午後の部3
舞台の灯りが一斉に消え、再び楽士をスポットライトが照らします。楽士は穏やかな語りで劇の進行を続けます。
「冬は毎年やってくる。今年もこれまでと同じように、穏やかに冬が巡っていく。誰もがそう思っていた。冬の女王様も、この国の人々も、みんな」
暗くなった舞台の上で、背景セットが慌ただしく組み替えられていきます。再び舞台が灯りに照らされたとき、背景セットは始まりの時と同じように、都の大通りの風景になっていました。冬が少し深まったのか、始まりの時に比べて雪が多く積もっています。
「今日も冬の女王様は、街の様子を見るために季節の塔を抜け出した。みんなの風邪は治ったかな? 子供たちの踊りは上達しているだろうか? そんなことを考えながら」
舞台の中央には、小麦粉を詰めた袋を載せた荷車に体を預け、目をつむって苦しそうに息をする粉屋のボブの姿がありました。舞台の右袖から現れたアリーシャ演じる冬の女王は、ボブの様子に気付くと、慌てて駆け寄って声を掛けます。
「おい、しっかりしろ! いったいどうしたというのだ!」
アリーシャ演じる冬の女王の声に、ボブはうっすらと目を開けると、
「……ああ、冬の…女王様……。めんぼくの……ねぇ…ことで……」
そう言って、ゴホッゴホッと苦しそうに咳をしました。
「そんな状態で働くやつがあるかっ! 医者に連れて行ってやる。肩を」
肩を貸そうとしたアリーシャ演じる冬の女王を押しとどめて、ボブは激しくせき込みながら、絞り出すように言いました。
「ヨメも…寝込んじまって……働かにゃ……アイツを……医者…に……」
ボブの身体から力が抜け、ぐらりと倒れこみます。アリーシャ演じる冬の女王は慌ててボブの身体を抱きとめました。ボブはうわごとのようにつぶやきます。
「……死ぬ…わけには……一人……残し……助け…て……」
ボブは目を閉じ、口を閉ざしました。アリーシャ演じる冬の女王は必死にボブに呼びかけます。
「しっかりしろ! 返事をしろ! ボブ!」
アリーシャ演じる冬の女王の呼びかけに、ボブが返事をすることはありませんでした。アリーシャ演じる冬の女王はボブの身体を抱いたまま、呆然とつぶやきました。
「なぜだ? どうして……」
舞台の灯りがまた一斉に消え、楽士の姿がスポットライトに照らし出されます。
「ボブの遺体を横たえ、冬の女王様は街の中心部へと走り出した。そこで冬の女王様が見たものは、にわかには信じがたい光景だった」
背景セットが組み替えられ、再び灯りが舞台を照らすと、舞台の上に街の中心部が現れました。舞台の中央にはアリーシャ演じる冬の女王が口に手を当て、信じられないという表情で目を見開いています。その視線の先には、地面に倒れ伏すたくさんの人の姿がありました。アリーシャ演じる冬の女王は倒れた人に駆け寄り、声を掛けます。
「おい、しっかりしろ! しっかり!」
アリーシャ演じる冬の女王の声に応える者は誰もいません。倒れた人の首筋に手を当てると、アリーシャ演じる冬の女王は俯き、唇を嚙みました。
「誰か! 誰かおらぬか! いたら返事をしてくれ!」
アリーシャ演じる冬の女王は大きな声で周囲に呼びかけます。すると、舞台の中央でガサリと音がしました。アリーシャ演じる冬の女王は音がしたほうに駆け寄ると、倒れていた老婆を抱き起して叫びました。
「カレン! しっかりしろ! カレン!」
カレン婆さんはうっすらと目を開けると、普段からは想像もつかないか細い声で言いました。
「……これは…冬の…女王様……」
「しゃべらなくていい! 今、医者に連れていく! それまで頑張れ!」
カレン婆さんは小さく首を横に振ると、苦しそうに息をしながら、
「医者は……もう…おらん……ワシ…は……ここ…まで……」
と言って、激しくせき込みました。アリーシャ演じる冬の女王はカレン婆さんの手を取り、
「何を弱気な! 百五十まで生きると、言っておったではないか!」
命をつなぎとめるように、必死に呼びかけます。カレン婆さんは少しだけ笑って、弱々しくアリーシャ演じる冬の女王の手を握り返すと、
「ワシ…は……充分……女王様……子供…らを……どうか……」
そう言ったきり、目を閉じました。
「……カレン……!」
カレン婆さんの身体を強く抱きしめたまま、アリーシャ演じる冬の女王は冷たい地面に膝をついて身をかがめました。
舞台の灯りが消え、楽士の姿が光に浮き上がります。楽士は感情なく物語を紡いでいきます。
「カレン婆さんの身体から手を放し、冬の女王様はお城へ向かって走り出した。王様なら、この異常な事態の原因も、対処の方法も知っているかもしれない。何も分からず、何もできない自分のふがいなさに歯噛みしながら、冬の女王様はお城へと急いだ」
灯りが舞台を照らし、舞台上にお城が現れました。何人もの兵士たちが、ピクリとも動かず地面に倒れています。舞台の中央に、膝をつき、王錫を両手で持って身体を支えている王様がおり、アリーシャ演じる冬の女王は王様が倒れぬよう手を貸しています。
「いったい何があった? 何が起こっているんだ!」
王様は力なく首を振り、絞り出すように答えました。
「……分かりませぬ……最初は…ただの……風邪かと……」
辛そうに咳をしながら、王様は言葉を続けます。
「薬も…効かず……医者も倒れて……原因も、分からぬ……」
王様の身体から力が抜け、王錫が手から離れました。支えを失い、前に倒れこもうとする王様を、アリーシャ演じる冬の女王が抱きとめて支えます。王錫がゆっくりと倒れ、カシャンという音が舞台に響きました。
王錫が倒れた音を聞いた瞬間、冬の女王様は、呪縛から解き放たれたかのように椅子から立ち上がりました。
「もうよい、やめよ!」
鋭く怒気をはらんだ声で冬の女王様は叫びます。舞台上のアリーシャと王様は動きを止め、緊張した面持ちで冬の女王様に視線を向けました。
「これはいったい何のつもりか! このような悪趣味な劇で私が喜ぶとでも思っているのか! 不愉快だ。私は帰らせてもらう!」
舞台に背を向け、立ち去ろうとする冬の女王様を、王様は必死に呼び止めます。
「いいえ女王様! どうか、どうか最後まで続けさせてください! これは、この国に住む者たちの、総意でございます!」
舞台にいる者たちだけでなく、観客も、国中の人々が冬の女王様を見つめています。冬の女王様は皆の顔を見渡すと、少しの間目を閉じ、ゆっくりと息を吐いて目を開きました。冬の女王様は今まで誰も見たこともないほどに厳しい顔をしていましたが、立ち去ることはせず、審査員席に戻りました。観客の間から安堵のため息が漏れ、舞台は再開しました。
「しっかりしろ! お前は王であろう! 王が民を救わずしてなんとする!」
苦しげな中に苦笑いを浮かべて、王様はとぎれとぎれの言葉を並べました。
「……これは……手厳しい……これ…でも……頑張って…いる……の…です……よ……」
そして王様は、真剣な表情でアリーシャ演じる冬の女王の手を強く握ると、命を振り絞るようにしてささやきました。
「無事な…者…を…連れ……国を……出よ……!
症…状の……ある…ものは……見捨てよ……!
もう…貴女に…しか……頼めぬ……」
アリーシャ演じる冬の女王の手を握っていた王様の手が、だらりと力なく下がりました。アリーシャ演じる冬の女王は命の温もりを身体に閉じ込めるように強く抱きしめると、王様に何度も何度も呼びかけ続けました。
「気をしっかりと持て! お前は死なん! 死んではならん!」
死んではならん、と繰り返すアリーシャ演じる冬の女王に、しかし王様の返事はありませんでした。アリーシャ演じる冬の女王の声は少しずつ小さくなり、やがて嗚咽へと変わりました。アリーシャ演じる冬の女王の両の目から涙があふれます。しかしアリーシャ演じる冬の女王は、もう一度だけ王様を強く抱きしめると、その亡骸を横たえ、乱暴に涙をぬぐって、決然と立ち上がりました。
「まだやらねばならんことがある。まだ、できることがある……!」
自らを鼓舞するようにつぶやいて、アリーシャ演じる冬の女王はお城を後にしました。
舞台の灯りは消え、楽士が光の中に現れます。楽士は劇の最初から変わらず、落ち着いた、よく通る声をしています。
「冬の女王様は無事な者、命ある者を探して、国中を駆けまわった。王様の最後の言葉を叶えるために。しかしそれは、自らの心を絶望に塗りつぶしていく旅だった。多くの者がすでに息絶え、わずかに生き残った者もまた、女王様の腕の中で死んでいった。この国にもはや無事な者など、一人もいなかった」
楽士の言葉を受けて、客席にいた人々が一人、また一人と倒れていきました。苦しい、死にたくない、助けて。そんな声がいろいろな場所で上がり、そして、やがてまた静かになりました。見渡す限り、倒れずにこの場にいるのは、冬の女王様と、舞台にいるアリーシャだけになりました。
また舞台に光が戻りました。セットはとある民家を再現したものに変わっています。舞台の中央には、アリーシャの姿がありました。アリーシャは、冬の女王の衣装ではなく、普段着と同じ服装をしていました。
「私はこの国の、最後の生き残りでした。周りの人が次々と倒れていく中、私は恐怖に怯え、為すすべもなく震えていました。ただただ、恐ろしかった。だから、冬の女王様が私を見つけてくれた時、私は、こう言ってしまった」
アリーシャは舞台の上からまっすぐに冬の女王様を見つめると、
「……怖い。死にたくない……女王様、助けて……!」
そう言って、ドサリと床に倒れました。舞台を照らす灯りは消え、楽士の姿だけが舞台に残されました。
「もうよい……もう、やめてくれ……」
冬の女王様は俯き、両手で顔を覆いました。楽士は淡々と、言葉を紡ぎます。
「この国に住むすべての者がことごとく死に絶えた。それは最初の一人、ボブが死んでから、わずか十日余りのことだった」
舞台上ではもはや何も動かず、何の音も聞こえては来ません。唯一響く楽士の声に温もりはなく、かえって重苦しい静寂を強調しているようでした。
「自らは病を得ることも、死ぬこともない女王様の耳には、死を前にして怯える人々の声が、思い描く未来を閉ざされた人々の声が、そして助けを求めて冬の女王様にすがる人々の声が、響いていた。冬の女王様は誰一人救うことのできなかった己を呪い、責めた。アリーシャの亡骸を抱いたまま、まるで時間が止まったかのように、冬の女王様はただ宙を見上げていた。そして丸一日が過ぎたころ、冬の女王様は自分が人々のためにできることを思いついた。
死者の魂は二週間、地上に留まり、その後で天に還る。ならば厚い雪雲で天への道を閉ざし、死に怯える魂を地上に留めよう。この忌まわしい十日間の記憶を氷に閉ざし、人々に自らの死を思い出せぬようにしよう。冬の女王たる私がこの国に留まり続ける限り、人々が死を迎えることはない。死に怯え苦しむことはない。
こうして、この国の冬は終わらなくなった。自然の理を歪め、自らの役割を放棄して、冬の女王様はこの国に留まり続けている。彼女の愛した人々のために」