パターンB
子供の頃から、些細なことが気になって仕方がない性格だった。
ガスの元栓は締めただろうか、とか、向こうの部屋の電気は消しただろうか、とか。そして今日もそんな些細な疑念に囚われ、私はオフィス街の真ん中で立ち尽くしていた。
…部屋の鍵は、ちゃんとかけてきただろうか?
こんな具合だ。こういうことが、私は一度気になりだすと不安になって仕方がない。
誰もが一度は、同じ経験をしたことがあるかもしれない。強迫観念とか、強迫性障害と呼ばれるものらしい。潔癖症やものを捨てられない性格もこれに当たるようだ。
信号が青になって人々が流れだしても、私はしばらく点字ブロックの上に立ったまま考え込んでいた。鍵を閉めたか、閉めなかったか?人に話せば笑われてしまうような些細な問題だが、私にとっては重大な悩みだった。必死に記憶を掘り返す。かけたかもしれないし、かけなかったかもしれない。いや、かけた記憶は微かにあるのだが…それが果たして今日の記憶だったかどうか、定かではない。
私は腕時計を見やった。予定の通勤列車が出発するまで、あと20分だ。私の住む裏野ハイツまでは、駅まで徒歩7分。今から走って戻れば、何とか間に合う距離だった。
私は迷った。ギリギリの出勤で、会社に遅刻するのは嫌だ。この齢にもなって、「鍵がかかっているか不安でした」なんて言えるわけもない。だが…このまま有耶無耶にして出勤してしまえば、ずっと不安な気持ちを抱えて仕事をこなさなければならなくなる。後18分。長針が12の文字盤を過ぎたところで、私は急いで踵を返した。
全く、自分でもこんな性格が時々嫌になる。それでも私は、何かに取り憑かれたかのように足を動かした。いつもと同じだ。どうしても、確認せずにはいられないのだ。
「はぁ…はぁ…」
裏野ハイツに辿り着くと、私は息を整えながら自分の住む101号室へと近づいた。ハイツの周りは静かなもので、出かけているのか他の住人の気配はない。慎重にドアノブを回すと…ガチン、と鈍い音がして、それ以上ドアは開かなかった。
「何だ…」
私はホッと息を落とした。やっぱり、鍵はかけていたのだ。良かった、確かめに来て正解だった…そう思った瞬間。ふともう一つの疑問が私の頭をよぎった。
…もしかして、鍵は本当はかけ忘れていて、後から中に入った誰かが鍵をかけたんじゃないか?
…そんなはずはない。だけど、もしそうだったら、閉め忘れなんかよりよっぽど大変なことになる。実際、鍵はこうして閉まっている。だけど、もしそれが自分の手によるものじゃなかったら?
…私が鍵を閉め忘れたせいで、中に誰か侵入者がいるかもしれない。
「まさか…そんな」
途端に、ドアノブを持つ手が震えた。考えすぎだ。被害妄想に過ぎない。だけどそう思えば思うほど、不安が胸を込みあげてくる。私は時計を見た。後11分。今から引き返せば、遅刻せずに済む。扉に背を向け、駅へと数歩進んで…私は立ち止まってハイツを振り返った。ダメだ。やはり…ダメなものはダメだ。
結局、私は101号室の前にいた。
もし本当に私の不安が正しいなら、この音ですでに中の人間には私が帰ってきていることはバレていることになる。ドアの向こうで誰か待ち構えていないかと慎重に、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。目の前に、出勤前に見た光景が飛び込んできた。テーブルの上に置かれた飲みかけのペットボトルもそのままだ。幸い、家具の位置も出かける前と何ら変わりはなさそうだった。
しかし、私は油断することなく、さらに警戒を強めながら奥へと進んだ。向かいの部屋は洋室になっており、物置も設置されている。もし侵入者がいるとすれば、そこが一番怪しかった。私の思い過ごしであってくれ…そう願いながら、恐る恐るドアを開け、奥の部屋を見渡した。
…ここにも、荒らされたような後はない。お気に入りのCDも本棚もそのままだ。私は部屋の隅に置いていた机を確認した。引き出しの中の通帳や金券類も無事だった。ひとまず胸を撫で下ろす。
…やはり、取り越し苦労だったか。私は椅子に座り込んだ。それなら、それに越したことはない。しかし、これでもう会社には間に合いそうになかった。一体どう言い訳しようか…まさか「鍵をかけているかどうか不安になってしまいました」なんて言うわけにもいくまい。そんなことを考えていた、その時だった。
後ろから視線を感じ、私は慌てて振り返った。
そこにあったのは、物置だった。部屋の壁際に位置する物置は、スライド式のドアが少しだけ開いていて、中からどんよりとした暗闇が漏れていた。
…まさか、この中に?
ごくり、と唾を飲み込んで、私はゆっくりと物置に近づいていった。不安が当たらないことを祈りつつ、隙間の空いた物置に手をかけた、正にその時だった。
ガチャガチャガチャ!!
と、大きな音がして、向こうの部屋から玄関が開かれる音がした。私は思わずその場で飛び上がった。
「…あれ?おかしいな、鍵はかけたはずなのにな…」
ドアを挟んだ向かいのキッチンルームで、男の声がする。この部屋の「同居人」…101号室の本来の住人が、帰ってきたのだった。やはり、彼は鍵をかけていたのだ。まさか最後の最後で、私がかけ忘れてしまうなんて…。私は慌てて物置から軒下に潜り込み、彼に気付かれないように『寝室』へと戻った。