聴いてくれよ病
ねえ、聞いてくれよ。ぼくの話を聴いてくれよ。ちゃんと聴いてほしいんだ。テレビを見ながらじゃなくて、宿題しながらじゃなくて、あるいは洗濯物を畳みながらでもなくて。ぼくの目を見て聴いてほしい。君はじっとしていなくてはいけない、雑音をたててはいけないんだ。なぜってぼくは君に話を聴いてほしいから。否、君に拒否権はないよ、ない筈だ。ぼくが知っているかぎりは。
ああ、声をあげないで。ここでは音が響くんだ――すごく。
ぼくの話を聴けったら! こんなにお願いしているのに、君はぼくを気にもかけてくれないんだね、でも君に拒否権はない、だからぼくの言うことを聴くんだ。ぼくのいうことを聴かないと、あとでえらい目にあう。だからぼくの言うことを聴いた方が君にとっていいんだ。痛い目をみたくないだろう? そう、だれだってそうだ。もちろん。痛いのはいやだ。ああ、やっと聴いてくれる気になったみたいだね。じゃあ、聴いてくれ、ぼくの話。
聴いてくれよ病が流行りだしたのは三年程前のことだ。最初に発症したのはアメリカ人の少年であったという。十一歳とかそれぐらいだった筈だ。彼は鬱病と診断されたがどうも違う。三日後もう三人が同じ症状を発症した。四日後には五人、二日後には十九人も増えた。みなが一様に「聴いてくれよ、お願いだから聴いてくれよ」と熱に浮かされているかのように繰り返すことから、聴いてくれよ病と名づけられた。心理テストや遺伝子検査、脳波測定等を考えうる限りの検査をした結果、この病は伝染病ではないと学者達は結論づけたが、市民には受け入れられない。このニュースが広まってからというもの、その数はアメリカ、ニューヨークを中心に増え続け、ついには全世界に広がった。全世界、というのは言いすぎだが、ここでは数字は意味をなさない。だいたい世界中ということだ。
聴いてくれよ病は厄介な病だ。質の悪いことに自覚症状がない。聴いてくれる人が現れるまで聴いてくれよ、聴いてくれよと嘆き、怒り、悲しみ、涙を流す。しかし誰もが聴いてもらいたいので聴いてくれる相手はいない。聞いてくれる相手はいるかもしれないが、彼らはそれでは満足しないのだ。真に聴いてくれなければ満足しない。
そこで世界が求めたのは聴き手である。ふむふむと適当なところで相槌をうって聴いてくれ、なおかつ話者が求めるものを与えられる聴き手。励まし、慰め、同意、意見。聴き手は完璧でなければいけない。
病が流行りだして一年の頃、日本の政府がある教育機関を立ち上げた。聴き手育成学校である。科学者、研究者、心理学者達は、その原因を突き止めワクチンを創り予防方を考えることを、もうすでに諦めていた。研究の成果を誰かに聴いてもらい、意見をきけなくなってしまったからである。だれもが聴いてくれよ病患者、もしくは予備軍だった。さて、この育成機関であるが、教師陣はみな「予備軍」である。生徒もまた予備軍であるから、あまり意味がない。聴き手育成は失敗に終わった。
そして人類は――喋ることをやめた。話すことをやめた。語ることをやめた。彼らは聴きもせず、また聞きもしなかった。結果言葉を失くし、文明を捨てた。
このぼくの話を最後まで聴いていてくれた君にだけ、特別にある秘密を教えよう。聴いてくれよ病患者の話すことは大抵が作り話だ。彼らは聴いてほしいばかりで、本当に聴いてほしい事なんか一つもないんだから。やつらの話というのは嘘八百で、絶対に本気にしてはいけない。頭がとち狂って、自分で何を言っているのかさえ解ってないんだから。
ねえ、聴いてる?
ちょっと慣れてきました、大西です。しかしあらすじがどうやってもしっくり来ません。
これはどのジャンルになるんでしょうか……。
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