アイア
ヤギが鳴いた。
日の光は水田に照り返され、小川のせせらぎが蝉の声にかき消される夏の原風景。
道路脇の斜面を切り崩し、粗末に竹を組んだ柵で囲われたテリトリー。
彼はひょこひょこと近づいてくる不気味な姿に目を向けた。
赤いぼさぼさの髪、羽毛に覆われた小さな体。
アイアは大きく吊り上がった目でニヤニヤとヤギを見つめている。
彼は目の前を人間が通れば鳴くことにしている。
無反応のものも多いが、「かわいいかわいい」と喜んでは、彼の身の回りの日陰に、貧弱に生えた草とは違う上等な野菜くずを差し出すものもある。
特に朝夕を集団で通り過ぎる小さな人間はねらい目だ。
過剰に鳴いて見せれば過剰に喜び、過剰に旨いものを持ってくる。
紙を差し出されることもある。好きではないが食べてやる。
ヤギは目の前に現れたアイアを、その異様な姿にもかかわらず上客の一人と判断した。
柵の間から顔を出し、鼻先を近づける。アイアも上機嫌にその愛らしい鼻先に左手を伸ばす。
彼は小さな指にそっと鼻をつけた。
瞬間、アイアの吊り上がった目が一層鋭くニヤついた。
そしてジャッ!という音とともに、そのもこもことした右腕が素早く動いた。
彼は何が起こったのかわからなかった。アイアは既に背を向けひょこひょこと立ち去っている。
アイアは満足気に左手を見る。
そこに落ちていたのは美しい白い毛の束、髭だった。
右手には古い和ばさみがある。
それがなければ魅力も集客力も七割は落ちるであろうアイデンティティを失ったことに彼は気づいていない。
そもそも彼ら自身それが何のためにあるのかわかっていない。
髭が人の髪でいうところの「ぱっつん」になっている。
今、彼の感情を支配していたのは、アイアが何一つ旨いものを差し出さなかったことに対する落胆だった。
アイアの背中を見つめるも、再び鳴いてやることはない。
ただ足元の貧弱な草を食み、これはこれで悪くないと思うのだった。