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リップスティック。

 お姉ちゃんに連れられて私たち一向は神社に向かって歩き出す。


 その道すがら私は一昨年暮れの自分の選択を後悔していた。

 お正月を前にお姉ちゃんが着物を買ってくれると言ったとき、私は着物なんていいからブーツをかってくれと頼んだ。

 着物なんてそんな年に一度しか着ないようなものより、普段何度も履いていけるかわいいブーツの方がいいにきまっていると思ったからだ。

 確かにブーツはかわいかったが、ブーツの代わりになる靴はいくらでもある。それこそコーディネート次第でどうとでもなる。

 しかし、着物だけはそうはいかない。

 私が今着ている着物、これは私が八歳のときに買ってもらったものだ。

 黄色の布地に、何だかわからない花に混じってさくらんぼやりんごが散らばっている。

 大判のショールで隠してはいるが、お姉ちゃんも含めちゃんとした柄の着物を着ている中で私だけが浮いているのではないかと気になって仕方ない。

 そして八歳から成長していない自分の体にもがっかりだ。

 女子としてそろそろヤバイ。

  

「いや、でも、これはやっぱ学校の奴らと出くわしたらヤバイって」


 そして花咲は花咲で別のヤバイを気にしていた。

 男子として学校生活を送っている花咲にとって、この姿を学校の人間に見られることを恐れているわけなのだ。

 そもそも、そんなものはいつまでも隠し通せるものでもないのでもういい加減カミングアウトしたらいいのだ。

 タオル一本巻きで胸を押さえ付け、上着で隠してはいるものの、そろそろ限界に近い。

 この間学校で「これは筋肉だ」とか言ったはいいが、男子仲間から見せてくれ、触らせてくれといってたじろいでいるのを見かけた。

 私なんて腹が胸の出っ張りに追い付きそうだよ……。

 何この永遠の幼児体型。

 もしかして第二次性徴期って都市伝説なんじゃないの?

 ってか、私女子じゃないの?

 もう胸出ないならせめてお兄ちゃんくらい美しいボディラインになりたいよ……。

 ってか、お兄ちゃんは本当に男の子なの?


「大丈夫だよぉ。絶対見られたって花咲さんだってわかんないよぉ。花咲さんすっごくきれいだもん!」


「いや、それセイラに言われてもなぁー」


「ええ、ボクなんか全然だよぉー。花咲さんはねぇ、美人さんで、お姉さんみたいで、女優さんみたいだよぉ!」


「いや、それを言うならセイラはお姫様みたいだ」


「そ、そんな、花咲さんの方がずっともっとすっごくお姫様だよぉ!」


 そんな具合に私の目の前で二人で、二人だけで大いに盛り上がる。

 今私ものすごい勢いでモブ化しようとしてる気がする……。

 ここは、


「いや、でも二人とも本当にきれいだねー」


 一段下から持ち上げて輪の中に入り込むのが、女子のセオリーだ。

 こうやって入ると向こうもこちらを引き上げざるを得ない。


「え、セリカちゃんも普通にかわいいよぉ」


「ああ、何か団子屋の看板娘って感じだな」


 ダメだ。

 二人とも女子のセオリーと関わったことのない人間だった。

 にしてもひどい。

 ってか、お兄ちゃん「普通」って……。


「あ、花咲さんちょっと待って」


 そういって花咲を立ち止まらせると、お兄ちゃんはその顔をまじまじと見つめる。


「花咲さん、唇乾燥してる?」


 言われて見てみれば、花咲の唇が白くなっていた。


「ああ」


 そう返事をすると花咲は唇を舐めて、これでいいだろと言った。

 さすが男子脳。

 乾燥→舐めて濡らす→OKという構図らしい。


「ダ、ダメだよ花咲さん。もぉー」


 そう言うと、お兄ちゃんはぶら下げてあった巾着の中からリップクリームを取り出し、スティックを捻るとその先端にをはぁーと息を吹きかける。

 私が不思議そうにその様子を見ていると、 


「寒い時はねぇ、クリームが固くなってるから少し温めて柔らかくしてあげるといいんだよぉ」


 そう言って、もう一度はぁーとリップに息を吹きかける。

 へぇー。

 女子力高ぇー。 

 女子の私でも知らないことを、このかわいこちゃんはよく知ってる。


 ってか、お兄ちゃんのぷるぷるリップが乾いてるとこなんてみたことないんだけど、それもリップクリームをうまく使ってるからなのかしら?

 そんなことを考えながらぼんやりと眺めていたが、お兄ちゃんが花咲に少し屈むようにいったところで、ようやく私は自分の目の前でとんでもない展開になろうとしていることに気づく。


「ちょっと待った!」


「セリカちゃん?」


「お兄ちゃん、それ、その、花咲にぬ、ぬる、塗る、の、かな?」


「え? あ、うん。そうだよ。だって花咲さんの唇乾燥してるから」


「わ、私も。私も乾燥してる!」


「えぇー、セリカちゃんは大丈夫そうだよぉ?」


 そう言って私の顔を覗き込んでくるお兄ちゃん。

 その唇はたっぷりの水分を蓄えていて、朝日にきらりと輝いている。

 このままこの顔を両手で挟んで、吸いつきたい。

 お互いの唇が乾かないようにチュッチュッしながら歩いたらいいじゃない。

 いや、今はそんなことより、この唇に触れたリップが花咲の唇に触れるなんて絶対に許せない!

 しかもお兄ちゃんの吐息をあんなに丹念に温められたやつだよ!


「か、乾燥してるから! 私、今超乾燥してるから! 先に貸して!」


「ええー、花咲さんの方が……」


「お願いします! 貸してください! 花咲、花咲も私が先でいいよね! ね!?」


 もうこれでダメなら土下座をしてでもお願いしようと思っていた私の熱意に、やや引き気味に花咲がああと頷く。


 「じゃあ、はい」とお兄ちゃんが差し出してくれたリップを私は両手で受け取る。


 そして寒さとは関係なく震えそうになる手で、リップを口元まで持っていく。

 ス、ストロベリーだー!

 これストロベリーのフレーバーのやつだー!

 お兄ちゃんこんなの使ってるの!

 どこまででおいしくなるの!?

 

 ゆっくりと唇にリップを押し付けるとほんのり温かい気がした。

 この先端の柔らかさがお兄ちゃんの吐いた息によって溶かされたものだと思うと、唾液が自然と唇へと集まってくる。

 これはもう限りなく直接に近い間接チューだ。

 このリップの先端にはお兄ちゃんのお口の粒子が凝縮されている。

 それが今、私の唇の粒子と交換されているわけだ。

 私、今すごく幸せ。

 ってか、このリップ全部食べたい。


「セリカちゃん、塗り過ぎだよぉ」


 ムチューに、夢中になっていた私はお兄ちゃんの声に我に帰る。


「ごめんごめん、ごちそう……ありがとうお兄ちゃん」


「じゃあ、次花咲さんね」


 そう言って、お兄ちゃんが花咲の唇にリップを塗ってあげる。

 ふふっ、ざまぁみろ花咲。お前は私と間接チューだ。


「はい、おしまい」


 そう言って、花咲の唇に塗り終えると、お兄ちゃんはリップを捻って元に戻す。

 そこで賢い私は、「ん?」と思った。

 次にあのリップを使うのはほぼ間違いなくお兄ちゃん本人だろう。

 そうするとだ。

 そうすると、お兄ちゃんの唇に花咲の唇が……がががぁ!?


「ちょっと待ってお兄ちゃん」


「ふぇ?」


「もう一回それ貸して」


「どうしてぇ?」


「また唇乾いたから」


「ええ、そんなにすぐには乾かないよぉ?」


 もちろんだ。

 私の唇はすっかりお兄ちゃんと同じストロベリップになっている。

 それでも私はやや強引にお兄ちゃんの手からリップを奪うと、先に自分の唇を舐める。

 これでお兄ちゃんの唇成分は私の体内に取り込んだ。もう私のものだ。

 そして、もう一度リップを唇に押し付ける。

 花咲の唇の粒子をはがし、私のをここに残す!

 今度使うときはお兄ちゃんは私とチューするんだよー。

 てへへー。


「いやー、ありがとうお兄ちゃん。これでしばらく乾燥しなくてすむわー」


 私がすっかりぬらぬらになった唇でそう言うと、お兄ちゃんは眉を寄せてリップの先端を見て、そこをハンカチで拭った。

 ……え?


「な、何で拭くの?」


「だって、セリカちゃんが押し付けて使うから、先のところ潰れちゃったんだもん。何かすごく減っちゃったし。もうセリカちゃんには絶対貸さないから」


 お兄ちゃんがぷんすかした様子で歩きはじめる。

 私は目の前の欲望に目がくらんで、本当に大切なものが何か忘れてしまっていたのかもしれない。 

 大切なのはお兄ちゃんの唇じゃない。


 (すべて)だ。

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