「第5章」 〜日光初日〜其の四
車は程なくして湖畔から離れ竜頭の滝の前を通り過ぎた。優香里が、
「私、この前の修学旅行でここに来たの。覚えているもん。」
と、言うと、ガイドは、
「ここには立ち寄りませんが、後程別の景色の竜頭の滝をお見せしますね!」と言った。優香里は少し首を傾げたが、そのまま何も言わなかった。
車は更に進むと、間もなくすっかり黄色に色付いた樹林帯へと入っていった。どうやら戦場ヶ原の中へと入ったようだ。
エミーは、「紅葉って本当にカラフルなのね。私はもみじの紅い色しか想像していなかったわ。こんな黄色のものも在るのね」
すると、ガイドが、
「ダケカンバ等は鮮やかな黄色に紅葉するのですよ。それでも、黄葉とは言わず、同じ紅葉と呼ぶのです」
エミーは、不思議な顔をしながら頷いた。
車は間もなく「赤沼レストハウス入口」の前を通り過ぎ、やがて左には草原の景色が、右側には男体山の極彩色に包まれた山肌が見えてきた。どの方向を見ても季節の織りなす色に包まれていた。車道の両脇はプロ、アマのカメラマン達が大勢で陣取り、中には車道を三脚を立てたまま道を横切る老人もいて危険にも見える。
「凄い人数のカメラマン達ですね」と、ユウイチはドライバーに尋ねた。
「この時季の日光は、何処に行っても大勢の写真好きが集まってます。毎年の事です。午後にもなると道は大渋滞、運転するのも大変なのですが何しろ駐車場に困るのです。ですので本当は効率良くなるべく沢山の場所を案内したいのですが時間の制約でそうにもいかず、行ける場所は限られるので、なるべく静かで人の少ないそして魅力ある場所へご案内したいと心掛けてはいるのです。」
ドライバーはそう言いながら車を更に走らせると「湯滝」への入口も通り過ぎ、坂道を登らせた。坂を登りきると左側に湖が見え、その畔に寄せるようにして車を停めた。
「皆様、いよいよ最初の目的地に到着しました。お手回りの荷物だけお持ちになり車を降りて下さい。」
ドライバーがそう言うので僕たちは全員車を降りた。目の前にはこじんまりとした湖、「湯湖」が、樹々の間から見えている。辺りはひっそりと静かであると思いきや「ドドド」と水飛沫の音がけたたましく響いていた。
「この凄い音は何?」と、エミーが尋ねると、ガイドが
「この音は、この湖水が直下にある湯滝の滝壺へと落下してる音が聞こえてきています。この場所が丁度、湯滝の滝頭になります。」
そう言いながら、ドライバーが全員にA4サイズの地図を渡した。地図には、この付近のハイキングコース等が描かれていてそこにイエローやレッドのマーカーで印が書き込まれていた。
「現在私達がいる場所が、この紅い丸印の所です。先ずはこの湖の周囲を散策してみて下さい。湖面に映る紅葉が見事ですよ。その後、この湯滝の左側の散策路を下り、滝を観てからその後、更に戦場ヶ原の方へと進んでください。道はとても判りやすいので迷われることは無いと思います。ただし、そのまま真っ直ぐ進んでしまうと小田代ヶ原まで行ってしまうので、必ずこの三角印の場所で左へと折れ、赤沼のレストハウスの方へと向かって下さいね。すると、先程車が通ってきた車道へと出ます。それからこの紅い二重丸の場所まで来て下さい。私の車はその場所まで先に行って待機しています。ハイキングコースへは私は同行いたしませんが、緊急時は、私の携帯電話までご連絡下さいね。それでは、日光の自然を堪能してきて下さい。
その後、昼食にご案内致したいと思います。それでは行ってらっしゃい」
ドライバーは、僕たちにそう告げると車の方へと戻っていった。
僕たちは5人湖畔に佇んだ。湖面は鏡のように平滑で輝き、境無く周囲の景色を逆さまに写して溶かし込んでいる。周囲からは鳥の鳴き声が聞こえ、空気は清々しくとても冷んやりとしていた。皆で空気を思い切り吸い込んでみる。それは、東京ともハワイの渓谷とも違った味がした。
「ねえ、ユミ、本当に綺麗・・。そしてなんて涼しいのかしら。まるでハレアカラに登ったときの気分だわ」
と、エミーが言うと、
「本当に。まるで絵に描いたみたい。というよりは絵にも描け無いくらい美しいわ。私もこんなに見事な紅葉を観るのは初めてなのよ」と、由美子は、答えた。
「これが日本の秋の紅葉なのね」とエミーは感動の余りにうっすらと涙を浮かべた。
優香里は、「5月は全部緑一色だったんだよ」と、3人はおしゃべりしながら遊歩道を歩き始めた。少し前方を小走りにエミーと優香里は進むと、デジタルカメラを取り出して写真を夢中で撮り出した。
妻は、「優香里、走らないで、足元を気を付けて歩くのよ」と、娘を窘めながらそれを追いかけていく。ユウイチは只、無言で周りの景色を見つめ日本の紅葉をかみしめていた。(昔、同じように秋の景色をあいつと観ていた事があったな)と、とても若い頃の苦い恋のリグレットのワンシーンを回想していた。
湖面は風と無い所為か、フラットな鏡のように、周囲の景色をそのまま反転させ写し込み繋がって見える。その静寂な景色をノイズを入れるかのように番のオシドリが湖面に波紋を立てて進んでゆく。僕はその波紋を目線で追いながらユウイチの横に立ち、暫しの時がゆっくりと進んで行く感覚を味わっていた。
小さく見えていた湖は意外と大きく、遊歩道で周囲を回るには時間がかかる様なので、皆で途中で道を引き返す事にして最初の場所へと戻ってきた。再び湖水が落ちる「ゴーゴー」という音が聞こえてきた。そして、僕たちはその激しく落ちる水を追うように湯滝の脇にある遊歩道を下っていった。
階段は少し湿っていて、滑りやすそうだった。優香里とエミーは、すっかりはしゃいでカメラに夢中なので、妻の由美子は気が気でないようで、「滑らないように足元に気を付けるのよ」と、声を掛けながら追ってゆく。僕たちもその後ろに続いて階段を下って行った。
「湯滝」は、その階段の脇を見せつけるかのように水を落としていた。その丁度中間地点で、滝にせり出すようにして1本の楓が、紅く色付いてその前は人集りも出来ていた。みんなその見事な紅葉を写真に収めようとカメラを待ち構えていた。
「優香里、手摺りをちゃんと掴むのよ」と、由美子は気をもむが、側にはエミーが居てしっかりガードしてくれている。まるで姉妹のように仲も良い。それは微笑ましくも見えた。
「ママ、修学旅行でも来たときよりずっと綺麗」と、優香里は喜んだ。
エミーは、独り言のように「ビューティフル」と幾度となく繰り返してる。僕とユウイチは、その後を追うようにゆっくりと階段を下っていく。僕は
「ユウイチと一緒にここに来られて本当に良かった」と話しかけると、ユウイチは、相変わらずの真っ黒に日焼けした顔から真っ白な歯を見せ
「そうだな。俺も日本に戻ったのは20年振りだししかもこんなに綺麗な紅葉の風景を観れるとは思ってもいなかった。しかも、サトルの家族みんなに案内して貰ってこれほど嬉しいことはない」
そう言って笑うユウイチは、爽やかで格好良かった。その姿を通りすれ違う女性達が、
「モデルさんかしら?」
「いや、スポーツ選手じゃないの」等と囁いている。ユウイチの存在感は集団の中でそれだけ大きく目立ってもいた。
僕たち5人は揃って観瀑台迄辿り着き並んで立った。エミーと優香里は、先程までと打って変わり、静かに滝を見上げていた。
「小さいと思っていたけど、案外迫力あるなあ」と、ユウイチが言った。優香里は、修学旅行で訪れた時の同じ場所からの写真を表示させながら、今、目の前に迫る紅葉の滝を見比べながら、エミーに見せていた。
「エミー、ママ。見てみて!ほらね、ここ、おんなじ場所でしょう?5月に来たときはこんなだったの。雨降ってて霞んでいるし、違う所に来てるみたい。今日の方が全然綺麗!」
そう言うと、数ヶ月前と同じポジションで写真を撮り、その後は、エミーやママ達と一緒にガメラに収まり僕達もにわかカメラマンの優香里に言われるがままポーズをとり、満足顔に気取った。
間もなく、団体ツアーの客が大勢押しかけて人は更に混雑し始めたので、僕達はその場所から離れ、戦場ヶ原への散策路へと向かった。
道はやがて人の喧騒から離れ静寂な空気に包まれた。道は平坦な草原の中に木道がひかれその上を歩いて行くとやがて視界が開き左手に巨大なコニーデ式の男体山が姿を現した。山は全体が紅やオレンジそして緑に飾られ、パッチワークで織られた作り物の様にも見えた。
エミーは、立ち止まって「グレイト」と叫んで思わず口を塞いだ。その声が木魂して響いたことに驚いたからだ。草原の先には対照的に黄色1色の中に白樺の幹が印象深く白を主張していた。見上げる空は限りなく青く澄み切っている。自然のクレパスは大地も空も素敵に彩って季節のショーを繰り広げてくれている。どの方向を見ても圧倒的な迫力があり、空気は冷たく張り詰めた緊張感を保ちながらも、時折遠くから聞こえてくる野鳥の鳴き声だけが、その空気を揺らす。由美子は
「本当に何て綺麗なの。言葉が出ないわ。今まで見たこと無いし、想像以上の世界だわ」と言うと、エミーは、「日本に住んでるユミがそこまで言うんだから、きっと最高の奇跡的な景色なのね。私も、景色を見て感動するなんて何年か振りの事だわ」と返す。優香里はさっきまではしゃいでいたのにもう、無口になって、景色に見入っている。
「感動は、人を無口にするものだな」と、ユウイチが呟くと、エミーが、
「社長には珍しく素敵な言葉ね。全く似合わないけれど」と言うので、思わず僕や由美子は吹き出して笑った。その笑い声は、紅葉に包まれた草原に拡がり、その後木魂して返った。ユウイチにこれだけの事をまともに言える女性は恐らくエミーしかいない。良いコンビだなと2人で目線を合わせて確認した。由美子も同感の様だった。僕は、
「兎に角、僕もこれだけ素晴らしい紅葉は観たこと無い。最高の場所に最高のタイミングで来られたのだと思う。本当にラッキーだったね」と言うと、皆が頷いて、ユウイチも「みんなで一緒に観れて良かった。きっとこれ以上の紅葉はこの先出逢えないかもしれないしな。後悔しないよう、しっかり観て、記憶に焼き付けよう」と言った。
僕は素晴らしい紅葉の景色に人間の生涯を重ねて考えていた。紅葉は植物にとっては冬を迎える直前のセレモニーなんだ。越冬するために自ら葉を枯らす酵素を放出し、命を永らえる為の儀式なので有る。葉は、その寿命を尽きる直前に、命の輝きを自らの彩りに変えて表現して散りゆく。その最期の姿の美しさを与えた神の仕業に改めて敬意を覚えた。
僕の一生の中でもこの先迎える晩年の前にこれだけ色づいて輝きを放つ事が出来るのだろうか?と短い時間で自問自答していた。
エミーは、周囲を一通り見渡した後、男体山を指差して
「あの山は何となくハレアカラに似てるわね」と言うと、由美子が
「この男体山も、火山だからじゃ無いのかしら?確か、ハワイも火山島だわね」と返した。エミーは、「成る程」と答えたが、優香里が言葉を挟んできて、
「でもママ、煙は出てないわ」と言うので由美子が、
「それはね、今はこの山はお休み中だからよ。富士山とおんなじようにね」と言うと優香里は、「ふーん」と、解ったのか解らなかったのかどちらとも取れない生返事をした。
優香里は、視線をぐるりと廻すと、
「ママ、じゃあ、あの山は?」と後ろを振り向いて尋ねた。
「あの山は、日光白根山と言うの。日本の北側半分で1番高い山なのよ。あの山の向こう側に尾瀬があるのよ」と、言うと、ユウイチがいきなり
「夏が来れば想い出す~」と歌を口ずさみ始めたので、皆がユウイチの方へ振り返った。
「私は社長が歌を唄う姿、初めて見たわ」と言って笑った。僕も、ユウイチのその姿が意外に見え、可愛いとも思い、微笑ましかった。そして、そこまでユウイチに心をリラックスさせ、開放させているこの景色がきっと奇跡を起こしているのだと思っていた。
エミーが、
「折角なんだから、みんなで一緒に沢山写真撮りましょう」
と言うので、カメラをタイマーセットしてみんなで並んで写真を撮った。「何か、家族写真みたいだな」
と言うと、エミーは、「良いのよ。皆家族じゃない?」と言うと、由美子も優香里も笑顔で頷いた。
その写真は後に素敵な貴重なスナップとなった。
僕達はその後も喋りながらだらだらと遊歩道を歩いて進んだ。すると、小田代ヶ原との分岐点には、タクシードライバーが立っていた。
「いやー、余りにも遅いので迷ったのかとも思ってここまでお迎えにまいりました」と、ガイドはホッとした顔で僕達に言った。
「すみません。余りにも美しい紅葉の景色に見とれていて、時間がたつのをすっかり忘れて見入っていました」
「そうでしょう、無理はありません。今年の紅葉は10年に1度の美しさと言われていますが、その中でも今日は色付きもお天気も最高の1日です。長年見慣れている私でさえ見とれてしまうほどですね。ガイド生活の中で間違いなくベストワンの見事さです。
それでは、少し急ぎましょうか?食事迄はまだ時間の余裕があるのでその前にちょっと立ち寄りたい所があるのです」
と、ガイドは言って僕達を先導するように歩き始めた。