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冬の終わり

 舞台の幕が下り、楽士を照らす灯りも消えました。創作劇『冬の女王』は、終わったのです。倒れていた人々がゆっくりと起き上がります。皆が心配そうな、そして緊張した面持ちで冬の女王様を見ています。冬の女王様は、舞台が終わった後も、両手で顔を覆ったまま、一言も発しませんでした。

 人々は皆、黙って冬の女王様の言葉を待っていました。長い長い沈黙の後、覚悟を決めたように、アリーシャは冬の女王様に言葉を掛けました。


「……後悔、していました。貴女に、助けを求めるべきではなかった。私たちの『助けて』という言葉が、貴女を縛り、苦しめてしまった。死に怯え、終わりを拒む私たちの弱さが、貴女を孤独にしてしまった。終わることなく偽りを演じ続ける日々を、貴女に押し付けてしまった」


 苦悩に満ちたアリーシャの声に、冬の女王様は答えませんでした。しかし、細くかすれた小さな声で、冬の女王様は呻くように問いかけました。


「……どうして、気付いた」


 穏やかな、よく通る声で、王様が答えます。


「最初は、ほんの些細な違和感でした。毎日行っている祝祭が今日は何回目なのか、分からなくなっていた。一体いつから冬が終わらなくなったのか、どのような経緯で毎日祝祭をすると決めたのか、思い出せなくなっていることに気付いたのです」


 王様の言葉を継いで、ボブが話し始めます。


「一つ気付くと、他のことも見えるようになるもんです。そういえば、食べ物が全然減ってねぇな、とか。暖炉にくべる薪も、まだいくらでもある、とか。お祭りが毎日あって、何百回と続いてるんなら、食べ物も薪も、とっくに尽きてるはずじゃないか、なんて」


 ボブの次は、カレン婆さんが話を引き継ぎます。


「すべてを思い出したのは、羊小屋を見た時です。冬の間は羊小屋にいる羊たちの世話をしなきゃならないのに、ワシらはそれをすっかり忘れておった。ワシらは慌てて、羊の様子を見に行きました。羊たちはもう死んどった。肉も皮もなく、骨だけになって」


 カレン婆さんと視線を交わして、アリーシャが言葉を続けました。


「羊たちの死に触れて、私たちはすべてを思い出した。あの日、私たちは確かに死んだのだということを。そして冬の女王様、貴女が私たちのために、何をしたのかということも」


 王様は冬の女王様のほうに一歩近づいて、優しくなだめるように言いました。


「もう、よいのです。我らの骸はとうの昔に朽ち果てました。貴女が独りで私たちの弱さを背負うことはない」


 冬の女王様は顔を上げ、王様に問いかけました。


「死が、恐ろしくはないのか?」


 王様は微笑みを浮かべ、しっかりとした口調で答えます。


「恐怖を乗り越える時間を、貴女は与えてくださった」

「やり残したことは、もうないのか?」

「もはや何一つ、思い残すことはございませぬ」


 王様ははっきりと、そう答えました。しかし、冬の女王様は嘘だと思いました。皆それぞれに、夢や、希望や、思い描く未来があったはずです。それを突然に断ち切られて、納得できるはずもありません。それでも人々は、冬の女王様に『思い残すことはない』と言いました。冬の女王様は軽く息を吸うと、意を決して王様に問いました。


「……もう、私は、必要ないのだな?」


 王様の瞳が、わずかに揺らいだように見えました。しかしすぐに、王様はしっかりと冬の女王様の目を見据えて言いました。


「はい」


 この国のすべての人々が、王様の言葉に大きくうなずきます。冬の女王様は人々の顔を見渡すと、


「そうか」


 そう言って、厚く雲に覆われた空を仰ぎ、泣いた顔で微笑んで、ぽつりとつぶやきました。


「それは、寂しいなぁ」


 空からひとひらの雪が降りて、冬の女王様の右目の下に当たりました。雪は水滴に変わり、冬の女王様のほおを流れ落ちて、そして冬の風にさらわれて消えていきました。


「終わらぬ冬などあってはならない。ゆりかごの安らかな眠りから目覚め、新たな芽吹きを迎える時が来たのです」


 王様は、冬の女王様の視線の先に目を向けました。この厚い雲に覆われた空の先に、魂の還る場所があるのです。しばらく空を見つめた後、王様は冬の女王様に視線を戻して、こう言いました。


「もう、終わりにしましょう」


 冬の女王様もまた、王様を見つめました。しばしの沈黙の後、冬の女王様は王様に軽くうなずきました。


「わかった。お前たちの言うとおりにしよう」


 冬の女王様が右手で空を払うと、空を厚く覆っていた雪雲が割れ、暖かい陽の光が人々を照らしました。光を浴びた人々は、少しずつ、その形を失っていきます。


「天への道は開かれた。どうか迷わずに、進みなさい」


 その言葉を聞いて我慢しきれなくなったように、アリーシャは冬の女王様に駆け寄って抱き着きました。


「私、女王様のことが大好きです! きれいで、優しくて、ちょっぴり意地悪で、いつもみんなを想ってくれる冬の女王様が、大好き!」


 冬の女王様もまた、アリーシャの身体を強く強く抱きしめました。皆の身体が徐々に光を帯び、輪郭はぼやけ、透き通り始めました。王様は確信に満ちた声で冬の女王様に言いました。


「これでお別れとは思っておりません。生まれ変わりというものがあるならば、私たちは必ずや、再び会いにまいります。だって私たちは皆、貴女が大好きなのですから」


 ついに人の形を失くし、無数の光の粒となって、人々は空へと昇っていきました。腕の中にあった温もりがフッと消えて、冬の女王様は膝をつき、自分の肩を抱いて俯きました。陽光が都の姿を照らし出します。そこにあるのは、崩壊し、森に飲まれてしまった、廃墟でした。すべては冬の女王様が作り出したまぼろし。偽りはほころび、真実を受け入れる時が来たのです。

 どれほどの時間が経ったのでしょう。冬の女王様はふと、目の前に誰かの気配を感じました。顔を上げると、そこには楽士の青年の姿がありました。


「お前は……どうして?」


 楽士は穏やかに微笑むと、優しい声で答えます。


「私はこの国の人間ではありませんから」

「外への道は私が閉ざしていたはず。どうやってここに?」

「招かれたのですよ。この国の人々に」


 楽士はそう言うと、懐から一枚の紙を取り出しました。そこにはこんなことが書いてありました。


『冬を終わらせることができた者には好きな褒美を取らせよう。

 ただし、冬の女王が次に廻って来られなくなる方法は認めない。

 季節を廻らせることを妨げてはならない』


「旅の途中で道を歩いていた時、これがひらひらと目の前に落ちてきまして」


 右手で紙がひらひら落ちてくる様子を再現している楽士に向かって、冬の女王様は申し訳なさそうに頭を下げました。


「すまぬ。私にはお前に与えられるような価値あるものを、何も持っていない」


 楽士は軽く首を振って答えます。


「いいえ女王様。私は褒美が目当てでここに来たのではありません。この紙に書かれた言葉の内容に興味を持ったのです」

「興味?」


 怪訝そうに顔を上げた冬の女王様にうなずいて、楽士は楽しそうに言いました。


「冬の女王が次に廻って来られなくなる方法は認めない。そう書かれているでしょう? 冬が終わらず、困り果てているはずの人々が、その原因である冬の女王の身を案じている。冬の女王に危害を加えるようなやり方は認めないと言っている。冬が終わらなければ、命にだって関わりかねないはずなのにね。一体どんな事情があるのか、とても興味をそそられたのです」


 楽士から手渡された紙を、冬の女王様はそっと胸に抱いて目を閉じました。楽士はかつて都だった廃墟を眺めながら言葉を続けます。


「貴女が閉ざした道をこじ開けて、この紙は私に届いた。人の想いは強い。貴女を想う皆の心が、私をここに連れてきてくれたのです」


 冬の女王様もまた、目を開いて廃墟を見つめました。そして、誰に聞かせるでもないように、ぽつり、ぽつりと話し始めました。


「私は、冬をもたらすという、ただそれだけの存在だ。人ではない。人にはなれぬ。心さえ、本当に持っているわけではないのだろう。私は自然の働きの現れに過ぎん。だが……」


 はるか遠い昔に思いをはせるように、冬の女王様は遠くを見つめています。


「この姿のせいだろうな。人は、私に話しかけてくれるんだ。自分の話。家族の話。そして、私の話を聞こうとする。最初は、無意味だと思っていた。相手を知ってどうする。相手に知ってもらって、それに何の意味がある。でも、いつの間にか、私は楽しいと思うようになった。皆が喜ぶとうれしいと思うようになった。辛そうにしていると悲しくなった。幸せであってほしいと、願うようになった。私は人に、心をもらったんだ」


 冬の女王様の視線の先にあるものを思いながら、楽士は静かに話を聞いていました。


「私は冬の女王にふさわしくないのかもしれん。私がやったことは、自然の秩序を乱し、皆の魂を無理に地上に留め、命のあるべき姿を歪めてしまっただけだ。結局私は、寂しかったんだ。皆と離れたくなかった。私は私のわがままに、皆を巻き込んでしまったんだ」


 楽士は冬の女王様の横顔を見つめ、そして言いました。


「冬の女王様は貴女ただお一人。ならば、貴女のなさることこそが、冬の女王様にふさわしいことなのです。貴女は皆を愛した。それこそが、冬の女王にふさわしいことなのです」


 冬の女王様は何も答えず、じっと遠くを見つめていました。楽士もまた、何も言わず、景色を眺めていました。そうしてしばらくの時間が過ぎたころ、楽士は突然何かを思い出したように、冬の女王様に話しかけました。


「そうそう実は、私はすでに王様から褒美を頂いているのです」


 楽士はそう言うと、冬の女王様にまっすぐ体を向けて居住まいを正しました。


「王様は、私に冬の女王様専属の楽士という栄誉をお約束くださいました。つまり私はすでに貴女様の楽士なのです。これから私は常に貴女様のお傍にあって、古今東西あらゆる名曲で貴女様のお心を楽しませて御覧に入れましょう」


 楽士は冬の女王様に、芝居がかった様子で一礼しました。冬の女王様はフンと鼻を鳴らすと、限りなく冷たい目をして突き放すように言いました。


「お前の下手な歌などいらぬ。眠たくなって仕方ないわ」


 楽士は驚愕に目を見開くと、


「そ、それはあまりにご無体なお言葉」


 そう言って自分の歌のレパートリーの豊富さや、劇場で喝さいを浴びた過去の栄光や、持っている手琴が有名な職人の手になる名品であることなどを一生懸命説明し始めました。しかし冬の女王様はまるで関心がなさそうにそっぽを向いています。


「……ということなんですよ。ちょっと、聞いてますか? 女王様」

「ああ、すまん。まったく聞いてなかった」


 まるで楽士がしゃべっていることに今気づいたように、冬の女王様は答えました。楽士はがっくりと肩を落とし、何か小さな声でぶつぶつと文句を言い始めました。そんな楽士の様子に少し笑って、冬の女王様は言いました。


「誰かの作った歌などいらぬ。だから歌を作っておくれ、私のために。私が愛した、優しい人たちの歌を」


 冬の女王様のその言葉にパッと顔を上げると、楽士は任せておけとばかりに胸を張って答えました。


「作りましょう。貴女様のために。貴女を愛した、優しい人たちの歌を」


 透き通るように微笑んで、冬の女王様は歩き始めました。その後ろを、楽士が慌てて着いていきます。気の早い春告げ鳥が、歩く二人の背を追い越して飛んでいきました。


 冬は、終わったのです。


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