歌を忘れたカナリアと、言葉を失った人魚
少女の頃からいつしか、彼女は好んで詩を作る様になっていた。
周囲の風景や自然の景色を眺めては、それらの様子などを美しい言葉に当てはめ白紙のノートに飾り立ててゆく。
その勢いは止まる事を知らず、次第にノートの数も増えていった。
この頃は、新たに覚える美しい言葉を見つけるのがとても楽しくて、ついにはそれだけでは物足りず、その時のイメージに合う曲までも作りそれに詩をあてがえ、完成した歌を自ら歌う楽しさも覚えていたのだった。
だが事は突然に、彼女は現実を知った。
それは真実の愛によって。
それを機に少女の世界は今までとまるで正反対にまで変わってしまったのである。
何故なら今まで生きてきた世界は、TV画面に映るニュースを通して知る醜い社会情勢や事件の多い現実から逃避する為に自ら無意識の内に築き上げていた、幻想が織り成す神秘なる夢の世界に過ぎなかったのだから。
慣れぬ世界に戸惑いながらも、少女はその世界の住人になろうと必死に現実はどうゆうものであるかを学び取ろうと懸命になった。
確かに現実を知った事で今まで幻想に逃避し守ってきた少女の心など、いとも簡単に人間社会とゆう刃でたちまちの内に数多くの傷を負わされていくだろう。
そして気が付くと彼女は、いつの間にか自分が少女から女になってしまっていた事を思い知る。
襲い来る現実の厳しさ。
苦しくて辛すぎて、そして時には切なくて悲しすぎて、きつくてたまらなくて。
そんな中でも唯一灯り続けようと必死に小さな輝きを放つ希望の光だけが、少女‥いや、女の支えとなり原動力だった。
それは幻想から現実へと引っ張り出してくれた真実の愛。
時にはその愛で癒され、慰められる。
今までこの世に生れ落ちて一度も味わった事のない初めての幸福感に酔いしれて、その愛を守る為ならば迷う事無く己が命を犠牲にしても構わない。
そうゆう意味では、もうこの愛ある限りこの世に恐れるものなど何もない気さえした。
例え友達を失おうとも、親兄弟と離縁しようとも、自分を励ましてくれるその愛さえあれば平気でいられる。
この愛さえあれば、もうあれだけ必死に追い求めていた夢や幻想もちっとも必要ではなくなっていた。
そう。あっち(幻想)が夢で、こっち(愛)が現実なら、もうこっちに身を委ねていた方が倖せ‥‥。
――だけどそれ(愛)だけが現実とは限らない――
“真実”とは、あらゆる残酷さも折り重なって“現実”となる。
それが愛で始まって残酷に終わるのか、残酷に始まって愛で終わるのかのどちらかで、その者の真の現実は決定するのかも知れない。
こうして彼女は夢や幻想を捨てる事によって、当然美しい響きの言葉探しも、それを飾り立てる詩を書く事もやめてしまったのである。
やがて日一日と経ってゆき、月日は流れ、年月が過ぎ去った。
――気が付くと、あれだけ命をかけて守り続ける程何よりも大切だった筈の愛に、女は拘束され自由を奪われている事に気付いた。
自分の思い通りに歩き回ったり、時間やお金を使ったり、自分を磨く為にオシャレに気を使ったりの一切が禁じられ、その愛が決定したままの行動しか取れなくなっていた。
不満を覚え抗議すると暴言暴力によって押さえつけられ、彼女からの何気ない会話も次第にその愛は厳しく否定し冷たくあしらう様になり、その愛が語る言葉をただ黙って聞いている事しか許されなくなっていた。
とうとう女は、会話の自由さえも奪われてしまっていたのだ。
この愛を貫く為に全てを手放してまで守り大切にしていた筈が、今ではその愛が向ける刃の様な異常なまでの束縛に苦痛でしかない。
必死に逃げ道を探そうにも、この今となっては異常で苦痛でしかない愛の為に全てを捨ててしまって、望みなど何処にも在りはしない。
何時しか彼女は、その愛にとって都合の良い奴隷でしかなくなっていた。
やがて長い間話す事も諦めてしまったせいで、気が付くと以前と比べてそのほとんどの術を忘れ、当然その為に会話する知識も低下していた。
こうして女は愛と引き換えに詩を忘れ、愛によって言葉を失った‥‥。
屈辱と劣等。後悔と混乱。
不信感と無気力。罪悪感と嫌悪感。
虚無感と喪失感。そして――孤独と絶望――
人は自分を見失った時最早そこに在るのは狂気でしかなくなり、やがてそれさえも超えてしまった時とゆうのが、廃人と呼ばれる存在になるのだろうか。
この愛を捨て、自由を取り戻さない限りもう二度と、
―――カナリアは詩を歌わず、人魚は心の言葉を語らない―――