第二章
9月に入ったとはいえ陽射しはまだ真夏並みに強く、日中は30℃を超え、外ではひぐらしがひっきりなしに鳴く日々が続いていた。娘は長い夏休みが終わり、気だるそうに身体を引きづり再び学校へと通うようになっている。我が家にはいつもの極めて日常的で普通な日々が訪れていた。
僕も、いつもと何ら変わらずに家を出て駅まで歩き、電車に乗り、会社へと通勤する日々であった。オフィスビルの社員専用ゲート前には馴染みの守衛さんが立ち、何時ものように「お早うさん」と声をかける。すると、「お早うございます」と丁寧な返事が返ってくる。自分にとっては父親位の年代であり、幾度も「そんなに畏まらなくても」と言ったものの、「いえいえ、とんでもない」との応えでとうとうそのまま慣れてしまっている。そのあとはフロントの女性達に挨拶を受ける。いつもの風景である。
今朝は、同期入社の営業部の奴と久し振りに会い声を交わした。
「相変わらず若いな」彼はぶっきらぼうにそう言うと、そそくさとエレベーターに乗り込んでいった。あいつは変わってしまったなと、漠然とだが寂しさを感じてしまう。入社したての頃、いかにも慶応ボーイといった風体で清潔なエリート感が漂っていた。新人時代からバリバリに揚々と仕事をこなしていた。しかし、バブル崩壊後の化粧品不況の時代、営業に苦労してその輝きは失せ、疲労感と生活臭さ漂う中年となってしまった。髪は薄くなり体質は脂ぎってストレス肥り…時間の流れを彼を見ると感じてしまう。自分は大丈夫かな?と、エレベーター内のミラーで自分のチェックをしてみた。僕も白髪が増えてきたな…一抹の寂しさと老いへの恐怖を感じ、つい独り言が出そうになった。いかんいかん。これでは、俺も中年の仲間入りとなってしまうと身を引き締め、自分のセクションへと向かった。
「部長、おはようございます。」企画室に入ると、部下の女性社員が極めて明るく声を揃えた。部下は男が8人に女性が5人。自分を合わせると14人のスタッフである。この日も、いつもと変わらないメンバーたちといつもの朝を迎えていた。ぼくは、自分のデスクに座り、目の前に並ぶ未処理の書類に簡単に目を通していた。自分の携帯に幾度かの着信が有ることには気がついてはいたが、通常その殆どはくだらない内容のものであり、見ないことにしていた。妻から、帰りに牛乳買ってきてだとか、友人から今度、何時飲みに行くか?といった誘い程度のものだ。デスク上のパソコンで、業務を片付けて、メールチェックを終えて、やれやれと自分の携帯を開け、メールボックスを開いた。メールは、何通か来ていたが、その内の一通がユウイチからのものだった。
《緊急連絡》タイトルにはそうあったので、これはただ事ではないなと、急いで開封した。
《緊急連絡》ユウイチよりサトルへ。
ハワイツアーの新しい商品の企画を日本の大手旅行代理店と商談、契約することになり、10月の中旬に日本へ行くことになった。7日間(但し、実質の日本滞在は5日間)と、日程的には短い時間だが、その間に会えないだろうか?そして、出来れば1日2日時間をとって、日本を観光案内して欲しい。もう一人、エミーという腐れ縁の秘書兼、お目付け役の女性が同行するのだが、サトルは覚えているかな?以前サーフィンの後、シャワー浴びる為オフィスに立ち寄ったときに、サトルと話し込んでいたあの女性だ。彼女にとっては日本は初めてなので、日本らしい風景、とりわけ紅葉を観てみたいとリクエストされている。何処か適当な場所を案内して貰うと助かる。エミーは日本語ぺらぺらなので、会話には何ら問題もなく、仕事の上でも一番信頼出来る女性だ。但し、気が強いのが珠の傷なんだがね。本当は、俺一人で行ければ気が楽なんだが、社員皆が俺一人だと暴走し兼ねない、気が気でないと口を揃えるので、まあ仕方無く二人でということになったのだが、とりあえず宜しく頼む。日程は、決まり次第詳しく連絡するので。遅くても今週中に連絡する。中途半端で悪いけど早く知らせたかったので悪しからず。サトルと絶対逢いてー。」
僕は仕事中にも拘わらず高揚し、満面の笑みとなっていた。その、無邪気な変化は部下たちにも見られていて、
「何か有ったのですか?」と尋ねられ、僕は気恥ずかしく赤面した。
「いや、何でも…。大したことではないから。」そう答えたものの、心は踊った。
「ユウイチが、日本にやって来る!」
「ユウイチに、又逢えるんだ!」
是が非でも逢いたいと心が弾んだ。今は、確かに仕事は忙しく、そう簡単に休みは取れないが、昔と違って自らが最前線で飛び回っている訳では無いのだし、それにこの数年、有給休暇等とっていない。仕事以外で遠出も無いし、そういえば家族を旅行などにも連れていって無いなあ。そうだ!ユウイチたちと家族を一緒に何処かへ連れていこう。妻の由美子にも相談しようと思い立っていた。
夜になり、会社から帰宅すると、珍しく娘の優香里が玄関まで出迎えてくれた。どうやら夕食を食べずに待っていたようだ。会社からメールで妻に少し話したいことがあると、帰宅の予定時刻を知らせていたからなのだが、日頃とは違う行動に妻は何事かと思ったらしく、神妙な顔つきでいた。久しぶりに家族揃って食卓を囲む事になったのだが、着席してからも妻は、娘とも無言で僕をじっと見つめていた。
「あの、話って…」と由美子が口をきったので、僕が「実は…」と話始めると、妻は息を飲み身を硬直させ、席から乗り出すような姿勢になったが、ユウイチが、日本に来ることになり、皆で一緒に一泊で旅行に行かないか?と話を続けると、急に身体から力が抜けたのか、胸を撫で下ろして明るい顔となり、
「なーんだ!そうゆう事だったの。私はてっきり海外勤務でも命じられたのかと思ったわよ。」
「そんな事が今、有るわけないじゃないか。仕事のプロジェクトが進行している中で。」
「そうよね。無駄な心配して損しちゃったわ。今日の午後は生きた心地しなかったわよ!」
「そんな大袈裟な!。ところでさ、ユウイチさんが秘書の女性を一緒に同行して来日するらしいんだけれど、その彼女が日本が初めてなので、日本らしい風景、とりわけ紅葉が観たいらしいんだ。そこでさ、持て成しというか、案内役を由美子と、優香里にやってもらえないかなと思ってさ。家族揃っての旅行も兼ねてで。その相談をしたいと思ったのさ。」
「あらー、私も一度ユウイチさんて方に会ってみたいわ。それに、貴方と旅行なんて何年ぶりかしら?ましてや家族揃っての旅行なんて行ったこと有ったかしら?私は是非行きたいわ。優香里は、どお?」
「私もパパ逹と旅行行きたーい!でも、学校とか塾とか休めるのかな?」
「こういう時はちゃんとママからお休みさせて下さいって、連絡いれるから大丈夫よ!」
「わぁー!じゃあ私も行くー」
これで家族揃っていけると決まった。
「でも、あなた、会社の方は休み取れるの?」
「未だ、何も相談はしてないけれど、この何年か有休すら取ってないし、2日位は何とかなるさ。今では有能な部下たちも揃っているしな。」
「じゃあ決まりね。私も嬉しい!でも、出掛けるのは、何処が良いのかしら?」
「由美子は何処か行きたいところで思い当たる場所はないか?」
「そうねえ。一泊で行ける所よね。飛行機なら北海道とか出雲、能登金沢、新幹線でなら東北の奥入瀬十和田湖、会津、秋田の角館とか、長野、京都、奈良でも。近場だと鎌倉、箱根、日光て所かしら?」
「おいおい、まるで用意してたくらい次から次へ良く浮かぶなあ。」
「それはね、雑誌読む度に実際に行けなくてもイメージ膨らませていたもの。でも、紅葉となるとね、10月の中旬だと、長野の栂池は終わっているので志賀高原か、他だと尾瀬ヶ原、奥日光、会津辺りが丁度見頃なのかしらね?日にちにも依るけれど、日光なら、中禅寺湖湖畔とか戦場が原が綺麗かもね。東京からだと浅草か、北千住からなら東武特急でゆったり座って僅かな時間で行けるわね。」
「そうだなあ。日光かあ。修学旅行以来行ってないし良いかもなあ」
ここで、娘の優香里が反論した。
「えー!優香里は日光大嫌い!」
娘は今年の5月、修学旅行で日光に出掛けたのだが、初日は濃霧で戦場が原散策が中止に、華厳滝は、音だけで姿は見えず、二日目も土砂降りの雨の中、カッパを着たままで東照宮等を観て回り、散々な想いをしていたので、当然、良い印象など持っていなかった。
僕は、「優香里。修学旅行で観れなかった景色を、もう一度リベンジで見に行かないか?晴れてれば絵はがきの様な風景を間近でみられるかも知れないぞ!」と言うと、
「パパがそう言うなら、私も一緒に行く!」と言ってくれた。
「私も日光へは小学生の修学旅行以来行っていないわね。もう、何十年前の事かしら?優香里、ママもね修学旅行は、余り良い思い出は無いのよ。お昼のお弁当食べる予定だった戦場ケ原は、小雨が降っていて見学出来ずに三本松の駐車場のバスの中で食べたのよ。その上に、東照宮は、陽明門が「昭和の大改修」の工事中で、青色のビニールトタンで囲われていて何にも観れず。ママもね日光には悔いが残ったままなの。今回行ければ、私もリベンジが果たせることになるわね。」 …色々な思いの家族会議で行き先は日光と決まった。
数日後、ユウイチから詳しい来日の日程を知らせるメールが届いた。来日の日程の内、自由行動のとれる日にちも確定していた。しかしながら、意外と日程は詰まっているようで、その2日目も、夜は商談が有るようで、夕方までに都内に戻って来なくてはいけないとの事。実質的には現地滞在は昼食過ぎ迄が限度の様だった。僕は、当初は車で行くことも考えていたが、時間的な制約も有ることで、浅草から東武特急で日光に入り、そこからは2日間貸切りタクシーで廻ってもらうのが最善だと決めた。そして、その内容をユウイチに、メールで返信した。
「家族とも色々話し合った末、お二人を僕と妻、娘と伴に一泊2日で、丁度紅葉が見頃だと思われる日光へとご案内する予定でいます。都内から日光迄は電車で、現地では貸切りのタクシーで廻るつもりでいます。紅葉に囲まれた草原をウォーキングするので、歩ける身支度を、それとハワイと気候が大分違い、朝は、5℃位まで冷え込みます。防寒服を忘れずに!短パンタンクトップなんてもっての他ですからね!」
暫くすると、ユウイチから返信が来た。
「サトルと再び逢えることは仕事の事以上に楽しみにしている。それにサトルの家族にも逢えるんだな。エミーが電車に乗ったことが無いとのこと。そんな旅行が出来ることが夢のようだと言っている。確かにオアフ島には電車がないので。それと、日本の寒さってどんな感じなのかとしきりに俺に尋ねている。季節的に雪が降ることは無いだろうが、イメージを膨らませて今からはしゃいでいるよ。それと、お箸の使い方を今から練習しておくだってさ。もう、子供みたいなもんだな。
もちろん、来月の訪日は、俺も楽しみだ。日本に到着したら、直ぐにサトルに連絡入れるからな。12年振りの再開かあ。本当に楽しみだ。」
ユウイチも、そして僕も気分は高揚し、仕事に益々精を出していた。仕事の合間をぬってプランニングを立てた。電車やタクシーの予約。宿はそのタクシー会社の薦めもあり、中禅寺湖湖畔に建つ、老舗のホテルに決めた。海外からの旅行者にも、評価が高いとのことだ。ホテルに電話して、ハワイから2人来るが、その内の一人はアメリカ人女性で、日本が初めてだということ。それと、日本語は堪能であると伝えた。会社から有給休暇をもらう手続きや、娘の休校の許可も済んだ。娘は、クラスメイトから、羨ましがられた様だった。自分も、その日が来るのが待ち遠しい日々を過ごしていた。