スキマスイッチ。
プールサイドに掴まりながら、足でパチャパチャとしぶきをあげるお兄ちゃん。
もちろんお腹の浮き輪はそのままだ。
花咲がお兄ちゃんに泳ぎを教えようというのだが、私はこれには最初は反対だった。
普段から運動しないお兄ちゃんが全身運動である水泳に挑むなんてハードルが高すぎるのだ。
そもそもここには遊びに来ているのであって、体育の授業のようなことをさせられるお兄ちゃんがかわいそうだと思ったのだが、その本人が、
「花咲さんみたいに泳げるようになりたい」
と言うのだから、妹としてその気持ちは大切にしてあげたい。
「お兄ちゃん、がんばって! もっとバタバタしないと沈んじゃうよ!」
「う、うん」
「あ、でもモーションは大きくだよ!」
「え、うん」
「もう少し足を開いた方がいいね!」
それにこうやってお兄ちゃんがバタ足する真後ろに立って監督するのも案外悪くないものだったりする。
足が上下にパチャパチャする度にタンキニパンツの裾の隙間からビキニショーツがチラリチラリとリズムよく見える。
これにお兄ちゃんのバタ足のしぶきというご褒美を顔面に受けることができる。
これ以上のご利益はない。
そんなことを考えながら小さな幸せを噛みしめていると、
「ひゃう!」
と、まるで小動物が仲間に危険を知らせるような声がしたので、何ごとかと目をこらすと花咲がお兄ちゃんのお腹に直接触れて体を支えていた。
何というグッドアイデア。
合法的にお兄ちゃんのお腹に直接触れられる機会なんてそうそうありゃしない。
そんな浮きあがる気持ちを抑え、浮き上がるお兄ちゃんのお腹を押さえる。
しかし、幸せ半分。
現実を再確認。
……どうしてだろう。
どうしてこんなにお腹ぺったんこなんだろう。
おかしい。
どこを探っても肉がない。
いくらなんでも、いくらなんでもだ。
小学生女子なんて多少ぽちゃっとしてるはずだ。
いや、お兄ちゃんは厳密には女子じゃないけど。
いやいや、だからか?
これは男の子と女の子のハイブリッドであるお兄ちゃんゆえなのか?
でも、それにしても細すぎる。平ら過ぎる。
正直、少しうらやましい。
「お兄ちゃん、もっと食べなきゃダメだよ!」
「た、食べてるよぉ」
「もっともっとだよ。だからそんなお腹ぺったんこなんだよ!」
「で、でも花咲さんだって」
お兄ちゃんの視線の先を見る。
出るところは出て引っ込むところは引っ込む。
この、
「エロボディが!」
「エ――」
という花咲の反論が来るかと思ったが、それより先に甘い声が割って入る、
「エロくないよ!」
「え?」という声も出ない口をぽかんと開けたまま、私はその声の方に目を向ける。
「エロくなんかないもん、花咲さんは!」
「え、あ、うん……」
「花咲さんは、花咲さんはかわいいもん! エロくないもん!」
「そ、そうだねお兄ちゃん。私が悪かったからもう忘れよ。ね?」
何てことだ……。
お兄ちゃんの口から『エロ』なんて単語が飛び出たことに何ともいえない気持ちになる。
ってか、当然と言えば当然なんだけど、お兄ちゃんの脳にそういう知識が少なからずあることが非常にショックだ。
私もお姉ちゃんもそういうことからは神経質なくらいにこのブリリアントプリンセスを遠ざけてきたのに……。
我が家ではテレビでキスシーンが始まりそうになるとチャンネルが変わる。
別にそれくらい構わないじゃないかと思われるだろうけど、そういう些細なところからお兄ちゃんの中の『男の子』が目覚めてしまうことを私たちは非常に恐れている。
だからお姉ちゃんは基本見たいドラマは録画して、私たちが学校に行っている間に見ている。
お兄ちゃんにはお花畑の真ん中で子鹿とかクルミを抱いたリスなんかに囲まれて、歌でも歌っておいてほしい。
その後は、十分ほどバタバタしたところでお兄ちゃんが疲れてしまったので、早くもプールからあがる。
お姉ちゃんと花咲父の待つもとへ行くと、何だか話が盛り上がっていた。
「何か盛り上がってるね」
「あれ、あんたたちもうあがってきたの?」
そういうお姉ちゃんの目は笑っていながらも、若干迷惑そうだった。
「だっておに……セイラがこんな状態だから」
花咲父の前で『お兄ちゃん』と呼んでいいものかと思い、言い直すと、すでに床にへたり込んでぜーはーしているお兄ちゃんを目で示す。
「何したらこんなになるの?」
「泳ぎの練習?」
「セイラに水泳なんて無理に決まってるじゃない。フローリングの上でバタ足の練習してても溺れるのに」
「で、で、でも、二めーとる、およ、泳げるように、なた、よぉ~……」
行き絶え絶えなその言葉を聞いて私も花咲も驚いた。
あれは『泳いだ』つもりだったのか……。
私たちには浮き輪をしながらその場でじたばたしているお兄ちゃんが、横を泳いでいく人達が起こした波によって『流れた』ふうにしか見えなかったのだが。
しかし、ものすごく薄目ながら目を開けて水に顔をつけられるようになったことは一歩前進だ。
「で、お姉ちゃんたちは何の話をしてたの?」
と、私が話を戻すと、お姉ちゃんが
「ミチルちゃんのお父さんのお仕事の話」
実はね、と話すその内容は花咲父が大手のアニメ制作会社に勤めているという話で、そこは「プリンセスアキュラシー」を手がけている会社だった。
だから花咲父がプリキュラTシャツを着ていたのも納得だという話だったのだが……果たしてそこを素直に結びつけていいのだろうか。
花咲父は戻ってきた娘に対して、
「今日の充はプリキュラで言うとキュラバーミリオンだな」と言う。
それに対してお兄ちゃんが、
「キュラバーミリオン?」
と返したのがよくなかった。
「うん。キュラバーミリオンは美人でまっすぐでプリキュラの中で一番の機動力を誇る戦士なんだ。でも、バーミリオンちゃんの本当の魅力はもそこじゃないんだよ。第十二話のエピソードでバーミリオンこと夕暮朱音ちゃんが、実はちょっぴりさみしんぼで甘えんぼなことがわかって、そこで一気に人気に火が付いたんだ。実質今のシリーズの起爆剤となったのは朱音ちゃんのおかげなんだよね。強いキャラクターの陰に隠れた、弱い本当の自分。それが幅広い視聴者の胸を打ったわけなんだけど。でも僕はそれ以前からバーミリオン推しだったから、ちょっと思うところもあるんだけど、そこは二律背反。仕方ない。でも、本当のあの子のいいところは家族思いなところなんだよ。ミーハーなファンの間では今ひとつな家族との絆回だけど、あそここそがあの子の魅力の原点なんだ。長女に生まれ、母を亡くし、幼い兄妹の面倒を見なければいけない、しっかりしないといけない。そうやって『お姉さん』であろうとするあまり本当の自分の気持ちを表に出せなくなってしまった。しかし、そんな中プリキュラになり、ありのままの自分の気持ちを直接ぶつけることができる仲間を見つける。そこから――」
花咲に向けられたはずの言葉はいつの間にか私たち全体に向けての演説となり、花咲父のキュラバーミリオンに対する愛の深さをこのあと二十分近く聞かされることになる。
バーミリオンという名前が出る度に、お姉ちゃんの目はホワイトになっていった。
この人、見た目は問題ないのに中が酷過ぎる。
☆
家を出たのが遅かったので、早くもここらで昼食を取ろうということになり、一同プールサイドの端にあるフードコートへ。
そこでラーメンとチャーハンのセットを手にテーブルに着く。
この際、お兄ちゃんには割り箸だけを運ぶお仕事だけをしてもらう。
ラーメンを前に、早速お姉ちゃんはお店に別に用意してもらった小さなお椀にラーメンを移す。
「ほらセイラ、熱いからこっちのから食べなさい」
うん。と返事をすると、
「いただきま~す」
と、パチリと手を合わせるお兄ちゃん。
それを見た花咲が、
「ははっ、セイラ何か小さい子みたいでかわいいな」
「え?」
花咲に笑われ、またしても自分の何がおかしいのかと体のあちこちを確認しだすお兄ちゃん。
挙句、何を思ってか水着の胸元まで引っ張って確認するもんだから、たまたま隣で立っていた私は、お兄ちゃんのスキマスイッチが見えてしまいそうでドキドキした。
そんな様子に花咲がはははっと更に笑って、「違う違う」と言ってお兄ちゃんの前のお椀を指差す。
「あたしも小さいころとかよく火傷しないように、そうやって別のお椀に分けて食べてたから」
私が、あーあ。と思ったときにはすでに遅く、
「ボク、こっちから食べるから。大丈夫だから」
またもやそう言って意地になると、鉢から直接ラーメンを啜とうとしては「あっ、あっ、あふっ」となる。
それはそれで非常にかわいいのだが、お兄ちゃんのあの美しい形の唇をこんな安っぽいプールサイドのラーメンで火傷させてはバカバカしい。
「いやいやセイラ、何も花咲に合わせてあげる必要もないんじゃない?」
いきなりの私にアドリブの同意を求められ、困った笑顔を見せるお兄ちゃん。
その内心は「え、え、何の話かわかんないよぉー。セリカちゃーん(汗汗)」ってとこだろう。
大丈夫だよ、お兄ちゃん。
世界中の人間を敵に回しても私はお兄ちゃんの味方だし、世界中の神様がNOと言っても私はお兄ちゃんと結婚するし、世界中の医者が不可能だと言ってもお兄ちゃんの子供を産むから。大丈夫。
「タイ料理だとそうやって直接麺をすするのってマナー違反なんだよ。だから一旦レンゲに乗せてから口に運ぶらしいんだけど。で、そこから日本風にアレンジが加わって、こうやって小さなお椀に小分けにして食べるのが青山のOLの間では流行ってるらしいよ」
「へえーそうなんだぁー」
と声をあげるお兄ちゃんだが、花咲の視線に気づいて、「そうなんだぁー……よぉ花咲さん」と笑顔で切り返す。
しかし私の言ったマナーの前半部分は本当だが、後半部分は嘘っぱちである。
正直、青山とか言っておきながら真っ先に私の頭に浮かんでいるのは、洋服屋の看板なのだから。
そもそも私たちが食べているのはとんこつラーメンであって、タイ料理とは微塵も関係ない。
しかしそこは脳味噌シンプルな花咲なので、「あたしもそれにするわ」と言って店から小さなお椀を持ってきて、小分けにして食べ始めた。
どうか花咲がこのことを学校で言い触らさないことを祈る。