破章 1
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人間一人を持ち上げるのがどれだけ大変な作業かということを、綾はこの時初めて知った。
ボールは、口では手伝うと言いながらも、事実あまり役に立たたず(手がないので手伝いようがない)、汗水垂らして自室に運び込んだ時にはもうすっかり日が落ちかけていた。
結局、綾はボールと相談した結果、被害に遭った男性の二人の死体はその場で放置することに決めた。
近いうちに警察が来るかもしれない。救急車がやってくるかもしれない。
そう思いつつ綾は他の地域住民の通報を待った。恐らく綾自身が通報しても問題はないと思うのだが、ボールが、これ以上人間に正体がばれると私は家族もろとも殺されます、と嘆いたので出来なかったというのが大きい。
部屋に着いてすぐ、女性の持ち物であるハンドポーチを勝手に探ってみた。中から車の免許証を発見し、女性の名前は沖浦岬と知った。
岬の上着を脱がして自分の布団に寝かせ、綾は背伸びをしながら台所まで飲み物を飲みに向かう。
水道の口を捻り、コップに水を入れて煽って一息つく。
「疲れた……」
「その一言ですか……」
並の神経ではありませんですね。と続けてボールが言うと、その体を綾が右手でがしっと掴んだ。
綾の真横でふよふよ浮いていたボールは身動き一つできずに、綾のアイアンクローを受け止める。
「いた、痛い」
「あのね、異常事態に巻き込んどいてそれはちょっとあんまりないいかたじゃない? 私もね、かなり動揺してるね。それはもう期末テストで欠点七つ取った時、いやそれ以上に。おわかり?」
ぐにゅんぐにゅんと五指を使って揉みまくる綾。次第に「あ、地味に楽しい」などと言いだしたところでボールが謝罪を口にした。
「期末テスト……。まあ置いておきましょう。ところで綾さん、あなたお風呂には入らないんですか?」
突然の質問。綾にはその意味が分からなかった。
「え? なんで。まだ早いよ?」
時計の針は午後六時を回ったばかりだ。普段より二時間ほど早い。
「綾さん。気がつかないんですか? それとも私をからかってますか?」
「いやからかってもないし、うん。気づいてもないね」
「服」
「ん?」
「血だらけですよ」
言われてバっと自分の服の裾を見る。
なるほど、確かに血で所々赤黒く変色している。さっきの男の返り血だろう。
「靴下はぐちょぐちょだったから気がついたんだけど、服は分からなかったよ。ありがとボール」
綾の感謝に、ボールは何も言わなかった。
○
「るーららるー」
流行の唄を何とかそらで歌おうとして失敗し、仕方がなしにラ行の音で誤魔化しながら続ける綾を、ボールは無表情で見つめていた。
「歌下手くそですね」
「そう?」
「ええ、私今まで三ケタに近い少女たちを見ましたけど、ワーストスリーに入りますよ」
「あらら……」
風呂場で服を脱ぎつつ歌っていたものが、予想以上に不評だったため綾は歌うのをやめた。そんなに下手でもないだろうと思いながら、肌着を脱ごうとするが上手く脱げない。
「あー、ボールちょい引っ張って」
「子供ですかあなたは」
丸い体をぐいぐいと押し上げてなんとか脱ぐことに成功する。
粘っこくまとわりついた理由は、汗と血液だった。
「ちょいと浸透しすぎなんじゃないかな……」
浴室とほとんど一体化している洗面所。その横にある洗濯機に、脱いだ服をぽいぽい投げ込んでいくが、上着とズボンは処分することに決めた。とてもじゃないが着れる状態ではなかった。
「ところでボールってさ、性別上どっちに当たるわけ?」
下着一丁となった綾がどうでもいいようにボールに尋ねた。
「性別ってものがないんですよね。私たち。繁殖しないっていうか。だからまあ減らされると困るんでフェイク討伐に四苦八苦してるわけですけど……」
「へえそうなんだ。じゃあまあいいか。気にしなくて」
着ているものをすべて脱ぎ去り、綾はボールを鷲掴みしながら浴室に入った。
2LDKのアパートの標準的な大きさの浴室。横開きのドアで、右方向に押すとからからとこ気味よい音を立てる。備え付けの鏡の下には、シャンプー、リンス、コンディショナー、ボディソープと並んでいる。姉である頼子の配備だった。
「痛い! なんで掴むんですか!」
「まあちょっと見られたら引くかなって思ったから。あのさボール。私の体見てもなんにも言わないって約束できる?」
左手にボールをひっつかみ、右手でシャワーのコックを捻る。
まだお湯になっていない水が綾とボールを襲う。
「寒い冷たい痛い! 言いません言いませんとも。だから放してくださいよ!」
「約束なー」
ぱっと手を放され、ボールはしばらく景色が見えなくなる。
「あー、明るすぎて見えません」
「驚いた。まさか生物じゃない君に明順応が起こってるなんて」
「なんです? それ」
ようやく視界が慣れてきた頃には、湯気が激しくて綾の体は隠されていた。
「どうでもいいんですけど、なんで私を風呂になんて入れたんですか?」
「裸の付き合いってあるじゃん?」
小さな風呂用の椅子に座り、シャンプーを使って髪の毛を泡立てながら綾は言った。
「それって女性の場合も使うんですか? 基本的にその言葉って男性同士が親交を深めるために使う言葉だと思ったんですけど」
綾の膝の上に乗りながらボールは問う。口を開く度に上からぼたぼたとシャンプーの泡が侵入し、噎せ返る。
「まあ君が純粋に臭かったってのもあるんだけどさ」
「臭いはしないはずですよ? 私体にコーティングしてますし」
「なんだよそれ。でもなんか君べたべたしてるよ?」
「え、本当ですか?」
「三十路一歩手前の男が初めて加齢を感じさせた感じ」
「すいません、もう少しわかりやすくお願いします」
シャンプーを洗い流し、ボディソープに手を伸ばす。その伸ばした腕を見て、ボールは初めて綾の体の異常を見てとれた。
「綾さん」
「安心して。本当はそんな油ぎってないよ。多少埃っぽいだけで――」
「綾さん。私、目はないんですけどなぜか知覚はできるんです」
「ほう」
しゃがみ込み、くるぶし辺りを丹念に洗いながら感嘆の声を上げた。
「浴室に入るとき、綾さんは自分の体に何の感想も抱くなって言いましたよね」
「質問されるのは好きじゃないから。まあもう君ならいいか」
綾は諦めたように体全体を洗い流し、立ち上がった。
「何の刺青です? それ」
綾の体には無数の文様が刻まれていた。
円を基調とした模様が、腹部から腰を伝って背中、尻、太腿まで。線になったもの、点となったもの、数々の模様の羅列が綾の全身を覆い尽くしていた。
「刺青じゃないんだよなあこれが。どっちかっていうと青タンみたいっていうか」
綾は自身の痣をゆっくりと撫でた。
「手首と足首と首元にないのがせめてもの救いって奴かな」
「いつからですか? それ。以前はこんなものありませんでしたよね?」
ボールのいう以前とは九年前のことだ。その時はこんな派手な痣なぞなかったはずだ。
「あったんだけど小さかったんじゃないかな。年齢と一緒に大きくなっていったみたい。あとこれなんでか知んないけどお湯浴びると自然と浮き出てくるんだよね」
湯ざめしないよう、とぷんと足の先から浴槽に浸かる。ボールもそれに倣って、綾の正面でアヒル人形のように水面に浮かんだ。
「さっき言ってたよね。私の能力教えろって」
両手で水鉄砲を作ってボールにお湯を飛ばす。嫌がりながらボールは頷いた。
「風呂場だし、特別なことで証明ってわけにはいかない。だからまあ言葉だけの説明になるんだけど、それで君は納得する?」
「納得かどうかはわかりませんが、とりあえず話してもらえませんか?」
綾は分かったと同時に、また水鉄砲をボールにぶつけた。