1-01 やってきました。異世界です。
「キクジン村ァ!? お前っ……冗談もほどほどにしてくれ。なぜそこからの依頼を受けた?」
淡い色合いの家が立ち並ぶ港町の一角。
木造の一軒家に響いた女性の声が、朝の穏やかな空気を切り裂いた。
女性の名はベニヒ。右で一つにまとめた蒼い髪を揺らし、音をたててソファーに腰掛ける。
「そもそもあんな村、魔物が出なくても毎年一度滅びているようなもんじゃないか、雨期に湖になるんだから。今が丁度その時期だろ? 勝手に滅ばせておけばいい」
瓶から酒を直飲みする彼女に、それまで黙っていた男性——女性と似た顔立ちをしている——が口を開いた。
「そんな言い方無いんじゃないの、姉さん」
彼の名はグリエ。
ベニヒが激高する理由を持ってきた主は双子の弟である彼だったが、
こちらは至って冷静なまま床へ放り投げられた資料を拾い上げた。
「あの魔物研究協会から直接持ちかけられた依頼なんだ。断ることはできないよ」
「それだけでお前がこの依頼を受けるとは思えないな。報酬か?」
目を細める姉ベニヒに、弟グリエは息を吐く。
「……わかってるでしょ。そうじゃなきゃキクジン村なんて名前も見たくない」
「さすが我がギルドの会計担当。お金に飢えてらっしゃるな」
「姉さんこそ、代表なんだから酒ばっかり飲んでないで仕事してよね」
その言葉にベニヒはしぶしぶとソファーから立ち上がる。
「仕方ないな、行くならさっさと行って終わらせよう」
「えっ、二人で? 僕あとレヨンあたりを誘おうと……」
「レヨンはやめたほうがいいって。ろくな思い出ないだろう、あそこに。
ほら、早く早く。わたしは休肝日明けなんだ。縁起の悪い依頼はさっさと終わらせるに限る」
ベニヒは簡単な荷物を袋に放り込んで背負い、腰にベルトを巻いて安物の剣を挿した。
慌てて準備を始めるグリエを置いてラフな格好のままに外へ飛び出す。
転送門をくぐりひとまず最寄りの村へと向かうために。
目的のキクジン村へは一日もかからない距離だ、夜までには帰宅できるだろうと算段を練る。
この時期村には住民も居ないし、面倒ごとが起こるとも思えない
————そう思っていた。この時は。
「……嘘だろ」
雨期。地域によってはひどく雨が湧き、地上に人が住めない状況になる季節。
複数の山でできた島の一番低い場所にあるキクジン村は、雨が湧いても周囲に水を逃がすことができないために湖になる。
当然危険だから住民は避難し近寄らないはずであるのに。
「この季節になぜ人が」
ベニヒは眉根を寄せ、街を飲み込んだ湖、その中央を注視する。
そこには、一人の人間が浮かんでいた。
距離があるためいまいち状況を掴みにくいが、目を閉じているあたり気を失っているように見える。
ベニヒの目線を追ったグリエが首をかしげた。
「ここの住民かな」
「いや、服装からして違うだろう。回収してくる」
そう言うなり躊躇いなく湖に飛び込んだ姉にため息をこぼしつつ、グリエはゆっくりと辺りを見渡す。
どうあれ、ここへ来た目的を忘れるわけにはいかなかった。
「キクジンに現れた巨大魔物の調査……だっけ」
伝えられた魔物の情報を思い出す。
木を優に越えるほどだったという証言だったが、そういった大きさの魔物は見当たらない。
情報が本当ならば、動かずとも立っているだけですぐにわかるはずだ。
手際よく湖に浮かんでいた人間を回収したベニヒは、その人間を横たえ赤色の渦巻く小柄な石を地面に置く。
一瞬ののち石から炎が吹き出し即席のたき火が完成した。
「男だな、目閉じててわかりにくいが。暖まるまでここで様子を見ていた方がいい。……グリエ、頼めるか?」
「いや、姉さんもここで服を乾かすべきだよ。調査は僕が行く。姉さんがこの人の面倒見ていて」
「ああ、じゃあそうするかな」
背を向けた弟へ礼を言いつつ、ベニヒは黒髪の男に視線を戻す。
なぜこの季節にこの土地にいるのか。見たことのない造りの服をはじめ、不可解な点を多く抱く。
しかしその疑問に答えられる者は当然おらず、想像を巡らせるだけの時間が流れて服が乾きはじめた頃、
ぼこぼこと小さな地響きを伴う音と共に、湖の水位が上がりはじめた。
雨である。
それまで手持ち無沙汰に眼前へ広がる湖を眺めていたベニヒは、その異変に胸をなで下ろした。
高い場所に焚き火を置いたのは正解だった、と。
じわじわと上がる水位。
湖の底に沈んでいた土や砂が水流に巻き上げられ、それまで半透明だった水の色がすっかり泥水へと変わる頃に、
それまで微動だにしなかった黒髪の男の指先がピクリと動いた。
ベニヒが慌てて声をかければ、彼はゆっくりと上半身を起こし、呆然と辺りを見渡しはじめる。
ふと合った目にベニヒは「めずらしい」と感想を抱いた。
ここまで他の色の混ざらない黒の瞳はなかなか見ることがない。
30年と生きた彼女でさえ、その瞳を見たのは生まれてこのかた一度しかなかった。
「寒いだろ、もうちょっと火に近寄るといい」
「……こ」
「ん?」
「ここ、どこ……ですか」
絞り出したようなその声には焦りが多く含まれていた。
そして何を考えたか、男はさらに驚いた様子で自身の喉を触って「あー」「うー」とうなりはじめる。
ベニヒはあわてて少しだけ男との距離を詰め、可能な限り優しい声を意識した。
「どうした。ここはキクジンだ。どうしてこの季節にこんな場所に居る?」
「キクジン? それはなんですか?? ここは、あなたは……?」
「私はベニヒ。キクジンはこの村の名前だ。大丈夫か?」
「村??」
どうも様子がおかしい、と明らかにおびえている様子の男にベニヒは眉を寄せる。
キクジンは神の産まれる地。
村内にのみ伝わるその言い伝えを証明するかのように、遠い昔からこの村には大自然に組み込まれた強い結界が張られている。
その村の存在を知り行く意志をしかと持っていない限り、人間は足を踏み入れるどころか近寄る事も不可能。
しかし、今ベニヒの目の前に居る男の様子はキクジンの名を知らない人のそれ。考えられる可能性は……
「記憶喪失か?」
「なっ、そんなことはありません! 自分は津島和音と言います。東京に住んでます」
「トウキョウ? トウキョウというのは、どこ属だ?」
「属?」
「どこの町も属している国があるだろう。ウォルノール、バクサアロ、シフォルア……どれだ」
「日本です、けど」
「ニホン?」
ベニヒが首を傾げると、ツシマと名乗った男は眉を寄せ動かなくなった。
声も出ない様子の彼にベニヒは頭を乱雑に引っ掻いて頭の中の質問を整理する。
「と、とりあえずだ。こんな雨期まっただ中にこんな場所に来てなにをしていたんだ」
「雨期?」
再び困惑した表情で天を見上げる津島に、ベニヒは今度こそ眉を寄せる。
「雨なんて降っていないどころか雲ひとつない、良いお天気じゃないですか」
「雨が降る? どういうことだ。見ろ、雨はお前の後ろだ。今ちょっとずつ水位が上がってきてる。湧き出まくりだ」
「雨が湧いて?」
わけがわからない。と小さくつぶやいては首を横に振る津島。しかしそれはベニヒの台詞でもあった。
本格的に噛み合ない会話に疲れ目を閉じた彼女に声がかけられる。
「目覚ましたんだ。どんな感じ?」
振り返ると傾斜をくだるグリエの姿。辺りの調査を終えて戻ってきたに彼に、ベニヒは苦笑いで答えた。
「おつかれさま。こちらは話が全く噛み合なくて困っているところだ。雨が降るとか言っていて……」
「雨が降る? ……僕それ同じこと言ってる人、知ってる」
グリエは少し考えるそぶりをしつつ津島に向き合った。
「初めまして、僕はグリエ。少し、一緒に来てもらってもいい?
僕らその地名は一切知らないけど、あなたと同じことを言っていた知り合いが居るんだ。一度話をしてみたら何かわかるかも」
グリエの落ち着いたその対応に、津島はおそるおそるうなずいた。
————
「目をあけて」
街と街との接続点となる転送門施設のホールにて、グリエは津島へ声をかけた。
ホールといえどそこに天井はない。
それは転送門を中心に囲むようにして石レンガを積み重ねただけの環状壁だ。
行き先を指定する札を持ち、環状壁の中央に置かれた大門を——正確にはその門に張られた膜をくぐることで、
目的の街へ行くことができるという無くてはならない、それでいながらすでに複製する技術は失われてしまった交通手段である。
数秒前まで居た小屋のようなホールから一切変わってしまった景色にふらつく津島を、ベニヒは目に留める。
「酔ったのか。もしかして転送門はそんなに使わない人か?」
「いえ、初めて使いました。自分の住んでいたところにはこんなすごいもの、なかったので……」
間も無く夕飯の時間帯。
潮の香りが鼻の奥を突くパステルカラーの町並みや石畳は、天と同じオレンジ色に染まりつつある。
街の中央を横断する大通りを、ベニヒが小型のボトルを呷りながら前に出た。
「ここはブラウ。ウォルノールの港町では三番目に大きくなんでも揃う市場が有名だ。ウォルノールの名前は聞いたことあるか?」
「ない、です」
「本当にここのことを知らないって様子だな……。とりあえずそのグリエの言う人に頼るしかないな」
ふあ。と緊張感なくあくびを漏らしたベニヒは、しかしグリエの案内でたどり着いた家の前で身体を硬直させた。
「ここが? いや、でもこの家は……グリエ、本当なのか」
「そうだよ。姉さんは全然話しないまま休肝日入って昨日まで家に引きこもっていたでしょ。
だから僕が落ち着いた時に少し話をしにきたんだ。そのときに、ツシマカズネと同じようなことを言ってた。
雨は上から降ってくるもので、生まれ育ちはニホンという国」
グリエが喋りながらその小さな一軒家の扉を叩く。
騒々しい足音を響かせ中から顔を出したのは、癖の強い茶髪と双葉のような特徴的な癖毛を揺らす長身の男だった。
ベニヒとグリエを視界に入れたとたん、彼は顔を輝かせる。
「グリエさんと……ベニヒさん!!ですよね。 こんにちは!!」
「こんにちは、ソラ。今空いてる? ちょっとソラに紹介したい人がいるんだ。お邪魔してもいいかな」
「どうぞどうぞ!!」
やたらと元気なその声に、グリエ短く礼を言った。玄関を閉めたところで、男は津島に人懐っこい笑顔を向ける。
「俺、宓浦 空って言います!! ええーと、ベニヒさんとグリエさんのお知り合いですか?」
それにグリエがここまで来た経緯をざっと説明すると、空と名乗った男は両手で口を覆い癖毛をひょこんと揺らした。
「嘘!! つまり和音は日本人ってこと!? やべえ、すげー嬉しい!!
全然違う世界に来ちゃったみたいで、どうすればいいかわからなかったんだよ〜!! 俺だけじゃなくてよかったぁ」
小さく跳んだり足踏みをしたり、全身でひととおり喜びを表しきった空は、やがて津島に右手を差し出した。
「改めてよろしく! 俺がこっちに来たのは四日前くらい前。ここの街のはずれでベニヒさんとグリエさんに拾ってもらったんだ! 気軽に空って呼んで!」
おずおずと握りかえされるやいなや、大きく三回ほど振って口角を引き上げる。
二人の手が離れるのを見計らってベニヒが口を開いた。
「それは、お前らの世界では挨拶ってことなのか?」
「はい! 握手っていうんですよ!! 挨拶です」
二人が会話をするのはこれで二回目だったが、そんなことを思わせないほどに人懐っこい笑顔で空はベニヒと握手を交わす。
なんだか楽しくなって、ベニヒはそのつないだ手を上下に大きく揺らした。
「姉さん、落ち着いて。とりあえずツシマカズネもここを使ってもらう感じで……大丈夫?
ソラと状況が同じなら他に行くあてもないんだろうし、拾ってしまったからには帰れるまで場所を貸すよ。
家具も必要なのは一通りあるだろうし……お金もある程度はあるからしばらくはやっていけるんじゃないかな」
「えっ。場所、貸してくださるんですか!?」
「ああ、遠慮せず使ってくれていい。
ソラもこんな性格だからあまり気をつかう必要はないだろうし、一人でいるよりなにかと心強いだろう。
ソラもよかったな。同じ国の人と会えて」
「今日いろいろと話を聞くのは焦燥だろうから、明日聞かせてよ。
僕は二人が住んでいた場所のこと気になるし、帰る手伝いもしたいから……とりあえず今晩はゆっくり休んで」
津島と空が頷くのを確認した二人は、挨拶もそこそこに一軒家の扉を閉めた。
はやくも人影がなくなりつつある道を戻りながら声をひそめる。
「あの二人には一体なにがあったんだろうね」
「さあ? わからないけど、とりあえず私が休肝日で家に篭っている間にお前がソラと多少なりとも交流を持っていたことには驚いてるよ。抜け駆けっていうんだぞ、それ」
「……だって一人ぼっちになんてさせられない。きっと彼にとってここは見知らぬ土地だから。
一日一回ペースで顔を出しては、なんとなく彼の住んでた場所のことを聞いてたんだ。
興味があったのは僕だけじゃないよ。グルーンも一度、一緒に会いに行ってる」
二人が向かうは、ギルドが行う仕事である『依頼』の紹介、そして報酬受け渡しを主に担っているギルド『ギルドセンター』の看板がかかる場所。ひとつの街にひとつあるその建物へたどり着く前にグリエは歩をゆるめ、拾ってしまった二人の男の話から話題を変えた。
「姉さん、ちょっと今回の依頼、問題があったんだ。
依頼主である魔物研究会へはそのまま報告書類にして提出するつもりだけど、その前に一応言っておくね」
声は出さず、眉だけ寄せる姉にグリエは言葉を選ぶ。
「すごく言いにくいんだけど……依頼にあった標的がいなかった。依頼達成はできないかもしれない」
「まあ、そのときはそのときだろう。無い話じゃない。……あっ、そういえば私もツシマカズネに気をとられるあまり確認しそびれていたが、あの森なんだか変じゃなかったか。生き物の気配がごっそりえぐられたようになくなっている気がしたんだが」
「姉さんも気がついてたんだ。言う通りで、森の中から生き物の呼吸音は全く聞こえなかった」
たとえ魔物がその場を離れたとしても、しばらくの間はその場所に残る気配という名の存在の残り香。
それがなくなっているとベニヒは言った。そしてそれは、ギルドセンターの扉を開けようとするグリエも感じていたことだった。
カランと扉に付けられた鐘の音に隠れるか隠れないかの声量で、彼は最後に言葉を吐く。
「調査依頼に書いてあった魔物が関係しているのかもしれないけれど、たぶんあの森、もう使い物にならないね。次行くときが楽しみだよ」