしはおじさんの後ろをつけるばかりで何もしておりませんし。もちろんわたくしのごときうろんの者に任すものではないかもしれませぬが」
斎藤の顔を覗き込んだ。
斎藤にとって今回の仕事は初の大仕事だ。
これを完遂することは自分の今後にもつながるし、何より圭のような若者を守りたいと思っていた。
そのためにやれることはすべてやっておきたいと考えており、そこにアイアの申し出は非常にありがたかった。
「ありがとうアイア、助かるよ。そもそも圭君を助けたのはお前なんだ。今更お前を怪しむなんてことないよ。お願いできるかな」
斎藤は優しく微笑み、アイアは満面の笑みで胸をポスっと叩いた。
「この儀に置いてわたくしがおじさんより秀でるところがございます」
得意げにそういうアイアに、言ってごらん。と斎藤は手のひらを見せる。
アイアはひと際にっこりと微笑むと、何やらうんうん唸る。
すると右から左から竹やりを持った二体のアイアが現れ、鉈鎌を持ったオリジナルアイアを中央に三人で並び得意げにポーズを取った。
現れた二体のアイアは中央のアイアよりわずかに小さい。
「これは心強い」
楽しそうに感心しながら手をたたく斎藤の姿と言葉に、アイアたちは暗闇に輝かんばかりの笑顔で散らばっていき、各々勝手に踊り始めた。
風が吹き、戸が開き、今日も盆に夜食を乗せた母親がやってきた。
そして声を上げる。
「ね、涅槃?」
座布団を二つ並べ片肘をつき、美しくまっすぐに寝転ぶ斎藤の姿にはある種の神々しさがあった。
「おっと、こりゃ失礼」
斎藤は慌てて座り直し、座布団を一つ進めた。
座布団に膝をつく母親の持つ盆の上には、にぎりめしとみそ汁と大きな急須があった。
「今日は風がありますし、こちらが良いかと」
そう言って微笑むと、湯気の立つ緑茶を寿司屋みたいな湯呑にそそぐ。
斎藤は深々と頭を下げ湯呑を受け取る。少し熱いが我慢する。
「進捗…、と言ってよいのでしょうか。現在順調です。はた目にはわからんかもしれませんが邪魔が全く入りません。最初のうちは結構あったんです」
「はあ、邪魔が」
斎藤のいう邪魔がどんなものか母親には全く理解できなかったが、突っ込んで聞くようなことはしなかった。
「アイアちゃんがしっかり踊ってくれてるおかげかしら」
「はい、あれのおかげです」
「今日は二人…三人いるみたい」
二人の見つめる方向に鉈鎌を持ったアイアと竹槍を持ったアイアが踊っている。一体は竹槍をおいて庭にまかれた砂利をいじって遊んでいる。
「分身でしょうな。たまに見かけるんです。数名でこそこそ何かやっとるんです」
二人は笑いあった。
口に手を当て客用の笑顔をしばらく見せた後、母親は口元にわずかに笑みを残したまま、しかし真剣なまなざしで語りだした。
「今回のこと、本当に私たちだけでは…。この村に言い伝えのようなものがあることは知っていたんです。それが実際に、自分の息子に降りかかるなんて」
斎藤は黙って聞いている。
「でも夫は四六時中圭の部屋の前におりまして、なんだか楽しそうに見えることもあって。純も、あれは何気にお兄ちゃん子なんです。やっぱり今回のことで疲弊してるみたいで、でもその、アイアちゃんが気を紛らわしてくれているみたいで」
「アイアも純ちゃんを気に入っているようです。いやはや今日なんかは二人で私の睡眠を邪魔しに来ましてね。あれにはまいりました」
母親が涙ぐんでいることに気づき、斎藤は明るく言った。
「ごめんなさい。最初はあなたたちのこと疑ってたんです。今も村のほとんどの者はよくない噂だったり…、その…」
「慣れております」
「それでも何もできない私たちはあなたに任せられるから、あなたのせいにできるから。それだけでずいぶん楽になっているんです」
母親は正座をし、深々と頭を下げる。
「これまでの数々の非礼、そしてこれからの数々の非礼、深くお詫びいたします。ですからどうか、何卒、息子のことをよろしく…」
斎藤は驚き、それをやめさせようと母親の肩を掴み体を起こす。
顔が近い。
目と目が合う。
ちょっといけない雰囲気になる。
二人の間にアイアが割って入る。オリジナルのやつだ。
アイアは両手ににぎりめしを持ち、片方を食べ、もう片方を母親の口に無理やりに突っ込んだ。
母親はそれに困惑したが、アイアとともにムグムグと噛んだ。
母親が飲み込むのを見ると、アイアは満足そうに笑い再び好き勝手に移動しながら独自の踊りを始めた。
「何をやってるんだあいつは」
困惑しながらも、特に叱るでもなく遠くのアイアたちを眺める。
鉈鎌を持ったアイアは熱心に踊り、残りの二体は木の枝で地面に絵をかいて遊んでいる。
ふふ、と上品に笑う母親は
「それでは私はもう戻りますので、あ、これ、座布団。存分に悟りを開いてくださいね」
そう冗談を言って家へと入っていった。
玄関の明かりはつけたままにしてくれている。たくさんの虫がその明かりに集まっている。
「悟るかあ…」
再び座布団を二つ並べ横になった斎藤は、さっきよりも背筋を伸ばし、より美しく涅槃像の真似をした。
そして三体のアイアを眺め微笑む。
「私には無理だろうなあ…」
そう鼻で笑うと、ゆっくりと、静かに、目を閉じた。




