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乙鳥綾の肉体はただの女子高校生にすぎない。
平凡な、しいて言うなら平均よりやや胸周りが見劣りする程度で、あまり平均とかけ離れていない。
特別運動が得意なわけでもない。現に彼女は今現在も帰宅部だし、なにかスポーツに熱くなれる性格でもない。
特別おしゃれなわけでもない。髪だって手入れが簡単なように短めにしてある。姉の友人に美容師の卵がいて、練習台と称して切られることがあり、その髪型は決してダサくはないものの、それ以外は全くノータッチ。化粧は化粧水と冬場にリップクリームを塗るくらい。マニキュアなんてしないし耳も開けない。鞄が欲しいと思ったこともないし服だって姉のお古で満足できる。
友人からは、「あんたって本当に自己主張って言葉とかけ離れた存在よね。もったいないなあ」とよく言われる。
その通りだと綾自身もよく分かっている。
周りに流されるように生きてきて十と七年。
綾は自己主張すらどうでもいいと思ってきた。
だが一つ。
ただ一つ。
綾自身も気がついてない唯一の綾の個性がある。
綾の友人はそれに皆が気づいている。
綾は自分のことならどんなことも【どうでもいい】と思っている。
ただし、他人の為ならどんなに危険でも、どんなに無駄なことでも。
決して労力は惜しまない。
それは自己犠牲とは少し違うものだった。
傷ついたり、困ったり、迷ったりしたら嫌だ。
自分がなったら嫌なのなら他人がなったって同じように嫌だろうと綾は思う。
ならば手を貸してあげてもいいじゃないか。
困った人を助けるのは当然じゃないか。
その思いを胸に、乙鳥綾はこれまで生きてきた。
だから、
「どおおりゃあぁあああ!」
綾は勢いよく飛び蹴りを男に繰り出し、男は衝撃で転倒した。
「逃げて! 早く!」
綾は叫ぶ。
見も知らない、がたがたと震わせる女性に向かって逃げろと。
綺麗な女性だった。
淡いベージュの唇に大きくぱっちりとした目。ふわふわと波打つロングヘア。しかしその顔は恐怖に染まり、顔中ぐしゃぐしゃになっている。
「あ、あ、あ……」
腰が抜けているのか、女性は走ることはおろか、歩くことさえできずにいる。
【ぃっぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいッ!!】
虫の羽音の様な叫び声が綾の鼓膜を襲った。
耳を抑え、音の方向を見ると、男が立ち上がっていた。
綾は初めてその男を見た。
身長は170センチ前後。
服装は薄手の七分袖に痛んだジーンズ。髪型に主だった特徴はなく、今どきの若者の髪型をしている。
異なる点は二つ。
目に光が全く灯っておらず、変わりに白眼が充血していること。
もうひとつ、両の手が血でびっしょりに濡れていること。
よく見ると爪の間に人の肉であろう物質が詰まっていた。
男は無言で綾に迫る。
「うっ」
放たれる右腕からなる拳。
辛うじて上体を捻り、避けれたものの眼で追うことはできなかった。
「気を付けてください綾さん!」
遅れてきたボールが、綾から数メートル離れた地点で叫ぶ。
「そいつがフェイクです」
わかってる。
「魔法の効かない。フェイクです!」
だから、わかってる!
―――
「よいですか綾。神の声、神の囁き。導きが訪れるまで決してここから出てはいけません」
返事を返す前に扉は音を立てて閉ざされた。
無理だよ。絶対に無理だよ。
綾はそう言って扉を何度も叩いた。
まだ幼い小さな手で、何度も何度も叩いた。
そうすればいつかは誰かが扉を開けてくれると信じたからだ。
鉄で出来たそれは一発撃つごとに少女の拳を傷つけていく。
それでも叩く。
出して! 出してよ!
より力を込めて叩く。
お願い。お願いだから!
血が出て。指が曲がらなくなるまで殴った。
結局、誰も開けてはくれなかった。
出ることに諦めたわけではなく、綾は暗闇のその部屋で何があるか確かめたくて、辺りを慎重に見渡した。
調べはすぐに終わった。
何もない。
畳三畳分の広さしかないこの倉庫の様な祭殿に、いったい何を見つければいいのだ。
我慢すればいい。
そうしたらすぐにでも開けてくれる。
綾はそう信じ、扉を背にしてしゃがみ込んだ。
暗い。
時間は分からないが、大体五時間はたったと思う。
お腹は空くし、なんだか怖くなってきた。誰も助けにきてくれないんじゃないかという不安。
狭い。
恐怖心は膨れ上がっていった。
さっきまで落ち着いていたのが嘘のように動揺した。
また手がずきずきと痛みだした。
「っく、つぅ、ぅぅ……」
暗闇で視界が歪んだ。
己が涙を流していることに気が付き、それからは泣き喚いた。
力の限り叫んだ。
なんでもするから出してくれ、と。
返事はなかった。
さらに五時間。
綾の気力はとうに尽きていた。
もういい。
どうだっていい。
そこはそういう空間だった。
大人でも子供でも、誰もがこの場所に入れば生きる希望を失う。
綾の精神は壊れかけていた。
押し寄せる不安。
押しつぶされそうだ。
重くのしかかってくる何ものかの重圧。
どうでもいいじゃん。気にしなきゃいいじゃん。関係ないよ。【どうでもいいよ】。
綾がそう思った瞬間。
突如、視界が音を立ててぐわんと歪んだ。
―――
女性を逃すことは出来ない。
綾は戦闘の最中そう思っていた。
「綾さん! そいつは素手で人間の肉を切り裂き、骨を砕きます。捕まったら最後です!」
「ボール! 武器は!? 私がこいつを倒すのになんかないの!?」
「ありません! せいぜい弱らせて【捕獲】がいいところです。しかし相手は弱ってすらいません!」
ボールの言っていることを冷静に把握するならこうか。
一つ。武器がない。対抗策がない。
二つ。捕まえることはできる。しかしそれは弱らせなければいけない。
「どうしようもないじゃなん!」
男の動きは人では無かった。
獣のように両手を大地につけ、四足歩行で綾目がけて突進してくる。
幸いなのは女性の方に行かないことだ。
始めに綾が攻撃を仕掛けたことによって、相手は綾を敵と認めたようだ。
しかし戦況は辛い。
予備動作の少ない攻撃に反応出来るのもそろそろ限界だ。
喧嘩には慣れていないが、こういった戦闘には綾は慣れていた。
かつて、毎日のように敵と闘っていた経験のおかげと言っても良かった。
ちっと何かが掠れる音がした。
綾の顎の先端からは血が出ている。
(やばい)
綾は追い詰められたと感じた。
駐車場から女性と男を引き離すように移動していた綾だが、地面の小さな窪みに足が引っかかったのだ。
普段なら何ともないその窪みが一瞬の隙を突いた。
右足から繰り出された高速の蹴りに一瞬反応が遅れたのだ。
さっきのはなんとか避けれた。
でももう無理だ。テンポを掴まれてしまった。
チェスで言う所の「チェック」を言い渡された状態。
キングを移動させない限り相手に攻撃を仕掛けることはできない。
また、今回の場合相手にただ攻撃を仕掛けさていては自分は確実に死ぬ。
【ぃぃぃいいいいい!】
男はまたも吠えた。
そして攻撃を単調なものへと変えた。
コンパクトなスイング。必要最低限の動き。
(こいつら本当にフェイク? 動きが全然違う)
避けるたびにビュっビュという轟音が綾の耳元を駆ける。
「綾さん! 対抗策はご自分が持っているはずです! 使ってください! 私はこんなところであなたを失いたくはありません!」
ボールの声が遠い。
綾の意識が遠のいているのではなく、単に上空に移動しているのだろう。
こういう時に空を浮かべる奴って便利。なんて思っているとまた拳が降ってくる。
ボールの言葉は正しい。
確かに綾には対抗策がまだ一つだけ残されている。
ただし、
「駄目! 使えない!」
もう二度と使うのはご免だ。
大切な人を。
母を。
「それでも死にますよあなた!」
綾の服が破けた。
今までも避けた時にぎりぎりかわしきれなくなった部分が裂けていったが、限界がきてしまった。
下半分がするすると落ちていき、綾の足に絡みつく。
こける。
そうすれば私は死ぬ。
死ぬ?
嫌だ。
それは、それだけは、
嫌だっ!!
「ばかぁあああああ!」
崩れ落ちる瞬間はスローモーションでの映画のワンシーンのように感じられた。ゆっくりと大地に近づく綾。それを追撃するように右腕を振り上げる男。綾は地面に向かって手を伸ばす。
届け。
何よりも先に。この男よりも先に。
スローが切れた後、爆発が巻き起こった。